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第二十話 旭川奪還作戦⑤


司令本部の周囲は、凍りついたように動きが止まっていた。


人質を盾にしているため、包囲しているロシア兵たちは迂闊に動けない。

だが、それはあくまで「撃てない」というだけで、降伏の兆しではなかった。


時間だけが過ぎる。

その間にも、雪月花の面々の胸にじわじわと焦りが広がっていく。

銃を構えたまま額に汗をにじませる者、唇を噛んで視線を逸らす者。

一発でも銃声が響けば、この静けさは一瞬で血の匂いに変わる――誰もがそれを理解していた。


アグリもまた、心の奥で時計の針が加速するのを感じていた。

この膠着が続けば続くほど、相手の士気は固まり、自分たちの優位は薄れていく。


その焦燥感を、マリューチンは見逃さなかった。

床に座らされ、両手を縛られたままの彼は、ふいに口元に薄い笑みを浮かべる。

そして、司令本部の割れた窓越しに、包囲する兵士たちへ向けて声を張り上げた。


「Сдача запрещена!(降伏は禁じる!)」

続けて、低く鋭い声で命令を飛ばす。

「Всем солдатам! Бросить заложников и уничтожить врага!(全兵、人質など捨て置き、敵を掃討せよ!)」


その言葉は、寒風よりも鋭く外の兵たちの耳に届いた。

一瞬、包囲していた兵の何人かが目を見開き、顔を見合わせる。

だがそれも刹那のこと、すぐに司令官の命令とあって覚悟を決めた目に変わった。


「……くそッ」

アグリは咄嗟に右手の銃で、マリューチンの右頬を横殴りにした。

鈍い音と共に、彼の顔が横に跳ね、血が口端から滲む。



***



後方で全体の動きを監視していたシノハラは、双眼鏡を下ろし、唇を固く結んだ。

目の前の光景は、最悪に近い。


無線機に手を伸ばし、低く告げた。

「アグリ……これ以上は無理だ。この作戦は失敗だ」


アグリは応えなかった。

いや――応えられなかった。多くの犠牲を出した結果が、作戦失敗。

アグリは唇を噛み締め、拳を握っていた。


「今できる最善は、犠牲を最小限に抑えて撤退することだ」

シノハラの声は、敗北を宣告するように響いた。


そこへミカの通信が割り込む。

『このまま何とか撤退出来たとしても、犠牲になった仲間に顔向けできない……なら、せめて建物内の通信室から、“ウクライナの亡霊”と呼ばれていた連中の情報だけでも持ち帰る』


シノハラは一瞬の間も置かずに判断する。

「マリューチンと他の将校二人――価値は未知数だが、こいつらも持ち帰る」


短い沈黙。

アグリが低く、押し殺すような声で言った。

『……すまない、みんな』



***



銃声と叫びが交錯する中、ミカと情報班が通信室へと突入した。

端末にミカの指が走り、データのダウンロードが始まる。

「急げ、残り二分だ!」

司令本部の外周では既に戦闘が始まっていた。


東側、宿舎を拠点に人質を監視していたオオハラが、他の班員を引き連れて戦闘に合流する。

合流した瞬間、コムロはわずかに頷いた。

それだけで、何をしようとしているのか全員が理解した。


この包囲を崩すには、自分たちが動かねばならない。囮になる。その隙に仲間を逃がす。

だが、その先に生還はない――。


コムロは人質を盾にし、ロシア兵の躊躇を誘う。

弾丸がオオハラの肩を穿ち、脚を撃ち抜く。

オオハラは呻きながらも撃ち返し、少しでも多くのロシア兵を引き付ける。

至近距離で交わされる銃撃は、火花と血飛沫の区別すらなく、ただ一瞬ごとの生死だけがあった。


ーーーアグリ、お前の覚悟は分かってる。

本当は人質なんて取る男じゃない。

命を道具みたいに使える男じゃない。

でも、それをやるしかない状況に追い込まれたのを、俺は知ってる。

コムロは腹部を撃たれながらも反撃を止めず、至近距離で敵兵を撃ち倒していく。

一人、また一人と仲間が崩れ落ち、その隣で別の者がすぐに膝をつき、それでも銃を撃ち続けた。

引き金を引きながら、ふと記憶の奥が揺らぐ。

まだ雪ではなく、黄土色の訓練場だった頃。

陸自の演習で、土煙の向こうに立つアグリとシノハラの姿。

アグリは迷いなく先頭を切り、シノハラは後方支援。

汗と埃にまみれたあの時も――今と同じだった。


耳を裂く破裂音が現実へ引き戻す。

視界の端で、オオハラが人質を盾にして銃を乱射している。

その瞬間、左腕に灼けるような衝撃。

視線を落とすと、肘から先がなかった。

ーーあぁ、まずいな、これじゃ銃が安定しない。

自分でも驚くほど冷静な声が頭の奥で響く。


その光景は、もはや勝敗ではなく「時間を奪う戦い」だった。

彼らの身体はすでに半分以上が機能を失い、それでも瞳の奥だけは燃え続けている。


ーーアグリ、お前はまだこんな所で死んではいけない。


「行けぇぇぇっ!!!」

コムロの怒声が、銃声と煙の中で轟く。

その直後、彼の頭部を複数の弾丸が貫き、地面に叩きつけられる音が響いた。



***



同じ頃、後方のシノハラ班はすでに動き出していた。

「二台確保、急げ!」

奪取したロシア軍の軍用車――分厚い装甲と前面の防弾ガラスが、地面を蹴り裂くように走る。

その車両は迷うことなく司令本部へ突っ込み、包囲していた兵士たちを何人も跳ね飛ばした。


数分前、アグリの耳元で無線がささやいていた。

『……五分後、突っ込む』

短い通信のあと、ノイズだけが残った。


衝撃と轟音にロシア兵の注意が逸れる。

そのわずかな瞬間、アグリは声を張り上げた。

「全員、今だ!撤退する!」


司令本部建物の重い扉が、鈍い音とともに蹴り開かれた。

吹き込む冷気の中、アグリ、ミカ、サラ、カワノらが飛び出す。

その背後には、口を布で塞がれ、腕を後ろ手に縛られたマリューチンら将校三名。

膝を撃たれ、足をもつれさせながらも、引きずるように前へ進ませる。


背後から、鋭い銃声が雪を裂くように迫った。

だが次の瞬間、防弾車両が横滑りするように割り込み、その車体が弾丸を鈍く弾き返す。

その隙に、アグリたちは迷いなく車内へ飛び込み、ドアが乱暴に閉まる。残りの隊員も次々に飛び込む。


エンジンが唸りを上げ、車は一気に加速した。

遠ざかる司令本部。

最後にアグリが振り返った瞬間、視界に飛び込んできたのは──コムロ班の仲間たちが倒れ伏した姿だった。

白いはずの残雪は、濃い赤へと染まりきっている光景だった。



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