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太陽と海と、果物の王国 下

 犬のおかげで、幸いにも緑郎は自身の出会いの無さや、浜辺で見掛けた青年の爽やかな面影をすっかり忘れて過ごせた。

 緑郎はあの日以来、週に二三日、三十分早起きして雪右衛門の散歩をしている。おばさんは、緑郎たちがいつでも散歩出来るよう、リードを玄関ドアに掛けて置いてくれた。だから、緑郎は自分が散歩したのが分かるよう、散歩の後はリードを玄関ドアに掛けて、ゆるめにひと結びにしておいた。そんなやり取りがあって、一週間ぐらい経った頃、再び早朝の散歩に雪右衛門を迎えに行くと、玄関ドアにピカピカの新しいリードが掛けられていた。すっかり頼りにされていて、緑郎はズッコけた。

 そしてその日は面白い事が続き、海岸沿いを犬と歩いて戻っている時、早朝の薄暗い町で、煌々とした明かりで中がすっかり見えるコンビニに、人が入っているのが見えて、こんな天気のいまいちな朝早くにと道路を挟んで対岸から覗いてみると、あの彼なのだった。

 しかし、残念な事に、緑郎はもう犬を帰してすぐに仕事に向かわなくてはならなかった。彼は携帯を光らせて、時刻を確認した。そして、もう一度コンビニに青年がいるのを見届けてから、飛び跳ねるよう帰路についた。

 翌日、待ち遠しかった瞬間を迎えようと、自転車を力強く漕いで海岸へ向かった。途中、あんまり早く着いたら見損ねてしまうんじゃ無いかと心配になって、緑郎はブレーキを掛けた。ゆっくり海岸線に入り、またのんびり車輪を回し、はやる気持ちを抑えながら、山の朝日に目を細めた。そして、まだ先にあるコンビニと流木を探した。早速いない事に気づいた。時刻は昨日見た時より三分早かった。緑郎は、自転車を止めてどうしようか足を着いてペダルを後ろに回した。そして自転車を押して、用も無いのにコンビニへ入って、窓の側をそわそわしながら二往復して、雑誌を読む振りをして外を見ていた。

 雑誌の文字も写真も全く頭に入ってこなくて、代わりに思い浮かんできた文字は、

『仕事じゃないだろうし来る日時なんて決めてないんじゃないか』

パタンと雑誌を閉じて、緑郎はレジ前にあるミントタブレットを買ってから店を出た。自分は何をしているんだろうと思った。成人男性が浮かれて好みの男を待ち構え、狙われている男は何も知らなくて、ただ景色を楽しみに来ているだけ。そんな画が思い浮かんでくると、楽しかったのは自分ひとりだけだったと、胸がチクッとする。

 次の日、海岸の流木に青年が座っているのが見えた。遠くからでも分かった。緑郎は、一瞥して自転車で素早く後ろを通り過ぎた。──少数派の自分の世界では、周りにこんな事ぐらいしか刺激がなくて、だからこんなモノで騒いで突き動かされてしまうんだ、待ち伏せなんかして、どうせノンケを怖がらせるだけなのに。

 早朝の柔らかい陽光と新鮮な空気を切り裂くぐらい、彼は懸命にペダルを踏んだ。

 緑郎は、異性愛中心世界での所在なさを改めて認識し、表層的な意識の中では、青年を見る為に、機会を待ったり自ら行動を起こすような事をしたくないと考えた。彼は、シフト通りに生活して、たまに見かける青年をちら見したり、目を逸らしたりして過ごした。どうせ夏が終わったら居なくなるんだから放っておけ、それがその週の心を支える合言葉だった。

 一方で、雪右衛門との仲は日に日に深まり、犬の方がすっかり彼に好意を寄せるようになっていた。雪右衛門は、緑郎の足音や自転車の車輪音を判別していて、門扉を開ける前から来たのを察知して喜び勇んで吠え、門扉が開いて緑郎の姿を確認すると、後退りして尻尾をちぎれんばかりに振って出迎えた。そういう犬の姿は彼の心を温めた。

