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第3話 太陽と海と、果物の王国 上

 父が旅館業から遁走して二年。緑郎は、仕事や環境、人間関係にもだいぶ馴れ、着実に成長していた。妹と助け合って生きてきたせいか、女性従業員が多い旅館でもすぐに協力関係を築けた。

 旅館の料理人、江野さん(男性、東京出身)と栗崎さん(女性、岩手県出身)ともうまくやっている。二人とも緑郎より年上だけど、気さくで兄弟みたいに話せる。結局、緑郎は仲居の仕事をしながらも、ほとんど調理場で働いていた。

 仕事が順調だった一方で、冬は慣れない寒さで、しばしば風邪を引き寝込んだ。山形に居続けるだけで精一杯だった。祖父母も他の従業員も、見守っていてくれた。

 それにしても、山形県も旅館業も緑郎には案外合っていて、自転車で通う時に見る朝焼けが登る山と海の風景が気に入っているし、館内で部屋の片付けや準備をしている時、ふと外に目を向けると、山の緑や青い海が、窓ガラス越しに見えて、誰も居ない景色に心がすうっと落ち着き、ここにいる意味を感じた。

 旅館のご近所さんは、年配の人が多い。皆んな、足と寒さを心配してくれる。

 自然しかないけど、毎日通っていても、海岸沿いの道は飽きない。

 四季や天気によって変わる空模様、海の輝き方はそれだけで絵になって、毎日彼に天と地が造る美しさを見せてくれる。彼は、旅館に着くまでのその僅かに感じられる時間が恵のようで、生まれてきた事を幸運に思う程だった。

 ある朝、六月に入った頃、彼がいつものようにまだ明けたばかりの空を仰いで海岸線を自転車で走っていると、ポツンと海岸に人がいるのが見えた。白いティシャツが早朝の薄明かりの中でもはっきり浮かび上がっている。だんだんと近づくにつれ、姿がよく見えてきて、若い男が、地元民が腰掛けにしている流木に座って海を眺めているのが分かる。

 対岸にある山と山の上空は、朝焼けの雲が赤桃色に染まり、夏の暑い一日を予感させるよう輝いている。座っている男は背を向け気付いていないが、男もまた仄かに赤桃色の中にいるように照らされている。どんどん男との距離が縮まってきて、男の見ている薄青い海空を見てから、男に目を移すと綺麗な横顔に、緑郎はハッとした。後ろを通り過ぎる時に見えた癖毛の頭の形も美しい。思わず振り向いてもう片方の横顔も見ようと試みたが、失敗した。それでも、通り過ぎた後は、胸が躍っていた。

 緑郎は、青年について考えを巡らせた。初めて見る顔だから、観光かなとか。帰省してきたのかな、何日ぐらい、どこの家に滞在しているんだろうとか。楽しかった。

 緑郎が旅館に着く頃には、シャツは蒸れて、顔は赤らんだ。早朝の朝日とはいえ夏の日差しは潮風と混ざって彼の肌を刺激した。それでも彼は、天気雨を浴びた夏草のような、細胞に活力が巡るような、そんな心地で旅館の駐輪場に自転車を止めた。頭がすっきりして、全身に力がみなぎっている。久しぶりの感覚だった。

 緑郎は心ここにあらずという顔をして館内の廊下を行き、たまにすれ違う従業員に「おはようございます」とただ口を動かした。海にいた青年の輝かしい印象で頭の中が一杯だった。そうしてその記憶の中をずっと眺めていたかったのだが、段々と、朝日が照らす青年のいる海岸の煌めきは薄れて、気付いたら白いティシャツとジーンズを履いた人間がおぼろげに見えるだけになっていった。

 緑郎は、冷房の効いた更衣室で仕事着の作務絵に着替えて、草履に履き替えた。朝礼が済むと、まず玄関先や建物の隅に溜まった浜からの砂を掃いた。旅館の正面入り口の深いひさしの影で彼は「ふぅ」っと鼻で小さく息をついた。

