プロローグ:【ストック】という歪な贈物
「――やれやれ。人生の最後くらい、もう少し穏やかに迎えさせてくれても罰は当たらないと思うのだがね」
悲鳴と怒号が交錯する横断歩道の真ん中で、私は自嘲気味に呟いた。
前世の私は、どこにでもいるただの会社員――のはずだった。
だが、人より少しばかり要領が良く、どんな複雑な業務も迅速かつ正確にこなしてしまう「有能さ」を持っていたこと。そして何より、頼まれると嫌と言えない「お人好しな性格」が災いした。
『この案件、君なら完璧にやってくれるだろ?』
『他のみんなじゃ手に負えなくてさ……頼む、助けてくれ!』
上司や同僚たちは、私の能力と優しさに付け込み、炎上したトラブル処理や面倒な雑務を都合よく押し付け続けた。
断れば現場が回らなくなるのが分かっているからこそ引き受けてしまい、結果として連日の徹夜作業、睡眠時間を削る苛烈な残業が常態化していった。心身ともに限界まで擦り切れ、疲弊しきっていた矢先のことだった。
トラックの鋭いブレーキ音が鼓膜を刺す。運転手は居眠りでもしていたのだろう、大型車両の巨大な影が、信号を無視して歩道へ突っ込んできた。
私のすぐ隣には、恐怖で足をすくませ、ただ立ち尽くしている幼い少女。
考えるよりも先に体が動いていた。
別に「正義のヒーローになりたい」だなんて大層な野心があったわけではない。ただ、目の前で小さな命が失われるのを見過ごせば、後味の悪さと後悔で、その後の人生がどうしようもなく寝心地の悪いものになってしまう。後から面倒な後悔に苛まれるくらいなら、今できる最善の手を迅速に打つ。昔からの私の性分だった。
少女の背中を全力で突き飛ばし、代わりに迫り来る鉄の塊の正面に立つ。
ドォン!
激しい衝撃と、骨が砕ける鈍い音。視界が真っ赤に染まり、全身の感覚が急速に遠のいていく。
迫り来る死を自覚しながらも、私の心は驚くほど穏やかだった。
(……まあ、あの子が助かったなら良しとしよう。有能だと持ち上げられ、酷使され続けた私の人生……少しばかり慌ただしかったが、これでようやくあの残業地獄から解放される。次は、もう少し日当たりの良い場所で、のんびりと昼寝でもしたいものだな)
暗転する意識の中、私の前世の物語は静かに幕を下ろした。
◆
気がつくと、そこは果てしない星々が渦巻く、神聖な神殿だった。
目の前には、世界の理を司る威厳ある神が静かに佇んでいる。
『他者を救い、命を落とした高潔な魂よ。その功績を称え、お前に新たな生と望むスキルを与えよう』
粛々と告げられた異世界転生の打診。
神から「どのような望みがあるか」と問われた私が望んだのは――英雄としての名声でも、世界を統べる覇権でもなかった。
「……無理をせず、目立たず、日当たりの良い場所で温かい紅茶でもすすりながら昼寝ができる……そんな平穏なスローライフを送りたいですね」
前世で優秀さゆえに限界まで働かされ、ボロボロに擦り切れ破綻した私にとって、それ以上の望みなど存在しなかった。
『ふむ……では、お前の魂の資質と望みを、運命の天秤にかけよう』
神が手にした黄金の天秤に光が宿り、カタリと静かに傾く。天秤が差し示したのは、神たる存在すら未だ理解しきれていないという歪な権能――【ストック】だった。
『むぅ……。天秤が選んだのはこの力か……』
神は眉をひそめ、腕を組んで思案するように唸った。
『このスキルは【ストック】。1日1項目、お前自身のステータスを削って内部領域へと蓄積する力だ。……しかし、その蓄積した力をどう引き出すのか、どのような恩恵をもたらすのかは我にも解せぬ』
「神様でも分からないスキル……ですか?」
『そうだ。天秤が生み出した未知の権能ゆえにな。力の引き出し方すら定かではないのだから、下手をすれば、ただ毎日己を無力化し続けるだけの愚かな力に終わるやもしれぬ』
懸念を示す神に対し、私はただ小さく苦笑いを浮かべた。
「引き出し方が分からないとしても……普段の能力を抑え、最弱に見せかけられるなら願ったり叶ったりですよ。前世のように『有能だから』と重宝され、面倒な役目を押し付けられることもありませんからね。いざという時の蓄えと思えば悪くありませんよ」
『……むぅ。どこまでも妙な男だな。ならばゆくがよい、異世界へ』
眩い光に包まれながら、私は深い安らぎの中で意識を手放した。




