第三十一話 葛藤と決断
夜の山道を、白虎隊は一列になって下っていた。
月明かりの届かぬ谷間は闇に沈み、風に揺れる枝の音さえ敵の足音に聞こえる。
遠くで犬の吠え声、金属の軋む響き――中国軍の捜索網が迫っていた。
誰も口を開かず、ただ荒い息を押し殺しながら、湿った土を踏みしめる。
空気は張り詰め、誰ひとり不用意な言葉を発しなかった。
福岡市・早良区 仮拠点
かつて診療所だった建物の地下室。
埃にまみれたベッドの残骸と、壁に染みついた薬品の匂い。
ナカムラが小さなランタンを置くと、薄暗い光が輪を描き、隊員たちの顔に影を落とした。
「……集まってくれ」
低い声に従い、皆が黙って腰を下ろす。
先に口を開いたのはサカイだった。
「イシカワは……捕まった、と見るべきだ」
「捕まった……」
アイカの声が震える。
「それなら、すぐに助けに行くべきじゃ――」
「待て」
ナカムラが手を上げ、遮る。
「今の俺たちが何の情報も無しに敵の本部に踏み込むってのは、全員で死ぬって意味だ。囚われてる場所すら分からない」
「それでも放っておけるかよ!」
イノウエが唇を噛み、声を荒げた。
「仲間を見捨てろってのか!」
「俺だって助けたい!」
ナカムラの声が鋭く跳ね返る。
「だが現実を見ろ。俺たちが全滅したら、白虎隊は終わりだ。イシカワが命を賭けて守った意味も消える」
重苦しい沈黙。
誰も反論できず、ただ拳を握りしめるしかなかった。
「……イシカワさんは、生きてるんでしょうか」
ふいにマツモトが呟いた。
「もし、もう……殺されてたら。助けに行こうとすること自体、無駄に……」
「殺されてはいない」
サカイが短く断言する。
「情報を引き出すまでは、生かしておくはずだ」
「だが……」
イノウエが低く唸る。
「もし拷問されて、仲間のことを吐かされていたら? 簡単に口を割るような男じゃないが、相手は残虐な中国人だ」
その言葉に、全員の顔が強張った。
沈黙が地下室を圧迫する。
ハヤシが声を震わせる。
「……そうなったら、きっと、奴らは包囲してくる……」
「落ち着け」
ナカムラが短く言った。
「憶測に飲まれれば、それこそ終わりだ」
沈黙が広がる。
誰もが胸の奥で同じ不安を抱きながら、言葉にできずにいた。
ランタンの炎だけが静かに揺れる。
サカイは静かに目を閉じ、沈黙ののち、重い結論を絞り出す。
「……みんなの気持ちは分かってる。助けに行きたい。俺も同じだ」
苦渋をにじませた声が地下室に落ちた。
「だが――俺たちにできることは、生き残ることだけだ。今ここで全滅すれば、イシカワが命を張った意味は消える」
口に出さずとも全員が理解していた。
――もうイシカワは戻らない。
仲間を見捨てたという事実を背負い、生き延びねばならない。
ランタンの炎が揺れ、壁に歪んだ影を落とす。
その影のように、誰もが胸に深い罪悪感を抱えたまま、次の戦いへ進むしかなかった。
***
福岡市・中国軍日本占領本部地下
薄暗い部屋の床には、黒ずんだ血の染みがいくつもこびりついていた。
湿った石壁に反響するのは、鉄椅子の軋みと、かすかな呻き声。
劉大将は椅子に腰を下ろし、無言のまま視線を向けていた。
その口元には冷笑が貼りついているが、瞳の奥には苛立ちがにじみ始めている。
鉄椅子に縛られたイシカワの姿は、もはや人の形を保つのがやっとだった。
目隠しをされた顔は血と腫れで膨れ、歯はすべて抜かれ、唇はただ赤黒く濡れている。
両手の指は大半が失われ、炭のように焦げた両脚は力なく垂れ下がり、片耳も無惨に切り落とされている。
股間からは血と体液が滲み、鉄椅子を汚していた。
二人の拷問官が、互いに目を合わせる。
焦りを押し殺すように鉄棒を握り直し、無言で振り下ろした。
鈍い衝撃音が続けざまに響き、イシカワの体は痙攣するように揺れる。
肋骨の折れる乾いた音が混じり、胸元に血が滲んだ。
口からは血と涎があふれ、呻き以外の声はもはや出なかった。
劉は冷ややかにその様を眺め、やがて右手を上げて拷問官に合図を送った。
一人が慌てて棚から小瓶を取り出し、恭しく差し出す。
中には濁った液体――硫酸。
「……ふん」
劉は鼻を鳴らし、何のためらいもなくその瓶をイシカワの頭上から注ぎかけた。
瞬間、焦げるような音とともに、イシカワの体は大きく痙攣した。
声にならぬ悲鳴が喉を裂き、椅子ごと震え続ける。
肉の焼ける臭気が充満し、拷問官でさえ顔を背けた。
劉の口元が歪む。
「まだ沈黙を続けるか? 大和魂か? くだらん幻想だ。日本人は昔から、命令されれば疑いもせず死地へ飛び込む。忠誠でも誇りでもない、犬の躾と同じだ……ただの家畜根性だ」
イシカワの痙攣は次第に弱まり、血に濡れた胸が最後の空気を吐き出すように上下する。
やがてその動きすら止まり、垂れ下がった頭からは力が完全に抜け落ちた。
――沈黙。
劉はしばし見下ろし、唇を歪める。
「……役立たずめ。ここまでしても吐かんとはな」
その声音には嘲りよりも、苛立ちと落胆が混じっていた。
「雷主席への土産にもならん……死なせてしまうとは」
拷問官たちは顔を強張らせ、頭を垂れるしかなかった。
冷たい空気の中で、イシカワの沈黙だけが、なお重く残響していた。