 人間への興味にグッと引き込まれた瞬間、そこに無二の喜びがあった事が思いだされた。だけど彼が得た素晴らしい印象はすでに消えかかっていて、手がかりすら追えない程輪郭が無くなって、またいつもの時間に戻される事だけが感覚的に分かるのだった。顔を上げて海岸通りに目を細めると、山も海も道路も、浜辺の散歩をする人も、黄色い光線が広がる夏の中にいる。

 

 正午過ぎ、この日は熱中症対策の講義を受け、後は半日休みの江野と栗崎さんが旅館裏の家で飼われている雪右衛門ゆきえもんという犬に、出汁を取った後の煮干しをやりに行くと云うので、緑郎も後は夕方の仕事のみだったから気晴らしに一緒に付いて行く事にした。

 たまに犬のおやつになりそうな調理済みの骨や筋が出ると、庭の中に投げ込んでやるのだそうだ。雪右衛門の飼い主には許可を取ってあるので、息抜きがてらたまに旅館で働く人達が遊びに行っているらしかった。特に栗崎さんは大の犬好きで、出勤退勤の通りがかりに、何とか仲良くなりたいと以前から思っていて、最近ようやく触らせてもらえる間柄になったのだと云う。

「良い人か嫌な人か分かるのね。頭の良い犬なんだよ」

栗崎さんは案内しながら、白い日傘を廻して楽しそうに話す。

「この前、ガキ共が二三人、観光客だと思うけど、バカ犬とかブタって雪右衛門の事からかったら、ちゃんとウーって唸ってたもんなぁ」

「ね。言ってる事分かるんだよ」

雪右衛門に親しんでいる厨房の二人は、意気の合った会話をして、新参者の緑郎に雪右衛門の魅力を披露して見せた。緑郎は「ふぅん」と二人に顔を向けて話を聞きながら、日傘にしている蝙蝠傘を廻した。

 傘の作る影を見つめて、彼は関係のない犬にはあんまり興味が持てない気がしていた。犬という言葉を聞いてから、昔飼っていた柴犬の熊夫の姿勢正しい姿が思い浮かんできて、大学生になるまで一緒に暮らした愛犬との思い出がよみがえってくる。勾玉のような、尻尾に向かうにつれ細くなる美しい胴。陽の中でそよぐ麦畑のような毛並。頑健な四肢。柴犬の中でも美形な顔立ち。熊夫の顔が褒められると、後で梅乃と「飼い主に似るって言うからね」と、高笑いした日々。雷鳴で家族の股に潜り込んで、野山には怯まず、無邪気に芝生を駆け抜けていたきつね色の犬。

『あぁ、もっと大きく感じられたらな』

緑郎は、リードを引っ張って河川敷を小走りする明るい顔をした柴犬の姿を生きている時のような躍動感で思い出したくなる。こういう時に、向かいの繁った山中で、キジや野鳩が音を立てて枝から枝へ飛んだりしてくれたら、生き物の気配に多少気分が和むのだが、山は期待に応えなくて、閑散としていた。

 江野と栗ちゃんの後ろで一人、緑郎はかつて飼っていた雄の柴犬のことを考えていた。

 旅館の裏を、三人は進んでいた。竹の生垣がめぐらしてある旅館の敷地を通り過ぎると、隣は家二軒分ほど藪の茂る空き地になっている。更に裏の山側に進むと人の住む家が二軒ある。その中の一軒のに、犬小屋と庭を横断するロープが木と木の間に渡してあって、南北の移動が出来るようになっている庭を有する家がある。庭の樹々が影を作っているのと、山側から冷気が降りてくるので、夏でもまだその辺は外で過ごせるようだった。

