第29話 狂乱
トロンの迷宮・第九層。
そこは薄闇の中に閉ざされた、不気味な階層である。
床は泥と草でぬかるみ、天井からは積み重なった雫が凝り固まり、鍾乳洞めいた様相を醸し出していた。
「……魔物の気配は無いな」
「……うん。もう少し、先を照らしてみるね」
ヒューズの呟きにコレットが応え、祈りの言葉を紡ぐ。
手元で輝いていた光がゆっくりと上昇し、前方を照らし出す。
神術による光の奇跡だ。
これならばランタンや松明で片手が塞がることも無い。二人組での探索を基本とするヒューズたちにとって、便利極まりない手段であった。
「分かれ道も消えてる……」
コレットが、か細い声で事実を告げる。
書き記したマップでも確認した通り、以前に第九層を攻略した時は、確かにここに三又の分かれ道が存在した。
なのに、それが無い。ただ道が一本のみ、前へ前へと伸びている。
構造の変動か。だとすれば珍しい現象では無い。この迷宮では良くある事だ。
だが、ここまでの探索で得た不安が、それを単なる偶然とは思えなくさせていた。
「……コレット。周囲を警戒だ。ゆっくり、少しずつ進もう」
「は、はいっ」
大丈夫、大丈夫だとヒューズは自分自身にそう言い聞かせる。
今までも幾度となく命を危うくする場面はあった。その度にコレットと力を合わせて危機を乗り越えてきたのだ。
(焦るな、怯えるな、けれども油断はするな)
そうだ、いつも通りにすればいい。臆病過ぎず、さりとて慢心をせず。
先日までのヒューズであったら、それでも逸る気持ちを抑えることは難しかったかもしれない。
昔馴染みの兄貴分へ、何度目かも分からない感謝を捧げ、コレットの細い肩を叩く。
「迷う必要が無い分、気楽ってもんさ。もしかしたらコレも、運命ってやつなのかもしれないぜ?」
相棒のお株を奪うように片目をつむってやる。
対するコレットは、ぽかん、と口を開けたかと思うと、肩を震わせながら吹き出した。
「もう、ヒューズったら……!」
コレットの表情は未だに冴えない。だが、その口元が緩んでいるのをヒューズは見逃さなかった。
――それでいい、これでいい。俺たちは自分らしくあれば、それがいい。
黴臭く生ぬるい空気を掻き分けるようにして、二人は進む。
やはり、というべきか。どこまで歩いても道が分かたれる気配は無く、また魔物や冒険者たちの姿も見えない。
(……あの様子だと、無警戒で突っ込んで行ったか? 足跡は――残っているな)
明かりで詳細に照らさずとも、分かる。ぬかるみに残されている無数のそれ。
勢いあまって転倒した者も居たのだろう。足跡のみならず、くっきりと人型大の痕跡がそこには在った。
「先行している連中は、相当な数に上るな……」
「という事はあの後、すぐに潜ったっていうこと?」
「だろうな。ロクに準備もしてねえはずだ」
あり得ない。いくら浮足立っていたとはいえ、そんな初心者同然の失策を犯すとは。
口々に喚き散らし、血相を変えて飛び出していった連中の顔をヒューズは思い浮かべる。
(まさか、そんなバカな真似をするような奴らじゃない。ということは、やはり……?)
そう、キオの予測は当たっているようだ。この迷宮には今、人の心を惑乱させるような『何か』が滲み出ている。
心に忍び寄る不安を跳ね除けるように、ヒューズは槍を握りしめ――
「――なんだ?」
そうして『それ』に気付いた。
遠くから、何かが聞こえる。それらは壁や天井を伝わり、反響するように響きわたっていく。
ヒューズは立ち止まり、意識を集中させながら耳を澄ませた。
「……っせ! れ……っ!」
「ば……っ! まじゅ――」
声だ、大勢の人間による声。
怒声に罵声、ひどく興奮しているのか、誰も彼もが喚き散らしながら、ひたすらに叫び続けている。
いや、音の出所はそれだけではない。声に紛れて、鈍く響くものや爆発音めいたものまで聞こえてくる。
「あれは……戦闘だっ!」
「……っ!」
ヒューズの叫びに、コレットが即座に反応する。小刀状の聖具を取り出すと、その柄を額に当てながら目を閉じた。
「運命を司る我が主、哀れな信徒をどうか、その腕でお抱き留めくださいませ――」
瞬間、柔らかな光の膜がヒューズたちを覆う。
運命神の奇跡のひとつ『抱擁』だ。斬撃や打撃、熱に毒。あらゆる不運を退けて敬虔なるしもべを守る、神の腕。
「……ありがとう、コレット。よし、行くぞ」
頷くコレットを背に庇いつつ、ヒューズは前へと足を進める。
近づくごとに声や音は大きくなり、やがてそれは耳に痛いほどに膨れ上がってゆく。
そうしてたどり着いたその場所は、大きく開けた広々とした空間であった。
まず目に入ったのは、囂々と音を立てて上へと流れる、巨大な滝だ。その周囲には蒼く煌めく水が、果てなく広がり、湖を為している。
天井には、魔素の一種による効果のためだろうか。水しぶきと共に輝きが散り、薄い膜となって波打ちながら、端から端まで寄せて返してゆく。そして、それが光源となって周囲を明るく照らし出しているのだ。