 しかし、好きに振る舞うことに慣れている雪右衛門は、散歩中一回は駆け引きを仕掛けてきて、自分の行きたい方向を主張するか、帰らない事を主張した。緑郎は、全部却下した。彼は犬の思惑を理解していたし共感もしていた、しかし応えられる時間がなかった。

 雪右衛門はこうしてわがままを表現できているから、愛情は十分貰っていると判断して、彼は自分は運動させる事になるべく撤したいと考えた。雪右衛門の方でも段々と、駆け引きが通じない事を覚え始め、可哀想になる程従順な犬になっていった。その姿に、緑郎の頭ではいつもどこかに『たまには伸び伸びできる自由を作らなきゃ』という予定があって、この日は、雪右衛門の行きたい道を好きに歩かせようと思っていた。

 小林家の門を出て「どっち行く?」と、緑郎が雪右衛門に尋ねてリードを緩めると、雪右衛門は言ってる事が分からないようで、その場で笑っているみたいに舌を出してずっと立ち止まっている。時間がもったいないから緑郎は、とりあえず海側へ歩き出した。雪右衛門は尻尾を振ってすぐに緑郎を抜かして前を歩いた。引っ張らないよう毎日教えているので、リードが弛む範囲で雪右衛門は前へ突進したり道草している。緑郎も、雪右衛門がトイレ休憩に入る時と草や道を嗅ぐ時は事情がないかぎり絶対に急かさないと決めている。二匹の間で心地よく一緒に過ごす為のルールが出来てきている。

 前を行く雪右衛門は「好きに行っていいのかい?」と、聞いているみたいにたまに後ろを振り返り、散歩コースを歩き始めた。その度「いいんだよ」と、緑郎は小声でうなずき、ようやく意図が伝わったみたいと安心した。

 雪右衛門は浜辺に行き、少し歩くと、柔らかな砂を掘り始めた。興奮して「ワンっ」と、何度か大きく鳴いて前半身を下げ構えて、自分で掘った穴ぼこに喧嘩を売っている。一生懸命な様子の犬が好きな緑郎は、雪右衛門の奮闘に大受けする。そのうち雪右衛門は後ろ足でも砂を蹴り蹴りして、後方に盛大に砂嵐を巻き上げた。風で流れて、緑郎の顔にかかり「やめろバッカぁ」と言われても、雪右衛門は気の済むまで止めなそうな乱痴気に取り憑かれて、後ろ脚をバレリーナのように真っ直ぐに振り上げ続けた。

 仕方がないので、緑郎は犬の興奮が収まるまで風上に移動して待っていた。犬は彼の待っている姿にふと散歩の途中だったことを思い出したらしく、何事もなかったような顔をして、浜辺を探索し始めた。お前、砂にイカれてたことは明白だっただろうが、緑郎は雪右衛門を見た。

 浜辺の匂いを嗅ぎながら、雪右衛門は歩きはじめ、後を続いていた緑郎はふいに、前方には青年がいることに気がついた。

 浜辺沿いに自然と近づき、雪右衛門は上手いこと青年の脚を嗅ぎ始め、寄ってきた犬に青年が手を伸ばし、なんと交流が始まった。緑郎はしめしめと思った。

「東京からですか?」

興味津々で、緑郎は尋ねた。前のめりにならないよう気を付けていても、もっと近づいて、青年の印象を確かめたくなる。

「はい……」

青年は一瞬緑郎に目を向けると、後は雪右衛門だけを視界に入れた。青年の目は沈んでいるような覇気のない表情をしていた。元気のない様子に、人見知りかもしれないし話したくないのかもしれないから、緑郎はもうこれ以上話しかけるのは止した方が良いと思い、青年と雪右衛門の交流が終わる頃合いを待つことにした。

 緑郎は犬と男に背を向け、水平線を眺めた。後ろでは、山の鳥たちもすっかり目覚めていて、家の屋根や電線へ下りて来てさえずっている。犬の息遣いや青年の微かな笑い声から、二匹は上手くやっているらしい事も伝わってくる。

