山の石段 下
返って体がポカポカして、上着は必要なくなっていた。二人は、残りの階段を上り、神社の鳥居前で頭を下げた。
境内は木で覆われているから薄暗い。古びた石造りの参道には、枯れそうに巻きはじめている紅葉があちこち落ちている。晩秋の風情に、緑郎は来て良かったとつくづく思う。
たまに通る北風で笹藪の葉擦れの音がする。手水の水面にも、はらりと紅葉が一枚、舞い落ちた。
緑郎は手水に近寄り、暗い鏡のような水面をのぞき込む。水底には、綺麗な紅葉とイチョウが数枚沈んでいる。色彩が鮮やかで思わず顔を近づける。また風が通り、水面が波立ち、浮かぶ紅葉がゆらり流される。
緑郎は、手水に浮かぶ紅葉に、ふうふうと息を吹きかけ、また動いているところが見たいと思った。だけど、紅葉の葉は、細い葉の端を水中に落として、底へ沈んでいってしまった。すると、目の端に、そうっと笹舟を押し出す手が見えた。かがんでいた緑郎が振り返ると「舟も浮かべよう」と、青一が彼に微笑んだ。
緑郎は息をのんだ。何も話せずにいると、また風が山の中を通り、笹藪の葉擦れの音が二人を取り囲んだ。小さい笹舟が、風に押されてすうっと水面を進む。
この人はなんて状況に合ったことが出来るんだろうか。緑郎は青一に目をやった。そんなにジッと見たら相手におかしく思われるのも忘れて、真っ直ぐ見つめた。
だけどすぐに、思い直し、聞いてみた。
「笹舟つくれの? 風流な人だねえ」
「こんなの誰でもつくれるよ」
「おれは作れないよ。正直、青一君の情緒にとても感動している」
「へへ。じゃあ一緒に作ってみる?風流を教えてやろう」
このぐらいの大きさが良いよ、と青一はさっそく笹の葉を取って見せる。緑郎も教わった通り同じような大きさの笹の葉をちぎって、青一の示す折り方や切り込み方を眺める。夏から歩き回っている青一の手は小麦色に焼けていて、その力強そうな手で細やかに折り目を入れる。顔の近くで笹舟を作る青一の集中する顔。分からない振りをしたらもっと構ってもらえるんじゃないかと、緑郎は思いつく。
「お、出来ない。難しいな」
緑郎は、とぼけて、折り込みを浅くしてばらけやすいようにした。青一が見に近づいて、緑郎の持ってるの笹の葉を確かめるついでに手取り足取り教えてもらおうという魂胆だ。
「才能ないんじゃないの君は」
妙な空気を察して青一は一歩下がった。そして悪い笑みを浮かべる緑郎を真顔で見ている。
「そ、そう言わないで教えてよ、ね?」
ズタボロの笹舟を見せて緑郎はすがった。青一の冷静な目の中に、自分のバカさ加減がくっきり映し出されているのが見える。緑郎は風流な男に、浅薄な算段が通用しないのを痛感。穴があったら入りたい気分である。
青一はいぜんとして真顔で緑郎を見ている。どうにも気まづさに耐えられなくり、緑郎は笑いだした。赤鬼みたいに顔を真っ赤にして……。
青一は急にバカになった緑郎を見て、あははと無邪気に笑い、仕方ないなという風に笹舟をもうひとつ作ってくれた。
二人は、手水にそっと笹舟を浮かべた。どっちが速いか、競争させようと青一は言う。よーいどんで、ふうふう息を吹きかける。青一の笹舟は思わぬ方向へ行く。軌道を換えようと、回り込んだ青一はまた夢中で息をふきかけ、緑郎と目が合うと吹き出した。変な顔。お互いにそう思っている。
一応神社に参拝して、帰り、また石段の途中で残りのお菓子を食べる為休憩した。緑郎はなんとなく真っ直ぐ帰れない気分だった。青一は柿を食べようとワクワクしていた。
ひとしきりおやつを食べ終わり、無言になった。もう昼を過ぎていた。緑郎はまだ一緒にいられないか、考えていた。行きがけにチラッと見えた栗林にはもう栗があまり残っていなそうだったので、栗拾いより昼ごはんをどこかに食べに行くほうが良いかもしれないと……。すると黙っている緑郎に、青一が尋ねてきた。
「東京にいた時、新宿にはよく行ってた?」
新宿という単語に、緑郎の心臓が飛び上がった。これはどういう質問だ? まさかあのことか? 容疑者のような思考で頭が緊迫する。ずっと黙っていると、答えられないということは図星だということになるような気がして、
「そんなには行ってないです。飲む習慣ないし」
本当のことだ。二丁目のノリも雰囲気も大好きって訳ではなかった。それにお酒も弱い。これはただの、地理的なもしくは飲食店の話題なのか?
