第5話 魔傷痕
黒い霧に覆われた森は、進むたびに不気味な様相を増してゆく。
木々を分け入り、草むらを跳ねのけ――そうして一行は最奥にたどり着いた。
「……見てください。アレがこの森の異変を引き起こした、その根源です」
キオが指さした方角へと視線を向け、ゲイルは目を見開いた。
「あれはまさか――魔傷痕!?」
木々の密集が解かれ、異様なほどにぽっかりと開いた空間。その奥にある岩壁に、黒光りする傷跡が見えた。
斜めにざっくりと、四本。巨大な爪で切り裂かれたかのようなそれは、恐るべき事実を示していた。
「あの、魔傷痕ってなんですか?」
「いや、それは知らねえのかよ!? なんでそんな知識が偏ってんだお前!?」
信じられない、とばかりに少年を凝視すると、ジェニーがやれやれと首を振った。
「仕方ないですよ、彼はただの村人ですから」
どこが『ただの』だ、どこが!? 罵倒したくなる衝動を必死に抑え、ゲイルは鋭く叫ぶ。
「アレはな、魔神がこの世に実体化した――その証だ!」
魔神、それはこの世とは異なる次元から現れるという、特殊な魔物の総称だ。
通常の怪物たちは、動植物が魔素に侵されて変化するのに対し、それらは魔素そのものが形となって現臨する。
ゆえにか、その力は他の魔物とは一線を画しており、存在するだけで世界を歪ませ災いをもたらす。
「一説によれば、それらは滅び去った神々の怨念に起因するそうだ」
魔に堕ち、気の遠くなるような歳月の果てに変節した意思、それが邪悪の権化と化して蘇ったモノ。
「奴らは刻まれた爪痕の数に応じて、格が決まる。一本なら下位、二本で中位、三本はお前が倒した上位の魔神――」
しかし、目の前のそれは四本だ。
歴史上、それが観測されたのはたったの二回。しかしそのどちらもが、おぞましい悪夢の記録として残されていた。
「直近では三百年ほど前、大陸南方にあったというクルディール魔術帝国に奴が現れたらしい」
当時、大陸南部を支配し隆盛を極めていたその帝国は、しかし一夜にして滅び去った。
帝都の中心部に存在したダンジョン・紅の迷宮。その最深部に突如として魔傷痕が刻まれたのだ。
「最強と謡われた魔術兵団も、優れた数多の魔法具も……まったく役には立たなかったようだ」
詳細は今を持って不明。伝書や早馬はもちろん、魔術による周辺諸国への伝達すら叶わなかった。
魔傷痕を発見したのも、帝都が崩壊してから数年後のことだ。異常事態を悟った属国の王たちや、当時の冒険者協会の重鎮たちも手が出せなかった。何故なら帝国が在ったその場所には、数多の魔神が跳梁跋扈していたからである。
「上位格の魔神はな、下位の魔神を招く橋頭保の役割を担うんだ。そうして次から次へと魔神が現れ……」
「あっという間に帝国を滅ぼしつくした、と。でも、それ以上の被害は広がらなかったのですか?」
「魔神はな、自身が生じた魔傷痕からそう遠くは離れられない。物理的な距離の壁があるらしい」
魔素による領域を広げれば、ある程度は枷を解除できるようだが、それにも限りがある。
これは長年の研究により判明した、冒険者協会による功績の一つだ。
「あとは、活動時間にも限界があるようだ。永遠にこの世界に在り続ける事は不可能らしい」
爪痕から目を離さず、ゲイルは言葉を続ける。
こうして口を開いていないと、気がふれてしまいそうだった。
話が途切れた瞬間、自身の命が消え失せるのでは――そんな妄想にさえ駆られてしまう。
「その魔神が現れてから、魔傷痕を発見出来るまで数年が掛かったんですよね? ということは……」
「そうだ、それまで調査に踏み込むことすら出来なかった。魔神たちが蠢いていたことに加え、異様に濃くなった魔素が、侵入を拒んだらしい。だから、その魔神がどれほどの時間、そこに在ったのかは誰にも分からん。だが、どれほどの短さであったにせよ――」
ごくり、と。ゲイルは唾を呑み込んだ。
「――国が滅びるには、十分すぎた」
体が震える。それは、生物としての本能的な恐怖だ。
絶対的な殺戮者、種として遥かに格上の存在が今、ここにいる……!
「キオ、といったな? すぐにここから離れるぞ。もう間に合わんかもしれんが、避難と救援を」
そのすべてを言い終える前に――視界の全てが闇に染まった。
「な……っ!?」
一瞬にして、暗黒の顎に飲み込まれてしまったかのようだ。天も地も、あらゆるものが色と形を失っている。
微かな救いは、ひとつだけ。自分たちを包む、ほのかな灯りだけだ。
それが無ければ、五感すら消失してしまったかもしれない、真なる闇。それが万物全てを覆い隠している。
――世界の終わりとは、もしやこのような光景を指し、表すべきものか。
絶望すら生ぬるい状況に、ゲイルは自然と膝を屈してしまう。
確実に迫る死、それが実感として伴い、戦士の心をへし折ったのだ。
涙がこぼれ落ちるのを防いだのは、それでも冒険者としての意地に他ならない。
「……キオ」
「大丈夫だよ、ジェニー。なにも心配要らないよ」
ここに至って、ゲイルはその言葉を慰めのものと判断した。
これはダメだ、これは違い過ぎる。戦いが成立する以前の問題だ。
いかに不可思議な力を振るう少年とはいえ、敵うはずがない。
上位の魔神など比べ物にならない圧倒的な存在感。
光の膜の、その薄皮一枚向こうから息遣いが聞こえる。涎が垂れて、舌なめずりするような音が響く。
捕食者に対するエサ。自分たちはそれだけの価値しかないのだと、ゲイルは理解してしまった。
「はは、ははははは……」
もう笑うしかない。まだ正気でいられるのが不思議なくらいだった。
闇が迫る、巨大な舌となってにじり寄る。そして、魂ごと自分たちを喰らい尽くし――
「ちょっとこれ、暗いですね。明かりをつけましょうか」
キオが右手をひょいっと掲げる。あまりにも無造作過ぎて、止める余裕すらなかった。
そうして指先が輝いたかと思った、次の瞬間。
闇が一変して、消失した。
「……へ?」
ない、なにもない。暗黒の帳が綺麗サッパリ消え失せた。
辺りには色が舞い戻り、木々の緑が目に眩しく映る。
「……は、え?」
なにが起こったのか。霧のように周囲を覆っていた暗い輝きさえ、どこにも見当たらない。
「クォォォォォ……ッ」
忌々し気な吐息が聞こえたのは、その時だった。
「――なにっ!?」
魔傷痕の前に、何かが在る。黒い、闇の塊のような何か。
それにゲイルが気付くのと同時に、漆黒の物体が爆発的に広がってゆく。
「……へえ」
興味深そうなキオの呟きに、応えたのかどうか。
それはやがて収束し、再び形を成す。
現れたのは巨大な、丸い球体だ。家屋ほどの大きさのあるそれは、つるりとした真っ黒な表皮に覆われている。
特徴的なのは、たったひとつ。その四方から生えた四本の角。それが示す事実は――
「――アーク・デーモン」
呆然と、ゲイルはつぶやく。
災厄を超えた滅びの現象にして、絶望の体現者。
伝説の――最上位魔神の、その名称を。