 静かになり、そろそろ雪右衛門も飽きてそっぽを向いている頃かと、緑郎が振り返ると、雪右衛門は青年の脚に寄り掛かりながら座して目を細めていた。全員、海の彼方を眺めて、耽っている。

 彼らの気分が海や空と溶け合っている最中、緑郎は「帰ろう」と言い出しづらく感じて、舌なめずりしながら、もう少し待ってた方が良いのか迷い出した。なんとなく、雪右衛門と青年の方を向いていると、

「この子は、旅館の後ろにあるクラウンが止めてある家の犬ですか?」

と、青年から質問してきた。

「クラウンって、王冠マークの車のことですか?だとしたら、そうです」

「やっぱりそうか。今時、外飼いは珍しいと思ってたんです。大丈夫なんですね」

青年の口ぶりで、雪右衛門の飼い主だと思われていそうな雰囲気を感じ取り、緑郎は訂正した。

「あの、私はこの犬の飼い主ではないですよ」

「えっ」

当然青年は驚いた表情をして緑郎を見上げる。

「私はそこの旅館の者で、犬の散歩は趣味でしてるんです」

「えっ?」

さらに目を丸くしている青年に、緑郎は改めて事のあらましを説明する。

 同僚の紹介でたまたま知り合った犬で、飼い主が腰痛と膝痛で散歩が出来ないので、飼い主の了解を得て自分が出勤の日に早起きしてたまに朝散歩に連れ出している、等々。

 青年は「うんうん」「ふぅん」と、緑郎の目をしっかり見て聞いていた。だから、緑郎は自分の目をじっと見て真面目に聞いてくれるのが照れ臭くて、浜辺に視線をやったり青年の目に視線を合わせたり、はにかみながら説明した。

 話を終え、緑郎がもう仕事に行くからと去ろうとした際「明日も散歩に来ますか?」と、青年に訊ねられた。休日だったので、その予定ではなかったのに「あ、はい」と、相手の意向に合わせて緑郎は答えてしまった。青年の礼儀正しい感じに、どこか惹かれる。


 犬の散歩の為に余計に早起きして働いている繁忙期の一週間に、いくら二十代とはいえ休日の早起きは身に応えた。緑郎は、かろうじて目を開けているような眠さの中、海岸へ向かって脱力ぎみにヘトヘトで自転車を漕いだ。青年は何の用だか、大概はまた犬と遊びたいとかそんなものなのだと分かっていても、いつもなら自分にとって都合の良い空想をしながら向かったりするものだが、この日の彼の頭の中は「行く」って言ったんだからとにかく姿を現さなくちゃという一念だけだった。

 力ない手つきで小林家の門扉をあける緑郎の姿を見ると、雪右衛門は二日続きの散歩に興奮して、うしろ足で立ちながら前足で「はやく来い」と呼んでいるみたいに宙を掻き掻き、高い声でむせびなく。あんまり必死で、首輪が首に食い込んでいたが、雪右衛門はそれでも懸命に緑郎を呼び続けるので、見かねた緑郎は駆け寄って「坊ちゃん、お願いですからやめてください」と、カサカサの声で言い、一層やつれた顔になる。雪右衛門は満面のえがおで緑郎の腹にとびついて、彼の手に熱い息をハァハァ掛けながらペロペロ舐めて歓待する。雀のさえずる爽やかな夏の朝だった。

 朝日が照らしはじめた道を緑郎はぐでんぐでんに歩いて、犬ゾリみたいに雪右衛門が引っ張ってってくれたら良いのにと、まぶしそうに目を細めた。

 海岸通りに出ると、遮る物のない浜辺に人の姿があるのをすぐに確認した。緑郎は、きっとあの青年だろうと見当していたのだが、これ以上早く歩くなんてしたくなくて、犬の後ろ姿をぼんやり眺めながら近くなるのを忍耐しながら歩いた。