「そうですよね」
そう言って青一は黙った。おい話を終わらせるのか。なんで聞いてきたのか、尋ねられなくとも訳を話さんかい。緑郎は困惑する。
「行きつけのお店があるんですか?」
「いえ」
じゃあ、なんだろう?でもあんまり深追いしても、こっちが墓穴を掘る可能性もある。緑郎は、上手く聞き出すことができないから、様子を見ることにして黙った。しばらく、沈黙が続き、もう帰るしかないなと緑郎が思い始めた頃。青一が重い口を開いた。自身の顎を指で挟んで、にぎにぎしている。
「一週間ぐらい前に、マッチングアプリで緑郎くんを見つけたんです。それで思わずいいねを押しました。でも、よく考えたらしょっちゅう顔を合わせるのに裏でこそこそサインを送ってるみたいな感じになってて不気味かなって思った。だから、いいねを取り消そうかと思ったんだけど、あのアプリって一旦いいねが押されると取り消しても相手には通知がいくようになってるから、僕は焦った。そして、アプリで気づく前に言った方が良いと思いながら言い出せなかった」
緑郎は驚愕して、青一を見る。青一は、緑郎の視線を感じて顔を背ける。
「ゲイって、ことですか?」
青一は、うつむいて押し黙る。その様子で、緑郎は、相手を沈黙させるような言い方をしたとして、ハッとした。己の非礼を取り消せないか、言い直してみる。
「のぞいてみただけって事もありますから、ね」
青一は、グッと堪えながらまたポツリと言葉を捻り出す。
「うすうすそうじゃないかと思ってて。でも、なかなか認められなくて」
「そうですよね……。」
「でもこっちに来てから緑郎君が、いつも僕のことを見ている気がした」
告発が始まったかのような。そんな気がして緑郎は、動揺でしどろもどろする。
「は、あ、あの。すいません」
二人とも押し黙る。
「僕は君にいいねを押した。君はどうする」
青一は、静かに言う。手をしっかり組んでいる。彼はずっと耐えながら、順を追って話していたらしい。その忍耐に、緑郎は心をつかまれる。
「い、いいねを連打する」
気の利いたことなんて思い浮かばず、緑郎はとにかく返事をした。緑郎も、この喜ばしい申し出を早く成立させたい。
やがて恐る恐る、青一は緑郎に顔を向けた。目が合うと二人笑顔になった。緑郎も、それでようやく肩の力が抜けた。
十二月の日は短くて、日没が迫っていた。朝、雪右衛門を連れ出してもう十五時過ぎている。暮れ始めた空の色が、緑郎の目の端に写る。
「あっ」
大きな声が出る。どうしたのかと、青一は目を丸くしている。今冬だから、暗くなるのが早い、山から出ないと危ないし、雪右衛門も帰さないとさすがにまずい。早口で緑郎が説明すると、青一はすぐに納得し、そこらに置いていたゴミや荷物を一気に自分のリュックに入れ込み、
「よし。オッケー」と、すぐに立ち上がった。
目にも止まらぬ速さで対応する青一に、緑郎は笑う。伏せて居眠りに入っていた雪右衛門に声をかけ、二人は立ち上がった階段で伸びをした。今一度、紅葉と枝だけになった樹が織りなす山の景色、濃紺の海の景色をしっかり眺めた。
帰り道の途中、下り坂で、湿った枯葉で滑るから気をつけてという言葉の後に、さりげなく、
「手、つなぐ?」
と、緑郎は言い、顔を赤くした。
「ふん」
青一も顔を赤くする。
手を繋いだら、もう暴れ狂いそうに緑郎の気分は高揚した。高熱時よりも顔は熱く、心臓がだんだんうるさく胸を叩く。普通の人間の装いをするだけでも精一杯。緑郎の熱い頭の衝動は、ひと目もはばからず山道獣道関係なく走り回って、やったやったあ!と、歓喜の雄叫びをあげたがっている。
やがて、気分がだんだん落ち着いてくると、辺りは樹々の影で薄暗く、静けさと誰もいない解放区が、二人の前に広がっている。と、緑郎の脳だけがそう解釈し始めた。良い雰囲気だし、恋人っぽいことをするタイミングなんじゃないか、青一は恋愛に慣れてないから、こちらが行動するのを待っているんじゃないだろうか。緑郎、何の準備のつもりか、舌で唇がガサガサじゃないか確認してみる。
