第4話 夏の山並み
旅館の裏、徒歩十五分ぐらいのところにある小山の連なり、そこは祖父母が所有している山々で、旅館の窓から見える景観が変わらないよう、昔買い取ったと云う。山では、栗、竹の子、柿、梅、山椒、色んなものが取れて、季節ごとに旅館の食事になってお客さんに提供されている。特に、夏に出される梅の炭酸ジュースは絶品と評判だ。
また、山には周辺の農家や猟師と協力して、農作物を守るため、鹿や猪を捕まえる罠が張ってある。
それで、夏になると、鹿や猪がよく罠にかかるようになり、肉の分け前が旅館の調理場に届けられるのだが、下処理や塊肉の解体が大変なので、忙しくなり始めた旅館の調理場では、鹿や猪の肉を調理するだけの余裕がない時もあって、近頃ではあまり歓迎されなくなっている。が、そういう時に限って、届くのである。
「こんちわ。今朝、猪が獲れたから、肉ここに置いておくよ」
どすん、大きな塊を作業台に載せる音がする。調理場の裏口から入って来た老齢の猟師、勘助がみんなに声をかける。彼はなまりが強いので、緑郎はなんとなくそういうことを言っていると想像していつも聞いている。
「わ、これが猪ですかあ。濃い色してるなあ」
緑郎は、目を輝かせて駆けより、勘助と二言三言、言葉を交わし孫と祖父のよう、またねと気軽に別れた。
江野と栗ちゃん、それからおばちゃん達は、こんなに沢山の肉をどうしようかと離れた作業台から、引いて見ている。
しかし、今年はこの野趣溢れる食材を喜ぶ人物がいて、猪鍋を作ってみたいと、緑郎が言うと、調理場の人たちは、
「やりな」
と、猪肉の塊からサァッと目を離して、自分の仕事に戻って行った。
緑郎は、猪肉をこんなにたくさん扱うのも初めてだったし、猪鍋を作るのも初めてでワクワクしていた。赤黒い、重量の詰まった猪肉。どんな味でしょう。
鍋にするのが一番旨いと、江野が前から言っていたので、緑郎はまずはこの土地の作り方、味付けで、作ってみることにした。
猪鍋が出来ると、おばちゃん達に試食してもらった。大好評だった。江野と栗ちゃんも口を揃えて美味しいと云う。旅館で出せるんじゃないかと、誰かが言うと、嬉しくなって、緑郎は真っ先に青一の姿が思い浮かんだ。
寸胴にいっぱいある猪鍋。まずは、夏のさなか毎日頑張っている旅館の従業員に精をつけてもらおうと、おばちゃん達は、家庭用の鍋に移して、食器と共に休憩室へ運んで行った。
翌朝、幸運にも通勤途中で、青一を見かけた。誰もいない海岸で、一人コーヒーを飲みながら、海を眺めている。
海岸通りで自転車を止め、緑郎は声をかけた。
「せいいちさん!」
青一は左右にふり向いたり、キョロキョロしている。もう一度呼んで、大きく手を振ると、今度は後ろをふり返り、気づいて会釈する。そして立ち上がって、海岸線へやって来た。緑郎は軽く頭を下げ、
「おはようございます」
「おはよう。出勤ご苦労さま」
「はい。あの、突然なんですけど、ちょっとあげたいものがあって、良かったら旅館まで来てもらえますか」
「えっ。あ、うん。スイカ?」
緑郎、自転車を押し、青一と話しながら歩く。昨日、山で猪が獲れて、調理したから食べてみませんか。珍しいから、どうかなと思った。などと、緑郎は説明する。青一は、遠慮心からやや仰々しく、
「そんな貴重なもの、僕が頂いていいんですか?」
緑郎はうなずき、へへへと笑う。
「用意するから、ちょっと待っててくださいね、へへへ」
緑郎は自然な交流が作れたと思って、もう絶好調。しかし旅館に着いて、自転車で正面玄関を通りすがりに、すぐに番頭に呼ばれた。
「おい、男湯で喧嘩がはじまったらしいから、ろくちゃんも来てくれや!」
男性従業員を集めて、喧嘩を止めに行くらしい。