 浜辺に入り、砂の上を歩いて、さざ波の音を聴きながら、緑郎は青年を見つめた。砂浜で一人裸足になって、流木の上に立て膝をして、海を眺めている。広大な海の前でチノの短パンと白いティシャツの、飾らない男がおれを待っている。そんな様子が伝わってくると、砂に取られる足の重さが気にならなくなる。彼がいると何もかもが新鮮なものに見える。彼の全身から発される落ち着いた雰囲気は、緑郎にとっては類のないものに見えた。どうしてそう見えるのかは分からないが、他の男には見受けられないものだった。それに、さりげない動きのどこかに色気があった。

 波の音で、青年は近くに迫って来ている雪右衛門と緑郎に気づかず、白くなった流木に腰掛けたまま、山の朝日がかすかに照らす水平線を眺めている。と、先に雪右衛門が青年の足下に着いて、彼を多少驚かせたが、すぐに頭を撫でてもらっている。リードの元を追うよう目を上げて、視界に緑郎を写すと、青年は「おはようございます」と、会釈する。青年の声が聞こえると、緑郎の頭はすっかり目醒めて「おはようございます」と、張りのある声で応えた。

 早速青年はポケットの中から小さな軟膏を取り出して言った。

「これ、良かったら。わんちゃん皮膚がかぶれてるみたいなので」

青年は雪右衛門の左の太ももの裏側を見せて、掻きむしったせいで毛が無くなり肌に血の滲んだ跡が点々と黒くかさぶたのようになっている箇所を教えてくれた。

「えっ」

緑郎は、びっくりして言葉を失った。犬の皮膚かぶれ、久しぶりに見る。小林さんは知っているのかな。飼い主抜きで話を進めて良いのか戸惑った。固まった緑郎を安心させようと思ったのか、青年は続ける。

「あの。僕、獣医師だったので、この軟膏はその時に祖母の犬用に購入してた物なんです。祖母の犬も夏によく皮膚がこんな風になってたので今回持って帰って来てたんですけど、去年その犬が亡くなってたものですから、使う機会がなくて、だから怪しい代物ではないんです」

話は分かるのだが、緑郎はまだ判断がつかなくて黙っている。

「──だからって、本当はよくないですよね。普段はこういう事は絶対にしないんですけど、犬に親切にしてる人がいてが嬉しくて、昨日この子の皮膚が荒れている事に気付いて、丁度薬持ってるし、良いタイミングだなと思って。でも、突然こんな事言われたら困りますよね。すいません」

ずっと黙っている緑郎に恐縮して、青年はしゅんとしてしまった。

 青年の気持ちが動きやすかったのは、たぶんこの土地のせいでもあると緑郎は感じていた。他人の犬の散歩なんて、東京ではそんなに気楽に出来ないし、した事もなかったのに、緑郎はここでなら簡単に実現できたし、そういう空気感があるのだ。だから、青年も山形の地で、都会の感覚が丸くなだらかに形を失い始めていても不思議ではない。聞きながら彼の言い分が許されそうな状況である事は理解していたのだが、それでも何と言って良いのかすぐには判らず、緑郎は黙ったまま考えていた。沈黙した後しばらくして、緑郎は青年に訊ねた。

「今日って時間あります?」

もし良かったら、これから飼い主に紹介するから、承諾を得てそれからこの薬を使ってみたらどうか、自分には犬の体のことを判断できる権限がないと思うのでと、彼は説明してみた。すると、

「僕は今無職だから時間があるので大丈夫なんですけど、そちらは今日はお仕事じゃないですか?」

と、青年は昨日話した旅館で働いている事を覚えていて、緑郎の予定を気にした。自分の予定を気にかけてくれる言葉は新鮮で、緑郎の胸はほんわり明るくなった。

 それで、すっかり打ち解けた態度で緑郎は、実は今日は休みだったのだけど、なんとなく来た方が良いような気がしてつい散歩すると昨日言ってしまった事、結果雪右衛門の皮膚の状態が知れたので来てみて良かったと思った事を青年に話した。

