第6話 アークデーモン
……『それ』は激しく憤っていた。
取るに足らない矮小なエサの分際で、抵抗するとは何事か。
我が糧になる栄誉を喜び、その身を捧げるが作法というものだろうに。
――この世に満ちる有象無象の群れ。ヒトの出来損ない風情が、生意気な。
『それ』は崇高なる怒りに身を任せ、嘶いた。
かつては神託として、ヒトへ富と罰をもたらした、偉大なる主の叫び。
《ーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!》
それは空間そのものを歪ませ響く、声なき声の波濤だ。
天地を引き裂き崩壊させ、この世のありとあらゆる全てを打ち滅ぼす。
当然、ヒトモドキどもは受け止める事すら叶わない。骨も肉も魂も爆ぜ、塵と化す――はず、だった。
「い、今のはまさか『咆哮』か? 威力が段違いだが……つうかなんで俺たちは無事なんだ?」
『それ』に先んじてエサの一匹が疑問を呈する。
聞きたいのはむしろ、こちらの方だ。何故こ奴らが無事なのか!
生物でいうところの瞳は無くとも、『それ』が存在する空間自体が視界となり、器官となる。
不審と共に睥睨すると、周囲は木々のみならず、地面そのものが事象崩壊に巻き込まれて消失していた。
しかし、ぽっかりと空いた大穴のうえに、なんと三つの影が浮かんでいるではないか!
――不遜、不遜なり! 我に抗うは罪なるぞ!
これほどまでに不快な心持ちとなったのは、いつ以来か。
あの傲慢極まりない不死竜との争いでさえ、ここまで気分を害さなかった。
憤りに震えながらも、よくよくと見れば、ゴミ屑の中に覚えのある姿があった。
――アレはそうだ。少し前に分け身の一つを滅ぼした、許すまじきヒトモドキだ!
紛い物どもが『魔神』と呼ぶ『それ』は、全てが同一の意思のもとに共有されている。
個にして全、全にして個。現世と分かたれた、閉ざされし幽世に満ちた神意。
たとえ末端部分に過ぎずとも、害するものは誅さねばならぬ。
せっかく何百年ぶりかに現世へ顕現できた、最上位の分け身なのだ。この機を逃してはならない。
前回はあと一歩のところで邪魔が入り、現世への門を開くことは出来なかった。
今回こそはしくじらぬ。なんとしても復讐を遂げるため、『それ』の全てがこの世界に降臨するのだ。
焦ってはならぬが、さりとて鷹揚に構えることも出来ぬ。
なぜなら、星の巡りが良いのだろう。『それ』はこの世界のあちらこちらで、目覚めの声が上がるのを聞いていた。
西の地には、終焉をもたらす炎が。
東方からは、邪なる意思に身を委ねたかつての同胞が
南の彼方からは、全てを喰らう破滅の群れが
そして北の果てには、宿敵たる不滅の竜が
――させん、させんぞ!
――忌まわしき『運命』を砕く、その先鞭をつけるは我ぞ!
――この世界の真の支配者は、我なるぞ!
良く『視れ』ば、端末を屠ったエサは他の二匹とは違って光の結界を纏っていない。完全に無防備だ。
その態度がますます気にくわぬ、と『それ』は更なる怒りに身をよじった。
激情が収まらない。そうだ、やけ食いでもせねばこれは収まらぬと、『それ』は彼方へと意識を巡らせた。
少し離れた場所に集落がある。数はとても足りぬが、少しは腹に溜まるだろう。
目の前のコレに我が偉大さを思い知らせたら、あそこにある命を蹂躙しよう。
生あるものの苦悶と悲鳴。絶望に怯える魂の律動は、『それ』の何よりの馳走であった。
「……やはり、村に手を出すつもりなんですね」
すると、どうだ。まるで『それ』の意思を読み取ったがごとく、淡々とした声が紡がれる。
未成熟な姿のそのエサは、悠々と空中を闊歩しながら無造作に前へ出た。
「敵対回避は不可能と判断。申し訳ありませんが、今からあなたを処理します」
その涼し気な顔はなんだ。恐怖も怒りもなにも浮かばぬ、その表情はなんだ!