そして相手はどんな様子か、それとなく顔を横に向けてみる。青一は自分の手に持ったリードの先の雪右衛門を目で追っている。
──彼はいつも自然体で素晴らしい人なんだよ。
目が覚める緑郎。だけど、樹々に囲まれ、静かで誰もいない山道、前を向いて歩いていても、横で歩く青一の体温がこもった息づかいを感じると、また脳があの状態になっていく。いつの間にか、緑郎は『もうここで』という気分に屈しそうになっている。考えてみても、青一にどう思われるかそれ以外の外聞はない気がする。青一が良しとしてくれれば、済む話。という訳で、やはり『もうここで』と、青一の正面に回り込み、まず顔を見つめてみる。青一、視線を上げて緑郎の目を見ると、この散歩に浮かれているのか、と平常心からにっこりする。それで緑郎は『たぶんここではないんですよ』と、自分に忠告する。それで、接吻のタイミングを見誤った慣れない自分にまた小っ恥ずかしくなり、
「かっ!」
と、緑郎はとつぜん声をだした。雪右衛門が両耳をピクッとそば立て、野鳥が枝葉を揺らし逃げる音がする。ここで青一、緑郎のさきほどからの挙動不審のわけに気づいた。
「まあ落ち着け、僕に考えがある」
至って落ち着いているような口調だが、彼も緑郎のそわそわした気配に、気がはらはらと騒ぎ出したのか、緑郎の手を無意識に、にぎにぎしている。真剣な目を緑郎に向けて言う。
「お互い、親族の家に厄介になっている身だ。南へ行った時に、そういう宿を見かけたんだ。だから、君の仕事が終わったら、明日そこへ行かないか」
「はっ。大賛成だ。──しかし、急に行って平気かな」
「僕が明日確認しよう。それから連絡する」
良かった。青一の頭の中が分かり、緑郎は息を大きく吐いた。
帰りは下り坂が多いから、出入口には行きの半分ぐらいの時間で到着してしまった。樹々の隙間から畑や道路が見えてくる。
『あぁ、もう戻る時間か』
緑郎の顔が曇る。目を合わせると青一も悲しげな笑顔で、緑郎の手をそっと離した。
山から出て、開けた空はすっかり夕暮れでカラスが鳴いている。薄暗い畑の小道を、二人は黙りこくって雪右衛門のあとに続いた。
小林家を出て、それぞれ自転車にまたがり「じゃあ、また明日」と、声をかけ合う時には、気を取り戻し、二人とも明日の予定で満面の笑みを浮かべていた。
彼らは翌日、無事に大盛り上がりして、それからは毎日連絡を取り合い、緑郎はアパートを借りて引っ越したいと考え始めていた。
二人でひそかに楽しく過ごしている内にあっという間に一ヶ月が経ち、アパートを探していた頃、旅館の近所のある人が緑郎に対してよそよそしくなったように感じた。
『何かしたかな』
朝、たまにおはようを言い合うぐらいでほとんど接点がないから、気のせいかと彼はすぐに忘れた。しかし、翌日になると、旅館の周りで会う近所の人たちが、彼をジロジロ見てくるのだが、その目には驚きがあった。それで、やはり何かが起きていると緑郎は察知したのだが、そうかといって「どうしましたか?」と、直接聞きにいくほど彼は太くなれないので、もしかしたらバレたかもしれないと、ひとまず青一にだけ報告した。あんまり居づらくなるようなら二人で東京へ戻りたいと緑郎は考えていたので、青一にも知らせて、考えておいてもらおうとした。
また翌日の早朝、雪右衛門の散歩をしに小林家へ迎えに行くと、初めておばさんが出てきて、
「今までずっと雪右衛門の散歩してくれてありがとうね。父ちゃんが電動自転車買って、それで犬の散歩さ行けるようになったから、もう心配いらないよ。あのもうひとりの男の子にもそう伝えてけれ。本当に、二人には感謝してもしきれないよ」
と、言う。
おばさんはボサボサ頭で眠いところを用件のために起きてきた様子だったし、本当のことを言ってるような感じだったのだけど、緑郎は、タイミングもあって疑心暗鬼になっていた。
本音かどうか確かめたかった。が、その日は何も聞けず、せっかく来たからと雪右衛門の散歩をして仕事へ向かった。