「そうだったんですか。休みなのにわざわざ赴かせて、悪い事をしてしまいました」

そう気遣いぎみに応える青年も、言葉とは裏腹に親和的な態度になっている。それから、

「じゃあ、わんちゃんの処置が終わったら、コーヒー御馳走しますよ」と、コンビニを指差して、微笑む。

 緑郎は、青年の気遣いを感じて、無職の人にそんな事をさせて良いのか、客観的に見てこれは妥当なのか、もしかして今日を一緒に過ごせる未来への約束?と頭が忙しなく動いて、打算と相手への気遣いの狭間を行ったり来たりした。でも何か言わなきゃと迷いながら、

「あの、気持ちはありがたいんですけど、無職って言ってましたし、どうなんでしょう」

と、判断がつかないまま言い、途端に顔をしかめた。他人から無職である事でお金の心配をされたら自尊心が傷つくんじゃないか、と男性心理に初手で思い至らなかった事を咄嗟に後悔した。よく知らない相手には慎重に振る舞う緑郎は、うかつだったような気分に襲われた。

「なに、貯金してたし、それぐらいはありますよ。なんなら朝食だって付けられます。ははは」

予想に反して、青年が気さくに応対してくれたので、緑郎はホッと胸を撫で下ろした。こういう時に、たまにムッとする男もいるので、緑郎はそういう人相手に話していると自分がゲイだから男心が分からないのかもしれないという気分に見舞われる。が、この青年ならばその心配はあまりなさそうだ。

「じゃあ、カフェオレとミックスサンドと高菜お握りと鶏皮とアメリカンドッグ買ってもらおうかな」

緑郎は今度は図太く要求して、冗談ぽく微笑む。

「それっぽっちで足りますか?」

青年もとぼけた顔で目を合わせてきたので、二人で笑った。それに青年は朝から鶏皮とは通だなと関心してくれた。

 まあ大丈夫だろうと思っていたら、やはり小林家の人達は何も疑わずに承諾した。それどころか「なんてラッキーな出会いだろうか」と、大喜びし緑郎と元獣医の青年にスイカを一つずつ持たせると「これからもよろしく」と、頭を下げた。

 青年はスイカを縁側に置き、一旦自分がやるからと、おじさんとおばさんにパチンコ玉ぐらいの量を日に二回程塗ってくださいと、軟膏を絞り出して犬の脚に塗って見せた。緑郎は、青年の長く綺麗な人差し指に純白のクリームが小さく乗っかっているのを、手際良く犬の皮膚に塗り広げるのを、職人技を見ているような良い気分で眺めた。

 青年の処置が終わると、まだ犬の散歩の途中だったため、緑郎は旅館の裏口に寄ってスイカを二玉預けて、ついでに青年に旅館の正面を少し案内して見せた。それから、二人はコンビニで朝食を買って、また海岸に戻ろうとしていた。

 軟膏が乾くまで砂浜はやめようと青年が言うので、流木とは反対方向にある松林の影が落ちる砂地の草むらに腰を下ろした。

「スイカ丸ごとくれるんですね」

青年は腰を落ち着けると、コーヒーカップを草に埋め込みながら、信じがたいといった様子で、話し始める。

「こっちの人は、普通にくれるんですよね」

緑郎は返事をしながら奢って貰ったサンドイッチのフィルムを下ろした。

 東京、という単語で青年はそういえば緑郎がどこから来たのかを聞きたがった。だから、職場が都心にあった為に東京で働いている間は神田で一人暮らしをして通っていた事、実家は国分寺にあるけど、国立駅の方が近かったから土地勘は多摩方面の方が詳しい事などをぼつぽつ話した。青年は、相槌を打ちながら心当たりがあるような顔で聞いていて、緑郎の話が終わると、

「僕、国立の動物病院にいたんですよ」

と、明るい顔をして発表した。それから、国立駅の北口と南口の様子を答え合わせをするように二人で語り合っている内に、青年が大学通りにあるスターバックスに言及し始めた。