『それ』の憤怒は頂点に達した。
代償を払わせねばならぬ、と。『それ』は意思を振り絞った。
ただ念ずるだけ、それだけで十分だ。
「バカ下がれ!!」
もう一匹のエサが慌てた様子を見せるが、もう遅い。既に神威は発動した。
石化・沸騰・麻痺・液状化・崩壊・腐乱・発狂・衰弱・魂消失・粉砕・風化・心臓停止・惑乱・塩柱・五感剝奪・凶毒――
ありとあらゆる特大の呪詛が乱舞し、無限の苦痛と苦悶をもたらす。
かつて帝国と呼ばれた地にて起こし、何十万もの命を一瞬にして奪った破滅の権能だ。
愉悦と共に『それ』は愚かな虫けらの末路を嗤う。
――さあ、見るも無残な姿で、のたうち回……れ?
おかしい。なんだ、どうして何も起こらない?
肌が石化しない。血が沸騰しない。脳が腐り落ちない。呪いが何ひとつ発動しない。
驚きと共に身を揺るがし――そうして『それ』は気付いた。
あのエサは肉体の構成要素が違う。臓腑が見当たらず、血液がただの一滴も通っていない。
まるで『魔道人形』だ。紛い物の紛い物。出来損ないの木偶。
だが、あんなにもヒトに似せたモノがこの世に在るというのか?
驚愕と戸惑いは一瞬。瞬きするほどの刹那。
だが、その間隙を縫うようにして、ヒトモドキが動いた。
「装備、選択――」
呟きと共に片手が挙がる。
これまでと同様、なんの威も感じられない無造作な仕草。
だが『それ』の本能は、かつてない『危機』を察知していた。
「――Phantom Lancer」
怨敵の背が輝いたかと思うと、そこから幾条もの光が放出された。
稲妻よりも速く閃き、何百何千何万もの穂先と化して『それ』へと降り注ぐ。
だが、対応範囲内だと『それ』は安堵した。考えうる限り、行える限りの防御策は既に講じている。
久遠の時の中で練り上げた、如何なる攻撃をも阻む絶対の盾だ。
今は慢心を捨て、あれを防ぐことのみに専念する。反撃はその後だ。目にもの見せるはその後だ。
……『それ』の思考と反応は間違いなく最適であった。
遥か格下と断じた存在に対して、これ以上の策など有り得ない。
だが、その認識自体がそもそもの誤りであった事が『それ』の運命を分けた。
――馬鹿な。
硬質化させた空間を光が通り抜けてゆく。
――馬鹿な。
無限歪曲結界を光が直進してゆく。
――馬鹿な。
半幽体である肉体を光が捉えてゆく。
――そんな、馬鹿な!?
『それ』は心底から震えあがった。
これは魔術ではない、神から与えられた加護でもない。では、いったいなんなのだ!?
四方八方、雨あられと降り注ぐ光の槍は、狙い過たず『それ』を貫く。
射抜かれたのは単なる肉体にあらず。『それ』を構成する怨念であり、魂そのものだ。
まるで誘導されるが如く、光線は致命的な場所だけを的確に撃ち滅ぼしてゆく。
――やめろ、来るな!
いや、事はそこだけに収まらない。
地上に在るのは器であり、橋頭保。すなわち『それ』の意思を送り込む媒介である。
押し寄せる光の波濤は、器を通してその奥へ。
『それ』の本体が満ちる、幽世へ――
――よせ、やめてくれぇぇぇぇ!!
消える、消える消える消える消える消え失せる。
自我が意思が魂がなにもかもが喪失する。
まさしくこれは、幽幻の如く迫る――死を呼ぶ騎兵の群れ。
無限の光が乱舞し、穂先が閃くたびに『それ』が消えてゆく。
なにが悪かったのか、なにをしくじったのか。
もはや思考さえもままならない。今、自身を支配する思念の波はなんなのか。
怒りでもない、嘆きでもない。こんなことは、かつて神体が滅びた時でさえ知り得なかった。
わからない、わからない、わからない。
そうして、最後に残った欠片を光が捉える、その直前。
『それ』はようやく悟った。理解した。絶望と共に実感した。これこそ、神である自分が決して味わうことが無かったモノ。下賤な下等生物たちのみが有するはずの感情。
恐怖である、と――




