第三十二話 霞ヶ関
2032年、夏。
霞ヶ関の官庁街は、昼休みを終えた官僚や職員たちが足早に戻る姿で賑わっていた。白いシャツ、黒いスラックス。誰もが同じ服装に見える中、スガワラとナカジマもその一人に紛れて歩く。
ナカジマの手首には、ごく普通のスマートウォッチ。だが裏蓋を外すと、盗聴検知器と短波スキャナが組み込まれていた。時計の針に見える表示は、実際には庁舎内の無線通信の強度を示すグラフだ。
スガワラはブリーフケースを提げ、官僚街の喫茶店へと入る。中にはノートPCがあるが、画面は常にExcelを表示するよう偽装されている。裏で走っているのは、庁舎LANに侵入するためのパケット解析ソフトだった。
二人は注文したアイスコーヒーを前に、ただ談笑しているように見える。しかし、机の下でナカジマがスマホを机に押し当てると、テーブルに埋め込まれた公共Wi-Fiのアクセスポイントから暗号鍵が吸い上げられていく。
「……総務省のサーバーに、米軍の監査用アカウントが直結してます。外務省の承認すら挟まれてない。つまり、日本の官僚は命令を“確認”するだけで、何一つ決めていない」
ナカジマは口の動きを一切変えず、ただスマホの画面をスクロールしながら低く呟く。
スガワラはコーヒーを口に運び、口元だけで笑った。
「そりゃそうだろう。あいつらにとって大事なのは椅子と保身だけだ。国のことなんて、微塵も考えていやしない――竜馬が見たら、刀を抜くだろうな」
二人の声は、喫茶店のざわめきにかき消されていった。だがその沈黙こそ、今の日本に対する答えだった。
霞ヶ関の官庁街は、日没とともに表情を変えた。昼間の喧騒が消え、歩道の明かりがポツリポツリと灯る。二人は人通りの少ない裏道を選び、足音を忍ばせながら歩いた。
目的地はアメヤ横丁、通称アメ横。戦後の闇市の名残は、現代でも消えずに残っていた。路地を抜けると、多くの人々が行き交い、雑多な人々が物資を売買している。違法な電子機器、食料品、闇ルートで流れた生活必需品……。
その雑然とした空気は、昼間の官庁街の規律正しさとは対照的だった。
雑居ビルの薄暗い階段を上がり、二人は潜伏先の小さな一室に入った。窓にはシャッターが下ろされ、外部の光は最小限に抑えられている。机の上には簡易の通信機材が並び、暗号化された衛星回線やチャットソフトが起動されていた。
「本部と連絡を取ります」とナカジマが言い、ノートPCを操作する。数分後、南都留郡の本部のシノザキから返信が届いた。画面には、簡潔な文字列が並ぶ。
「ドイツ連邦軍から接触あり。武器・情報提供の打診。詳細は追って」
ナカジマは眉をひそめ、入力中の手を止める。
「ドイツ軍から協力の打診……? どういうことでしょうか」
「罠…ということはないか」とスガワラは低く応じた。
机の下の手元は静かだが、目の奥には鋭い計算の光が宿る。
沈黙の中、二人は一瞬の思案に沈む。裏切りや罠の可能性はある。しかし、得られる情報と支援の価値を考えれば、一度本部に戻り状況を整理する以外に選択肢はない。
「よし……ドイツの件を整理するため、本部に戻ろう」
ナカジマは静かにうなずき、二人は立ち上がる。夜風が路地を抜ける中、潜伏先の雑居ビルを離れる二人の影は、東京の夜に溶けていった。