「朝、あそこってテラス席でゆったりした時間を過ごす人がたくさん居て、優雅な空間でしたよね。働いてる時は忙しくてそれどころじゃなかったけど、辞めたら、一回ぐらいあそこで朝のコーヒーを味わっても良かったなって少し惜しい事をしたような気がするんです。だから、こっち来てからは海でコンビニのコーヒーなんか飲んで過ごしてみてるんだけど。ははは」

「あそこは確かに通勤通学の人とは一線を画してましたよね。おれは注文するのが怖いからスタバって一人で行ったことないんですけど。だからテラスでなんて考えた事なかったな。そちらさんは、スタバが怖くないんですね?」

「怖くないですよ。持ち帰りでなら何回も行ってましたから」

「へぇ、進んだ奴だ」

「ははは。そういえば。申し遅れましたが、僕、八ツ峰青一やつみねせいいちと言います」

「あ、私は石山緑郎と言います。九月で二十八歳、誕生日は安室奈美恵様と一緒です」

「ははは。りょくろうって良い名前ですね」

「はあ、でも呼びづらいから皆んな、ろくちゃんて言ってます」

「へぇ。僕は、そのままで呼びたいな」

無邪気に返事する青一に、どうぞお好きにと軽く頭を下げながら、緑郎は青一の親しみを真に受けまいと浜に視線を落とした。

「僕は今年でもう三十二です。年のわりに何もしてない」

どこか寂しそうな声で真っ直ぐ海を見つめて、青一は言う。元獣医で、立体的な骨格がつくるきれいな輪郭、彫像のような肌を持っているのに、自身の事を話すとどこか影を落とした。

「年上だったんですね。同い年ぐらいかと思ってました」

「まぁ、その辺は気にしないでください。海で知り合った者同士ですから、気楽でいましょう」

「あ、はい」

青一はこれまでの空気感を変えまいと、やんわりした口調で緑郎の気遣いを制するように告げた。緑郎は、それでますます好感を持った。

 青一の横に腰掛けていると、緑郎はそれだけで生きてるって感じがした。何でも出来るような気がした。それに、不思議なぐらい、自然な状態で一緒にいられる。初めて会った気がしない。

 だけど、見た目はやはり初めて見る新鮮な印象にあふれていて、意識せずにいると、目がどうしても青一に向いてしまって肩や身体の厚みがどれくらいかとか、首の付け根の肉の張り具合とか、青一が通りがかりの犬や何かに気を取られる度、緑郎は青一の上半身に視線を向けた。

 ギリシャ神殿にある柱のような丸みを帯びてそびえる白く真っ直ぐな首。崩れた丸襟から少し見えている鎖骨、膝に載せようと上げた肘の奥に見える青白い二の腕。その肌は木目細かで滑らかに見える。それでいて皮膚下から盛り上がる自然な筋肉の逞しさが、青一の小さな振り向きや腕の位置変えと連動する。綿密で柔らかそうな肌質と硬い筋肉とが美術展の彫像のように調和して艶めいている。生まれつきの品性を潜めた肌は、熱い潮風の中にありながら、見るものに涼しげな印象を与えた。

『なんでこんなところで庶民の暮らしに混じってるんだい?ダビデや 』

眩しくて清らかで、緑郎はいったん青一から視線を外した。しかし、ひとたび青一が手を砂まじりの草に潜らせて無意識に砂遊びをし出すと、首を傾げて、今度は砂色になった彼の手を眺めた。そばでは、ペットボトルの水滴が砂にしたたり落ちている。

 砂遊びに飽きると、青一は海を眺めた。青一の癖毛で丸みのある前髪が風にふわっと浮かぶ度、夏の匂いがする。ような甘い幻想に頭が占領された。

 午前十時、陽が照らす海岸には休暇の人々が詰め寄せている。緑郎と青一は松林の木陰で、たまに山から涼しい風が吹き抜けるのを背に感じていた。

 しばらくして、松林の中で過ごそうとする子連れのお母さん達が入って来て、レジャーシートを広げて角をトートバックやポーチを放り投げて押さえる音や、かけ声が混じり始めたので、二人はそろそろ潮時だと感じて、顔を見合わせると「行きますか」と、どちらともなく言った。

