第5話 山の石段 上
十一月下旬、旅館裏の山中にある神社へ行く事になった。長くなだらかな山道を登る予定だ。この辺にある、青一が登っていない山のルートは、そこが最後らしい。
青一は、正月の初詣はどこの神社へ行こうかと慣れない土地で検討していて、この日に行くようなあまり人気のない山中の神社も良いような気がしていた。
待ち合わせは、雪右衛門の家という事になっていて、この日も時間通りに着いたと思ったら、彼はすでに来ているようだった。小林家に着く手前から、犬のはしゃぐ吠え声や人の笑い声が聞こえてくる。
「おはよう」
門扉を開けながら、青一はにこやかに緑郎と雪右衛門に声を掛ける。
「あ、おはよう」
緑郎は気楽に返事をして、雪右衛門は顔を向けて尻尾をふる。
木曜日の朝十時半、小林家の人達は皆出勤で家は空っぽだ。そしていつもの様に、リードは玄関のドアノブに掛けてある。一つ違うのは、事前に許可を取る為に山歩きに連れて行きたいと伝えていた為か、今日に合わせて雪右衛門のおやつ(蒸した薩摩芋と柿)と青年二人分のおやつ(板チョコと柿と塩煎餅)を用意して置いてくれた事だ。玄関前の荷物置きにしている竹の長椅子に、メモ用紙が貼ってある風呂敷があって、大きな文字で「おやつ三人分」と書いてあった。
二人は犬用と人間用を分けてそれぞれのリュックに入れた。準備している間、緑郎とするいつもの散歩とは違う遠足みたいな楽しい雰囲気を察した雪右衛門は、感激してひどくすすり泣くので、しずめようと二人は慌てて門を出た。
草を嗅ぎたい所なのだろうが、雪右衛門はせわしなく二人の顔を見上げ、尻尾を振りながら海側と山側とどっちへ行くのかという顔で催促した。
リードを持っていた緑郎は、山の方へ軽くリードを引き上げ犬に伝えた。首輪が引かれる方へ行く事を覚えた雪右衛門は、すぐさま山の方の道を嗅いで歩き始めた。
緑郎は青一と並んで犬の後を歩きながら、山の神社へ行った帰り、体力に余裕があったら、栗の木が生えている山の入り口へ寄って、栗拾いをして帰らないかと、もじもじしながら持ち掛けた。もう獣や虫に食われて残っていないかもしれないけど、せっかく山まで行くなら土産に出来るかもしれないので、期待しないで寄ってみようよと押してみると、それは見てのお楽しみだと青一が愉快そうに答えたので話がまとまった。
舗装された坂道を上って十五分ほど歩いていると、木々が生い茂り根元には無数の枯葉が積もる山の入り口に着いた。まだ葉を残した木立に藪や蔦が色々と混じっているので、快晴で明るい日だったが、外側から見る山の中は薄暗くて寒そうだった。構わず、雪右衛門は山道へぐんぐん進んで行く。
この山道は始めのうちは、人一人が通れる幅ぐらいしか拓かれていない上に、道の脇には黄色く枯れかけた背高の笹が茂り、意気を失いながらもまだ倒れきらないので、通行人と擦れて派手な音を立てた。雪右衛門の顔にも当たる高さの草があったが、彼はたまに鼻を鳴らすだけで気にしなかった。
途中、落葉が進んだ陽の差し込む木立の域に入ると、小道はどんぐりや落ち葉で積もっていて、その上を歩くのが皆なんとなく楽しいことだった。踏んだ小枝が折れる音、靴が枯葉に沈む音、枝ばかりになって乾いた山中の空気に、彼らの活発な音がよく響いた。ガサガサと平気で大きな音を立てる二人と一匹の気配で、たまに、鳥や何かが枝を揺らす音を立ててさらに山の奥へ、逃げて行った。そんな時犬は耳をよく動かした。
更に登り進めると、石の階段が出現した。ついに山の腹の中へ入り混むような感じがする。石段は神社の参道で、両脇の木立の配置の加減で途中に木葉が掛からない大きな日向が出来ている。その段の上にある神社は、木々に覆われていてよく見通せない。