――そう。こここそが、ヒューズ達が目指していた地底湖であった。
だが、目的地に着いたというのに、二人の顔に喜びも安堵も無い。何故なら、それよりももっと恐るべき事態が、そこへ広がっていたからだ。
「ヒューズ、あれはっ!?」
「あいつ等と――魔物の群れか!?」
コレットが指さしたその先で、多数の影が交差し、肉を断つ音と共に血しぶきが舞う。
それなりに場数を踏んで来たヒューズをして、目を覆いたくなるほどの、それは凄惨な光景であった。
おぞましい魔物たちに、冒険者たちが踊りかかってゆく。
よほどに興奮をしているのだろうか。彼らの目は血走り、大声を張りあげながら己が得物を振るっている。
一進一退の攻防。すでに倒れ伏している冒険者も少なくはない。
このまま、均衡が崩れれば――ゆえに、ヒューズの決断は一瞬であった。
「コレット、援護を! 右方から斬り込む!」
「はいっ!」
後方に敵の気配が無いのを確認し、そうしてヒューズは飛び出した。
ぬかるんだ地面は、冷気を纏う自身の魔槍と相性が良い。軽く魔力を込めるだけで水気が氷結し、疾駆するための道筋へと容易く変わる。
「加勢するぞっ!」
それだけを短く叫び、手近な魔物へと氷の魔槍を振るう。
断末魔の絶叫と共に怪物の首が宙に舞った。
確かな手ごたえ、けれども確認している合間も惜しい。
ヒューズはその勢いを殺さぬままに、魔物の間を次から次へと駆け抜けてゆく。
「――ッ!」
化け物共の横をすり抜けるたびに、氷刃が煌めき舞い踊る。
血しぶきを浴びることすら無く、次へ、また次の獲物へと向け、ヒューズは幾度となく槍を閃かせてゆく。
時折に振られる爪や牙は掠ることすらなく、炎や毒の吐息も神の加護が遠ざける。先手必勝を地で行くのが、ヒューズの得意技であった。
「やれ、ぶち殺せっ! 魔物どもを殺せええええ!!」
その勢いに背を押されたか、冒険者たちが勢いを増して魔物へと突っ込んでゆく。
「……危ねえっ!?」
まるで周囲の状況を問題にしていない。彼らの振るう武器や魔術は、味方すらも巻き込んでめったやたらに攻撃を繰り返しているのだ。
苛立ちがそのまま、戦いの高揚と化してヒューズの心を昂らせ――
(――ダメだ、引きずられるなっ!)
ともすれば、その熱狂に巻き込まれそうになる自身を制し、ヒューズは心を律してゆく。
懐に在る、キオからのお守り。そこへ意識を集中し、息を吐いて籠もった熱を吐き出す。
(コレットは――よし。魔物も寄っていないし、精神を引き込まれることも無さそうだ)
微かに怯えの表情が見えるが、こちらを見据えるその瞳には冷静さが残されている。
――大丈夫、自分たちは大丈夫だ。惑わされるな、心を炎に明け渡すな!
この槍に宿る魔力の如く、心を冷やして。そうしてヒューズは魔物たちを切り払い続ける。
斬って、突いて、斬って、突いて――そうして、どれほどの時間を戦いに費やしていただろうか。
気が付けば周囲に魔物の姿は無く、息を荒げた同輩たちが立っているのみであった。
「……終わったか」
どうやら、戦いはヒューズら冒険者たちに軍配が上がったようである。
油断なく周囲を睥睨するが、見渡す限りに魔物の影は無い。
そのまま、物陰に隠れてはいないかと、ヒューズは気配を探ろうと試みる。
「……ん?」
視線の先に、何かが煌めいた。
湖のほとりの、草むらの中。そこに、何かが輝いて――
「――ヒューズっ! 避けてぇぇぇぇ!!」
殆どそれは、条件反射に近いものであった。
咄嗟に飛びのいたその場所へと、鋭い矢が飛来する。
「なんだとっ!?」
側転をしつつ、態勢を整える。
まだ魔物が居たのか!?と、矢が飛んで来た方へと視線を移し……そうして、ヒューズは目を剥いた。
「お、お前ら……!?」
冒険者たちの様子は、明らかに一変していた。
先ほど以上に目が血走り、口からは涎を零しながら体を震わせている。
「……もんだ」
「なに?」
「結晶花は――俺のもんだっ!」
暴れ狂う冒険者から距離を取り、ヒューズは慌ててコレットの元へと駆け寄った。
「ヒューズっ!!」
「距離を取るぞ、掴まっていろっ!」
そのままの勢いでコレットを抱きかかえ、ジグザグに床を走破する。
話し合いも、恐らくは意味が無い。本能的な直感が、ヒューズの全身を動かしていた。
そうして、何とか距離を離して立ち止まり、再びコレットを背に庇った、その時だった。
「……ヒッ!?」
傍らで相棒が、慄きながら息を呑む。それはヒューズもまた、同様だった。
「なんだ、これ……?」
眼前に広がる『それ』を前に、声を失ってしまう。それは、とても信じがたい光景であった。
もはや、ヒューズ達の姿など目に入らないかというように。
「ヒヒヒヒ……ハハハハハハ!!」
響き渡るのは正気を疑うような、おぞましい哄笑。唖然と立ち尽くすヒューズ達を尻目に置いて。
冒険者たちは互いに、血で血を洗うがごとくの凄惨な、殺し合いを始めていた――