 旅館にスイカを取りに行く途中、青一が海岸まで自転車で来ている事が分かって、ついでだから家まで送ると緑郎は申し出た。旅館の外作業用の軽トラを借りて、自分の自転車と青一の洒落た自転車、段ボールに入れたスイカを載せて、黒いゴム紐で手際良く固定すると、運転席に乗り込んだ。ゆっくり行きますねと言って、海岸線をのんびり走っていると、青一は「僕も運転したいな」と呟いた。広大な海を横に、長閑な道路を走る浪漫を緑郎も山形に来たての時には感じていたのを、青一の言葉が蘇らせた。近くの展望スポットで車を止め、免許証と運転経験を確認して大丈夫そうだと判ると、緑郎は「じゃあ」と言ってドアを開けて運転席から下りた。青一は喜んで運転席に移った。

 海岸線から町に入る道が数カ所あって、その中の一つの道は、入れば後はただ真っ直ぐに行けば青一の祖母の家につくらしかった。ただ、そこからが案外長くかかるのだと云う。港を通り過ぎて、畑を通って、両脇で林檎農園が広がる畑に入ると「もうすぐです」と青一は言った。

 広大で見事な農園に、緑郎は通り過ぎる林檎畑をぼうっと車の窓から眺め、青々した葉の繁る林檎の木の中に白緑の果実が沢山陽を浴びているのが目に入った。全部緑で可愛いなと、緑郎は思った。サイドミラーが写しだす、緑道を走る軽トラの白い車体が浮き上がって見えるのも、田園的な色彩で気分が爽やかになる。

 もう林檎の実がなってるんですよと青一は言い、小さくて青くて可愛いですねと緑郎は答える。

 すると、対向車線からヒラメみたいなスポーツカーが勢いよく飛ばして来て、気づいた時には目の前にいた。

「うおぉ!」

青一は声を上げ、緑郎は運転手を冷ややかに見つめた。こちらがよけてあぜ道に突っ込むしかないかなと思った瞬間、スポーツカーは咄嗟の所で避けて行った。

 長閑な風景の中に突如現れた無遠慮な車。

 二人はしばらくしてから、口を開いた。まずは青一が不服そうに言った。

「田舎道であぁいう運転する奴っているんだよな」

「あぁいう者と出会う、それは下界を生きる苦行のひとつのようなんです」

「警察に捕まるといんだけどな」

「いっそのこと。おれは、おれを危険にさらすバカみな死ねと願う」

「そんな──。石川啄木みたいな事。──けっこう日頃頻繁に思うんですよね」

合流してきた。緑郎は吹き出し、青一も緑郎のツボを理解して笑う。

 青一は、それで落としていた車の速度を、勢いづいて少し加速した。二人は窓を全開にした。吹く風に頬をさらわれそうになりながら、だけど構わず口を大きく開いて、こういう時はどっちかは優等生でいなきゃ、闇深いんですよ僕は本当は、などと言い合いながら、はしゃいだ。

 林檎農園が途切れて、田畑が広がる地帯に入ると、一際立派な家が視界に飛び込んできた。その大きくて近代的な家の前で、青一は車を減速右折しコンクリート敷の駐車場の真ん中で止めた。それから、出発しやすいように車の向きを換えてくれた。

 青一の住んでいる家は、黒くスタイリッシュな建物で、東京の住宅街でよく見掛けるデザインだった。最近建て替えたらしく新築の匂が漂ってきそうだ。しかし、やはり玄関は二重にしてあって北国のあつらえを施してある。

「日中にこんなに外にいられて楽しかったな」

運転席でサイドブレーキを引きながら青一が呟くのに、緑郎は顔を向けた。

 大人になって無職になると、日中出歩く際に他人の視線が気になって、外に出づらくなる。しかし、無職だからこそ明るい日中に散歩や買い物でもして、外で色んな職業の人を見たり色んな場所がある事を知った方が良いんじゃないかと、緑郎は常々思っていた。