「雪ちゃ〜ん」

栗崎さんが何回か声をかけると、木陰からのそのそ這い出て来る獣じみた生き物が見え、日向の前で脚を伸ばしてから体をブルブル震わして、土埃や細かな枯葉を取り払うと、獣は舌を出しながら尻尾をゆっくり振って応えた。

 ずんぐりした体は長毛の白毛で覆われ、大きめの耳は先端が折れて垂れている、長毛の尻尾は巻いていて、コリーみたいな繊細な瞳が少女のように可憐だ。洋犬とも和犬ともつかない見た目をしていて、色は、薄茶に白が混じっている。中型の雑種で肥満、北国由来の名前が付いている。

 犬が繋がれているロープは敷地の端まで伸びるようになっていて、気怠そうな足取りで雪右衛門は近づいて来て、鼻先を動かした。

「お土産持って来たよ」

栗崎さんはふやけた煮干しを掌に乗せて、雪右衛門の口元に差し出した。庭には入らないよう、柵の外から手を伸ばしている。駐車場に回り込んで、庭に入って遊んでも良いと飼い主に言われた事もあるそうだが、栗崎さんはそうした事はなかった。

 雪右衛門は、栗崎さんの手を調べるように綿密に嗅ぎ「フンッ」と鼻を鳴らして鼻水を飛ばすと、そっぽを向いた。

 犬は差し出されたら何でも食べると思っていたので、緑郎はご飯を拒否する犬を初めて見て感心してしまった。それに、雪右衛門の白い胸毛がホコリで薄汚れていて、毛束がいくつも割れている様子に、外で過ごすのが好きだった熊夫の汚れ出した頃の姿が思い出され、犬臭さに一気に引き込まれていた。

 一度そっぽを向いたら見向きもしない犬を見て、

「わらわに出がらしなんぞを勧めて、なめとんのか?」

緑郎が雪右衛門に扮して言うと、栗崎さんと江野さんは軽く鼻で笑い、

「お腹が一杯なだけかもしれないだろうがぁ」

江野は少し振り向いて、細めた横目で緑郎の目を見た。

「それに何だ、わらわって。こいつおっさんだよ」

「じゃあこの犬には、わしが似合うかな?」

「んー。おら、が似合うんじゃないか?」

「山形で自分のことおらって言うの、おしんが過ぎるやろ。これだから東京もんはよ。なめてかかってんだよな」

「おらで、おしん思い浮かべるのお前だけだよ。この朝ドラ野郎がよ。おめえも東京もんだろ」

緑郎と江野のツッコミ合戦がツボに入ったらしく、栗崎さんは笑い始めた。緑郎と江野はその様子を不思議そうにしばらく眺めていたが、お腹が痛いと訴えるまで栗崎さんの笑いが止まらなくなってしまって、緑郎と江野はあたふたして、近くに自動販売機がないかとキョロキョロした。気を落ち着けてもらおうと、何かないか探したけど自然以外は何もないし、二人は何も持っていなくて、打つ手がなかった。が、ふと、江野は一所に目をやった。

「煮干しを与えたら興奮が収まるかしら」

地面に置いてある雪右衛門が手を付けない煮干しを見つめ、栗崎さんを野獣に見立てたような冗談を緑郎に耳打ちした。それが、感受性の高まった栗崎さんにも聞こえてしまい、更に泣きながら笑い始めてしまった。

 そんな風にして三人で騒いでいたせいで、家から人が出てきてしまって、小太りのおばさんが目を丸くして「おやおや、若い人たちがこんなに遊びに来てくれて」と、山形弁で呟きながら、何者か確認がてら近寄って来た。玄関の表札に「小林」と書かれているのを、緑郎はその時見た。

 外では人見知りの江野は途端にこそっと目を背け、栗崎さんは笑いを抑えようと口に手を当てている。だから緑郎は、ここは自分が代表して挨拶するんだろうなと唾を呑み込んだ。