旅館でも、みんなの様子が変わっていた。でもそれは、学校の仲間のような注目の仕方だった。同期たちは朝会った時からずっとニタニタして、はにかんでいる。仲居さんたちも緑郎を見かけると、ふふふと口を抑えて、何か言いたげな含みのある目で見てくる。それで、もうバレたんだなと緑郎は悟って、そういう宿に出入りしたのを誰かに目撃されてたのかなと気が重くなった。バレたことと同じぐらい、バレ方が気になった。
変なバレ方をしてないか心配しながら、受付の前を通るついでに、緑郎は中堅社員の咲田さんに軽く頭を下げて挨拶した。
「おはようございます…」
「あ、おはよう。ねぇねぇ、彼氏できたんだって? 」
咲田さんだけ、場の空気を一切読まずに、気軽に聞いてきた。
緑郎は受付に倒れ込むよう腕を乗せ、頭を伏せて大きな息をついた。よかった。やっぱり旅館の同僚は、奇怪な目で俺を見ていた訳じゃないのだ。
咲田さんは、近づいてきて、
「恋愛にはぜんぜん興味ありませんみたいな顔してたくせにさ。こいつ、つねくってやるか」
「あぁいいよ」
緑郎は、顔を横に向け、安心した顔で答えた。咲田さんは、緑郎のほっぺを軽くつまんで、
「いいないいなあ」と、言う。女性の指は子供みたいだ。
その後、調理場へ行ったのだが、江野も栗ちゃんもいつもと変わらず、緑郎が話を切り出しても、知ってたよと言うのだった。女性を恋愛対象で見てないのが、日頃から出てたし、朝、海辺で男の人と散歩してる時の雰囲気が恋人みたいだったと、みんな落ち着き払っている。
案外自分の知らないところで、いろんなことを他人は感じ取っている。緑郎は、へへへと苦笑い。でも、近所の人にも知られてて旅館の従業員も知っているということは、やはり小林さんにも伝わっているんだろうなと、緑郎はぽつり呟いた。
「おばさんは全然気にしてないんじゃないかな」
栗ちゃんは、あの人はそういう人じゃないだろうと言う。今朝のことを緑郎は打ち明けてみる。散歩来なくていいって言うのは、自分のせいかな、と。絶対そんなことないよと、栗ちゃんは言い、後でそれとなく聞いてきてあげるからと、緑郎の肩に手を置く。
栗ちゃんとおばちゃんたちは、昼休み、早速小林家に偵察へ向かった。牛肉の筋を茹でたものを雪右衛門の土産にして。
小林家の庭で、栗ちゃんとおばちゃんたちは、小林のおばさんと世間話をして、それから緑郎の噂を持ち出し反応を見た。おばさんは、海外ドラマみたいだよね〜とやはり気にしていない様子。緑郎が不快にさせてしまったか気にしているようだと、栗ちゃんがやんわり切り出すと、おばさんは、ええ何でと驚く。
ずっと犬の散歩を任せていたから悪いなと思っていたところ、本当は良くないんだけれど、電動自転車という解決法が見つかったから、もう大丈夫だって言ったまでで、本当にそれ以外の意味はない。またいつでも遊びにおいでって伝えてくれ。改めてお礼もしたいから。それで話は変わるけども、雪右衛門が最近、縁結びの御犬様、白犬の恋神様ともっぱらの評判で、毎日夕方になると、十代の女の子とたまに男の子も拝みに来るんだ。今は町中その噂で持ちきりで、忠犬ハチ公みたいに有名になっちゃうかもしれないと、おばさんが意気揚々話していたと、夕方栗ちゃんは教えてくれた。
それで、良かったと思うと同時に雪右衛門といる時に誰かに見られたんだ、と緑郎は理解し、この噂はどこまで広がっているのか、地元の中高生にまですでに広まっているということは、昨日も今朝も祖父母は変わりない様子だったが、実は祖父母にも届いているのか?そう疑念を抱いた丁度その時、調理場の内線が鳴った。
緑郎は受話器を受け取り、電話口で、女将が呼んでいるから一旦家へ帰るよう番頭に言われる。
家へ戻る途中、緑郎の心臓はどくどく脈打っていた。母や妹にはカミングアウトしてある。しかし、祖父母には一生言うことはないだろうと考えていた。外孫にそんなことを言われても困るだろうし。
家の手前で自転車から降りる緑郎。いったん止まって、敷地をのぞいてみる。見知らぬ車が一台駐車してある。客がいるようだ。用は、別のことか?