二人は顔を見合わせて「じゃあ行って見るか」と、どちらともなく、石段に片足をかける。すっかり健康体になって身軽な雪右衛門は、先に石段を五六段駆け上がると、緑郎が追いつきリードがたるむのを待って、また駆け上がるという事を繰り返した。
日向になっている石段の踊り場で、青一は「ちょっと休憩」と言ってリュックを降した。あと十五メートルぐらいで到着するのに、急にどうしたのかと思い緑郎は「疲れた?」と、尋ねてみた。
「いや、けっこう汗かいて服の中が湿気てるから、日向ぼっこして乾かそうかと思ってさ」
青一は訳を話しながら、石段の踊り場に腰を下ろし、
「ほら見てごらん。綺麗だよ」
緑郎に海側へ振り返るよう促した。汗で濡れた服のまま日陰に入って休むと体が冷える為、青一は帰りの事も考えて一旦服を乾かす事にしたらしかった。彼は薄手の高級そうなアウトドア用アウターを脱ぎ、裏地が日に当たるよう石段の上に広げ、風で飛ばされないようジャケットの腕にリュックを載せた。
青一の身支度をぼんやり眺めて、緑郎もおもむろに自身の古着のナイロンジャケットを脱いで真似てみた。一瞬スーッと肌が空気に冷やされる感じがしたが、すぐに暖かい日差しに身体が包まれた。それで、緑郎は『あぁこういう事か』と合点がいき、ゆっくり石段に腰をおろした。
彼もリュックでナイロンジャケットを押さえたり、リュックから水筒を出したりしてから、休憩の準備をしてから顔を上げると、目の前には日本海が広がっていた。紺色の海が、視界いっぱい土地を占領している。
沖から小さな漁船がのんびり帰って来る。
大波の盛り上がりは、岩場から見ていると緊密な塊の迫力を感じさせるが、山の石段から見ていると、地図のように安全だ。
遠くから眺める海にしばし青一の事も犬の事も忘れて、緑郎は夢中になっていた。白い小さな波が幾つも浜辺に向かって寄せている。太陽の真下では細波が、砂金を広げたよう無数にきらめいている。海岸の端にある松林も、思ったより広くて、あんな所まで続いてる、と彼は口の中で呟いた。
「チョコ、ここで食べちゃって良いかな」
青一が声を掛ける。彼はすっかり花より団子になっている。
「どうぞどうぞ」
緑郎はまだ景色を眺めていたくて、口早に答えた。海と空が広がる場所で、景色を堪能したい。
「チョコ、そっちのリュックかもしれないな」
青一はまた話しかけてくる。
黙って、急いで、音を立てながら自分のリュックの中を緑郎は探す。雪右衛門と青一が注目して待っている。緑郎のリュックは大きな開口が二つあって、どっちに入れたか覚えていなくて、手間取ってしまう。
「長方形の茶色いやつです」
食い気に取り憑かれた青一は夢中でそう表現して、緑郎の隣でリュックをのぞき込む。
「そんなに後頭部を見せながら手伝ってくれると、かえって助からないんですけどね」
緑郎、前のめりの青一から顔をよける。
「わははは」
青一は、腹を抱え、後ろに身を引く。緑郎、リュックの底で手に角ばったものが当たり、ようやく見つけた。
「あったあった」
板チョコが入った袋を取り出し、緑郎はミルクティーをこさえて来ていたので、ついでに水筒も取り出した。隣で笑っている青一の膝に板チョコを置き、水筒を開け、蓋にミルクティーを注いで、青一の片方の手に渡した。
「はい。もう落ち着いて」
「ぐふふっ」
紅茶の湯気を散らす青一。良い香がすると言う。美味しそうだと続ける。だけど青一は、何度もミルクティーの入った蓋に口を近づけては、口をとんがらして、吹き出した。ミルクティーを飲もうと集中するも、青一は笑いのつぼにハマっている。
「タコの真似はもうよせよ」
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