第57話 氷室にて
――静謐が、その空間を包み込んでいた。
ぽっかりと開けた祠の奥、広々とした空間に『姫巫女』は凜と座す。吹き付ける風は冷たく、肌が凍てつきそうなほどに寒々しい。白無垢へと浸透してゆく『それ』を感じながら、ケーレは瞼を開けた。
四方を囲む氷の壁が視界に映る。座した膝から沁み込む冷気をしかし、ケーレは気にも留めない。
「――いよいよ、明日だな」
その声は、背後から聞こえた。
どこか諦念にも似た、それは哀切を帯びた声。
ケーレは微かに吐息を吐き出す。後ろから現れた人物が誰かなど、考えるまでも無い。
――ここへは近づけぬようにと、皆には言い含めておいたのに。
ケーレは氷の地面に両手を添え、くるりと反転して『彼女』へと向き合った。
「大婆様、ここへ来てはなりませんよ。お体に障りましょう」
「ふん、老人扱いするでないわ」
老森人――エジンが眉を上げ、大股気味に歩み寄ってくる。
「はしたのうございますよ」
「お前も、言うようになったの」
純白の長袖に身を包んだエジンは、ケーレの目の前まで足を進め――そうして、ピタリと立ち止まった。
「……覚悟は、出来ておるか」
「はい、しかと」
ケーレは微かに目を細めた。
自分を見下ろしているはずの老女の姿が、どうしてかひどく小さく思えてしまったからだ。
「大婆様、お嘆きになられることは何もございませんよ」
ケーレは膝立ちになり、皺が寄った頬をゆっくりと、ゆっくりと。労わるように撫でた。
「お母様も、そして祖母も。皆、このお役目を務めておりました」
そうして、ニコリと微笑む。
「私の番が来た。それだけの事でありますゆえ」
「……お前の母と、同じ言葉を吐くのだな」
「まあ、嬉しゅうございますわ」
震える頬を、ケーレは優しくなぞった。
かつて、子供だった頃。彼女のそれへ顔を擦り付け、きゃあきゃあとはしゃいでいたのを思いだす。
(――あれからもう、百年近くが経ちましたのね)
早いのか、それとも遅いのか。短命の種族とも異なるケーレには、判断が付かない。
「心配なのは、ただひとつだけ。お相手が、きちんと見つかるかどうか……」
ケーレの懸念はそれであった。五十年前は、駄目だった。ゆえに『予定』に狂いが生じてしまっている。
本来なら、ケーレは既に子を産み育てていなければならなかったのに。
「……四百年ほど前にも、一度あった。それに儂も母から聞いたが、更に五百年近く前にも、な」
「ええ、存じております」
「案ずるな、そんな事は二度と巡らん。いつも、いつもそうであった」
そう言いながらも、老エルフの口調には疲労が色濃く滲んでいる。
その胸中に渦まくものを、少しでも晴らしたい。そう思い、ケーレは両腕を伸ばすも――するりと避けられてしまう。
「たわけが、お前のような小娘に慰められとうないわ」
「大婆様……」
「体を労わるのはお前の方こそだ。『本祭』には万全の態勢で臨まねばならん」
その言葉を口にした途端、エジンの表情が強張る。
老婆は目を伏せ、拳を微かに震わせた。その姿が、ケーレの目にはなんとも痛々しく映り込む。
「……不確定な要素がある。この間、話した来訪者の事を覚えておるか?」
「はい。アンの縁者であるとか」
「うむ。そう名乗っておったな。少女の方はともかく、少年の方は――得体が知れぬ」
エジンの言葉に、ケーレも頷く。
彼女の古代魔術をあっさりと跳ね除けたという、その少年。いったい、何者なのか。
この島に害を及ぼす事は無いと、そう告げていたそうだが――
「……外見に、覚えがございます。大婆様がお会いになったという日の、まさにその夕刻。そのお二人を含む四人連れが、浜辺の方におりました」
その中の一人、最も年齢が上であろう男性を脳裏に浮かべる。彼が顔を真っ赤にしてすっころび、ケーレが手を差し伸べた事も記憶に新しい。
「……何をおかしそうに笑っておるのだ?」
「いえ、少し思いだしてしまいまして。悪い方々のようには見受けられませんでしたが」
「さて、な。儂もそう思いたいがな」
エジンはまた、重々しくため息を吐きだした。
「明日の夜な、儂はもう一度そやつらと会おうと思う」
「……はい」
「これがどんな運命を招くか、分からん。分からんが、せめて……」
その先は、言葉にならなかった。
エジンは首を振り、そうしてケーレに背を向ける。
「そういえば、ケーレ。お前はなぜ、あの日に浜辺へ向かった?」
「え?」
そのまま去るかと思いきや、彼女は予想だにしない言葉を紡ぐ。
「珍しい事だ。お前は里の人間にも、なかなか姿を見せたがらないというのに」
「いえ、それは……」
それは……なぜ、だろうか。
「……祭りに訪れた方々へ、ご挨拶を申し上げたくて。もしかしたら、その中に……」
「そう、か? まあ良い、母を偲ぶのもほどほどにせい。明日に障らん程度に、戻るのだぞ」
ケーレが頷く気配を察したか、今度こそエジンは歩き出す。
そうして、その姿が消える直前――彼女が何かを呟いた。氷の壁に反響するようにして、それはケーレの耳に届く。
「……アン」
その名を、ケーレも舌に載せた。
『――ケーレ様! ほら、今日はご馳走ですよ! こんなに立派なお魚が!』
耳の奥でうねる様に、懐かしい声が反響する。
「……ふふ」
笑みを一つ零すと、ケーレはすくりと立ち上がった。
そうして、懐から『それ』を取り出す。
それは、ささくれの一つも無い真っ白な木の枝。かつて、自分の傍仕えだった――アンから渡されたもの。
『――ケーレ様! これ、いい出来ですよねっ!? 見てください、この形状! 大したものでしょ!?』
枝を手に、ケーレは舞う。
静かに、ゆるやかに。白無垢の裾を翻し、ふわりふわりと体を揺らす。
『――ケーレ様、今日。里の女の子たちが、熱心に話しているのを聞いちゃいました! え、どんな話題かって? それは……』
元気が良く、騒がしい娘だった。
まるで太陽のように明るくて、そこに居るだけで皆を笑わせてくれた人だった。
『――は……ってしたことがありますか……?』
再び、笑みが零れる。そんなものは無い。あるわけが無い。恐らくは歴代の姫巫女たちの誰もが、得る事の無かったもの。得る必要の無い感情。
「母様、間もなくです。私も必ずや、お役目を果たします」
声が上ずる。足をくるりと回転させながら、アンの笑顔を振り切るように、亡き母親を想う。
――そうせねば、溢れてしまいそうだった。
懐かしい、本当に懐かしい名前を聞いたから、だろうか。
だからこんなにも……胸が締め付けられるのだろうか。
『――ケーレ様は……恋って、したことがありますか?』
今は亡き友人の笑顔を心に閉じ込めて、ケーレは静かに舞い続けた。
次回は8/11(火)に投稿します!