「ただいま」
聞こえないような声で緑郎は言う。静かな玄関で、音を立てないよう靴をぬぐ。室内からも音がしない。いつもは大音量のテレビの音がする。
とりあえず、麦茶を飲もうと台所へ行った。のれんをくぐると、祖母がいた。お茶の準備をしている。居間から、低い男の声がする。
「あ、もどったか」
「うんただいま。どうしたの?」
祖母は、緑郎を居間からいちばん離れた客間へ誘導し、小声で言う。
「中田さんと勘助さん知ってるか?」
「ふん。中田さんは農家さんで、勘助さんは猟友会の人でしょ?何回か会ったし話したこともあるよ」
「はぁ、あのな……」祖母は言いかけて、うつむいた。「せっかくこっち来て頑張ってくれてるのに、嫌な目にあわせてばっかで申し訳ないな」
そう言うと、面目なさそうに、祖母は説明する。
緑郎と青一が山の神社へ行った日、ちょうど中田と勘助も縄猟の見回りで山に入っていたのだそうだ。そこで、緑郎と青一が手を繋いで歩いているところを目撃し、早朝の浜辺を二人で犬の散歩をしている姿を何度か見かけたこともあり、中田は二人が出来ていると、勘助の制止を無視して、猟師小屋で仲間たちに言いふらしてしまったという。それで、今日は謝りに来た、と。
「ろくちゃん、会いたくなかったら断っていいんだよ。爺さんもカンカンだよ」
緑郎は、正直ホッとしていた。もはや、そういう宿で見つかったわけではないなら、自分の尊厳は守られたような気がする。祖父母、家族に自分の性的な匂いを嗅がせてしまうことを、緑郎はもっとも避けたいと感じていた。
しかし彼がそのことと同じくらい気になるのが、
「ところでね。おばあさんは、孫がゲイでもいい方針なんですか?」
祖母は、へっへっへと笑った。そして顔をほころばせ言う。
「昔から、旅館にはそういう人たちは来てたんだ。旅館をやっていれば、男同士だの女同士だの、人目を忍んで泊まりに来るお客さんなんて、なんぼでも見てきたんだ。みんなね、昔からそうやって世間と折り合いをつけて、生きているんだからさ。──そういう人や人生があることは分かってんだよ」
「お祖母さん、歴史学者のようなんだね」
「人前に出れば、風当たりが強い日もあるだろうさ。だけどね、お前らのような人たちは、そうやって少しずつ日当たりのいい場所を作って、次の人のために繋いでいったんだべ? わたしらはね、孫がここで人前に出てやっていくって言うんなら、ちょっとだけ土地の知恵を貸してやるつもりなんだよ」
祖母はいっそこの際、状況に乗じて、うまく舵をきり、隠さずに交際してみてはどうか、と遠回しに提案しているようだ。海千山千のお婆さんなので、風の読み方が違う。
「もう海辺では知れてしまったけど、青一くんと相談しないといけない」
「青一くんって言うのかい?へっへっへ」
「うん」
「中田さんが、土下座したいって言ってんだけど、そっちはどうする」
「帰ってもらえると、ありがたい」
祖母はうなずき、一人でお茶の間へ向かった。やがて、ガラガラと玄関の引き戸の音がして、男の低い声が何か言ってるのが聞こえて、気配は静まった。
祖父の話だと、中田さんは大学生の孫にアウティングは相手方に訴えられてもおかしくない違反行為だと叱られ、今時の人ならそういうこともしかねないと訴えられるのが恐ろしくなって勘助さんに泣きつき、勘助さんは自分にも責任の一旦があると感じ、ひとまず謝罪させることしたらしい。
祖父は、中田に大きな貸しだと睨みを利かせておいたから、何かあった時には大きく返してもらえと、緑郎の肩を力強く握った。田舎のお爺さんたちの落とし前のつけ方に、緑郎はびっくりしたが、そういう方法もあるのだと学ばせてもらった。
状況を知らせようと、緑郎はすぐに青一に電話した。青一は緑郎を心配して、大まかなことだけ聞くと、今からどこかで落ち合おうと言う。海辺の方に来ていると言うので、緑郎もそっちへ向かうことにした。いつもの海岸だと、噂の渦中にあるので、いつもの海岸から南下したところの灯台がある海岸で待ち合わせた。
緑郎は、温もりが残るコートをまた羽織り、祖父母に「ちょっと会ってきます」と、言い、軽トラの元へ駆け出した。
一足先に到着した緑郎は、浜辺で冷たそうな海を眺めながら青一を待っていた。
『縁結びの犬とは。若い子たちのおかげで、噂がずいぶん前向きになったな』
冬が深まる山形で、緑郎の胸は、次世代の夢のある受け止め方に心がじんわり温かくなった。
澄みきった空気の中、鋭い夕陽の光線が緑郎を照らす。北風の中に、あと数日もすれば雪を孕んだ雲が、海辺にも流れてくる気配を感じる。緑郎は、冷たい空気を吸い込んで、水平線に道を作リながら沈んでいく夕陽を見つめた。
後ろから、勢いよく砂浜を踏む音がする。
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