「お騒がせしてすみません。私たちはそこの旅館の者なんです。わんちゃんに煮干しをあげたくて」

緑郎が頭を下げて挨拶すると、おばさんも会釈して、

「女の子は知ってるけど、あなた方も旅館で働いてる人かね?」

「はい。そうなんです。(わたくし)、石山と申します」

「石山さんて言うと、旅館の女将さんの?」

「はい、孫です。去年東京からやって参りました」

石山旅館の跡取りになる為、わざわざ東京を出て働きに来た。と、おばさんは緑郎の言葉を解釈して、健気に思ったのか、その言葉以降すっかり気に入り、小さな飲み物を皆に御馳走してくれた。おかげで、栗崎さんは涙ぐみながらも落ち着いて話せるようになり、江野さんは久しぶりに乳酸飲料を飲んだと喜んだ。輪から外れて、雪右衛門は手に顎をのせて退屈そうに寝そべっている。

 その後も話好きなおばさんと、この辺の事や何かついて話していると、実はおばさんが腰痛で雪右衛門の散歩が出来なくなって困っているという状況が分かり、更におばさんの旦那さんも最近膝が痛くて、思うように面倒を見られないので、可哀想だからとおやつを欲しがるままに与えていたら、どんどん犬が巨大化しそんな飼い方では、犬があんまり不憫だから誰かに引き取って貰おうか悩んでいるという事まで知れてきた。

 しかも雪右衛門は中型犬で田舎暮らしの伸び伸びした気風で放任ぎみに育てられたので、大した躾もなく成長して、手がつけられなくなったようだった。それでもまだ飼い主が若ければ、犬の勝手を制するだけの体力も残されていたのだろうが、歯車が狂い、戻せなくなっているようだった。

 三人はとりあえずまだ時間があるからと、雪右衛門の散歩を申し出、おばさんは、「ありがとう」と何度も目を堅くつむって感謝した。

 リードを持ちたがったのはやはり栗崎さんだったが、雪右衛門の前進する勢いがあまりに強くて、緑郎が一緒に手綱を持ってやらないと、引きづり回されてしまいそうだった。転んだら危ないと栗崎さんはしばらくして手を引き、江野は犬を飼った事がないので様子を見てから扱いたいと手を後ろに隠して、犬から距離を置いた。

「おぉっ」

緑郎は、踏ん張って犬の力に抗いながら、動きを読もうとした。雪右衛門は、全くまとまりのない思考をしていて、頭を低くしてあっちに行こうとしたりこっちに行こうとしたり、何かに駆り立てられたように力任せに人を引っ張るので、手綱を持つ掌が真っ赤になった。草の匂いを嗅ぐでもなく、トイレもせず、身を屈めて獰猛にただただ先を急いでいる。

 熊夫との散歩は二人の散歩というほのぼのした感じだったので、こんなにも歩調が合わない野獣のような犬がいるんだと、緑郎は面食らった。雪右衛門は人間の言うことを聞く余裕が全く無いようで、取り憑かれたように前進したがる。

 あんまり引っ張られるので、リードを持つ緑郎は落ち着かなくて、どうしたものか考えた。このまま山に向かって歩けば、犬に引っ張られ続けて手の皮が剥けてしまいそうだ。

『あっ』

彼は一つ妙案を思いついて、試してみたい気持ちに駆られた。

「このままだと、手も腕も持たないから、引き返して海で泳がせていいかな?」

緑郎が野獣のような犬を気遣いながら慎重に振り向いて、二人に言うと、

「うむ。いいよ。お前がやるなら」

「じゃあさ、コンビニ寄ろうよ、飲み物買いたい」

と、視界にチラッと入った二人は至ってのんびり歩いている。

 コンビニの前の駐輪場にあるポールに、リードを繋いで三人で店内へ入った。雪右衛門は、三人の背中に向けて吠えていたが、そのうち状況を理解するだろうと誰も構わなかった。