緑郎は青一と顔を見合わせた。青一は状況を察して、じゃあ今日の所はと遠慮して去ろうとする。しかし緑郎は慌ててとっさに青一の腕を捕まえた。青一は一瞬、ギョッとしていた。
しかし、緑郎の必死な様子を見てとって、青一は、急いで、僕も雪右衛門の散歩をしても良いと思いますか?と聞いてきて、いいと思いますと急いで緑郎が答えると、じゃあ散歩してから旅館に寄るからと言い、足早に立ち去った。緑郎も自転車をその場に置いて、駆け足で男湯へ向かう。
『冷水ぶっかけて、さっさと終わらそう』
面倒臭いことは、効率でしか考えない緑郎。
男湯にいた仲裁していた従業員と喧嘩客は、頭から水浸しになった。緑郎も、跳ね返りでずいぶん濡れた。しかし、場が静まりかえって、早々に解決した。
こんな方法を取る人が、今の時代もいるなんて。誰も口には出さなかったけど、みんなそんな顔をしていた。
急いで調理場へ行き、濡れた頭のまま、緑郎はそわそわしながら、行ったり来たり、調理場の裏口から裏門をのぞいて、青一が来ないか見張った。任された芋の皮むきが、しばしば中断される。
何度も見る外は、絵画のよう動かない青空と積乱雲に、遠くに緑生い茂る山並の風景。そんな夏の朝の風景に、あの人の姿が現れないか、待ち遠しい。
緑郎の頭の中が青一の訪問でいっぱいな時、江野がついに口を開いた。
「お前はさっきから何をしているんだ。裏庭で、お前の狸の嫁が出産でもしてるのか? 」
一斉に、栗ちゃんとおばちゃんたちが、クスクス笑う。緑郎も、ほおを赤くして笑う。
「友達がくるから待ってるんだよ。猪鍋少し分けてもいい?」
「お前んちの山で獲れた肉だからいいんじゃないか?」
訳が分かったおばちゃんたちも、いっぱいあるから、分けてやれと言ってくれる。
結局、青一は雪右衛門の散歩を一時間ほどしてから、旅館の裏門に戸惑いぎみにやってきた。
翌日の朝、海岸で青一は海岸線の方を向いて、緑郎が通るのを待っていた。自転車で通りがかった緑郎は、青一が「おーいおーい」と、手を振ってきたので、すぐに気づいて、足を止めた。
「猪鍋、めちゃくちゃ旨かったよ!」
駆けよってきた青一は、目を大きくして言う。緑郎も思わず、へへへと笑みがこぼれた。そわそわした甲斐がありました。
そうして早朝にたまに挨拶を交わし、距離をゆるく保っていると、散歩中の雪右衛門と緑郎に気づいて青一の方から手を振ってくれる事があった。
それで、そのうち雪右衛門の散歩もたまに一緒にするようになった。
最近一人で雪右衛門の散歩に行ったことを話してくれた。早朝で誰もいないから自転車で犬の散歩をしたら、パトカーに出会して、捕まると思って焦ったけど「気をつけてね」と、声を掛けられるだけで済んだ、東京じゃこうはいかないよね。雪右衛門の家の事情を知ってて見逃してくれたのかなあ?などと、青一は夢中で話す。緑郎は「うんうん」と聞きながら、青一の表情や話し声に、笑みがこぼれた。自分からは特に何も話したくならないほど、心穏やかになる。
こうして夏の間、朝、雪右衛門の散歩をしたり、夕方待ち合わせてドライブしたりした。そんな時に、青一は一人で、冒険で北に二十キロ、雪右衛門を連れて歩いて行ってみたとか、試しに作ってみた料理の話なんかをした。女と恋愛の話題が一切出てこないのを心地良く、そして不思議に緑郎は思った。青一は一応静養中だからか刺激的なことを求めていないのかなと、思っていた。
ある日、浜辺から上がってガードレールの途中にあるコンクリ壁に腰掛けて、道路側を向いている青一。自転車で通りがかり「おーい」と声をかけると、「待っていた」と言う。
十月下旬。山歩きしようかと思ってるが、山に入れる道がいくつあるか教えてくれと言う。
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