「そうなる感覚めっちゃ分かります」

緑郎は、山形に来る前の自分についてかいつまんで話し、同じような立場を味わっていた事を青一に打ち明けた。「うんうん」と人の話を良く聞いて、青一はまた話し始めた。

「朝、七時八時ぐらいになると、山形といってもやっぱり人出が増えるじゃないですか。海だと特に。だからその前に帰るんです」

「うん。特に今は観光客という謳歌の象徴のような存在が眩しい季節ですよね」

「だけど、そうかといってうちの近所だと顔が知れてるからぶらぶら散歩してると噂されちゃうかもしれないでしょ?もう噂になってると思うけど……」

青一はさっそく田舎の空気を察していて、身の処し方に戸惑っていた。そこから、彼はここに来るまでの経緯を話してくれた。

 青一は、国立市の動物病院で跡を継ぐ子供のない院長に目を掛けられている獣医師の一人だった事、院長の座に着けるかもしれない人生で巡ってきたチャンスだと思って働いていたが、結局過労で倒れ長期の休養が必要になった事、親の勧めで自然環境が豊な祖母の家に来たが、ここらの人達は土地にいる人間がどこの誰だかを把握しているらしいので人目がないわけではない事、休養と言っても散歩やランニングをしたり体は動かしたくなる事、家の車は叔父が使うので行動範囲がだいたい自転車で行ける範囲な事、田舎に来てはみたものの祖母も叔父も家庭菜園や園芸の趣味がないので庭の土をコンクリートで固めしまっている為、庭が殺風景で疲れた気分が和らがないように感じている事等々を久しぶりに会った人間に話すみたいに赤裸々に語った。人目を避けて過ごしたい気持ち、自然が好きなところ、青一と似ている所があってうなずける事が多かったのだが、緑郎が反応を示す前に、

「あ、自転車降ろさなきゃ」

と、突然車から降りて、青一は軽トラの荷台でゴム紐の結び目を探し始めた。緑郎も追いかけるように車から下りた。

「緑郎君は休みだからもう帰った方が良いですね」

緑郎は今日一日ずっと青一と過ごしても良いと思うぐらいなんとなく楽しいのだが、青一が休む事を重要だと考えているのも分かったので、なんとなく口が挟めなかった。

 青一が自分の自転車を下ろしている間に、緑郎はスイカを一つ段ボールから取り出し、抱えた。スイカを青一に手渡しながら、渡したくない抵抗感で手に力が入った。青一はスイカをなかなか離さない緑郎を、ふざけていると思って、笑いながら引き剥がすよう受け取った。緑郎は、もうなす術がない。

 しかし、その気分を押しころし、軽トラに軽々と乗り込み、緑郎は小さなエンジンキーを回した。そして運転席の窓を開け、

「あ。じゃあ」

と、横に立っている青一と顔を向き合わせた。緑郎は他人との交際で要望を表現する経験があまりなかったから、また会いたいという気持ちがある時に、何と言って良いか分からなかったので、携帯の番号を交換するとか「見かけたら声掛けて下さいね」と言ってみるとか、次に繋がりそうな事が咄嗟に思いつかなくて、彼はただ離れ難い気持ちだけを強くして、アクセルペダルを軽く踏んだ。サイドミラーを見たら、青一が見送ってくれている姿が写っていた。

 その日は、帰ってからずっと『また遊ぼうって言えば良かった』そういうことがサラッと言えるようになりたいと、緑郎は悶々と考えて過ごした。

 それから二日経って、緑郎は朝の海岸に人影を発見した。彼は一度じっくり青一を観察して以来、目敏くなっていて、彼かどうかを瞬時に判別できるようになっていた。人影が青一だったので、嬉しくて「おーいおーい!」と、大声で呼んで手を振りたくなった。しかし、彼は青一を眺めながら、ただ通り過ぎた。

 青一が休養で来ている事を知って、見掛けても、彼の過ごす時間をそのままに、そっとしておいた方が良いような気がした。それに、しつこく迫って、関係が悪くなるのを恐れた。だけど、心のどこかでは常に、またなにか良い機会があればなという甘い望みが息をしているのだった。


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