 栗崎さんは大きな冷蔵庫の前で、冷たいお茶を選んで、江野さんはお菓子コーナーで手頃なチョコを探している。

「これが品数が少ないから一番売れてると思うんだけど、こっちの沢山残ってる外国っぽいのも気になるんよな」

隣で一緒に棚を覗き込んでいた緑郎に、江野はつぶやく。

「じゃあ初めてのにしたら?食べてみないと分からんから」

「う〜ん。外れたら嫌だしな」

「じゃあ、売れてそうな方にする?」

「う〜ん。まぁ、想像がつく味なんだろうけどな」

江野は、こんな風にしばらく悩む事がしばしばで、己れの知っている範疇に留まるか未知へ進むのかの二択を考えたり、そういった選択の為に自分にはない意見や視点を他者に求めるような人間だった。緑郎が江野に人として好感を持つ所だった。今日もまたそんな風に、江野さんは考えているのかと緑郎は思った。

 やっと心を決めたらしく、江野が売れていそうな方に手を伸ばし、商品に触れる手前で、

「はー、世相に流される訳か」

緑郎が乾いた口調で呟くと、江野さんはぴたっと手を止めて、ゆっくり振り向いた。

「おまえ、やな事言うじゃない」

「だって、外国っぽいのが気になるから悩んでたんやろ?」

「それはそうよ。料理人としても個人的にも、気にはなるよ。なんかデザインもええやんか? ──やっぱこっちか」

「おやおや。今度はあたしの意見に流されるんですか」

「おい。クソガキ。俺は、どうせお前たちも頂戴って言うだろうから、確実に美味しい方にしようと考えたんだぞ。それを世相に流されるだの何だのって、なんという言い糞だよ!」

江野の目はふざけていた。ふざけた目で睨まれて、緑郎は子供のように笑った。

 しかし一方で、たまに見せる江野のこうした全員を意識しているリーダーらしい考は、緑郎をハッとさせる。

「そうだね。いつもありがとうね。じゃあ江野さんが好きなの選んで。それ食べるから」

「やっぱり食べるのかよ。じゃあ、こっちの外国っぽいの行ってみるか」

緑郎は力強くうなずいた。

 外へ出ると、雪右衛門はコンビニのガラス扉に向かってまだ吠えていた。声が擦れている。

「わぁ、ごめんね。寂しかったのかな」

栗崎さんは雪右衛門に駆け寄って、正面に座り込むと犬の顔を両手で優しく挟んだ。それから、買ってきた水のペットボトルを開けて、片手に少しづつ流し入れて、雪右衛門に飲ませてやった。雪右衛門は、栗崎さんの手から水を飲み、満足すると舌で口を拭い「フンっ」と水がたっぷり付いた鼻を鳴らして、鼻水を飛ばした。

「うわっ」

顔を近づけていた栗崎さんは、今度はまともに喰らって尻餅をついた。甲斐甲斐しく世話をしてくれる人間に、己れの行動の影響を考えない雪右衛門。彼は皆んなが戻って来たので、もやは何も気に掛けることが無くなり、愛想をふりまき尻尾を振っている。

「鼻水を飛ばすんじゃないよお前はいつもいつも。うふふ」

様子を見ていた江野は、注意しながらもいたずら小僧のような雪右衛門に、顔をほころばせた。ついでに、そうっと犬の頭の天辺に指を三本差し入れるよう触ってみた。雪右衛門は「ハッハッハ」と息をしながら、少し顔を上げて、そのまま好意を受け入れている。

 緑郎は栗崎さんの手を取り身体を起こしてから、ポケットからハンカチを取り出して貸した。雪右衛門に視線を向ける栗ちゃんは真顔だった。

 海岸は目の前なのですぐに到着する。砂浜に足を踏み入れると、雪右衛門は立ち止まってしばし海を見つめた。地平線の彼方から逆巻く大きな波音、砂浜を撫でて一斉に引いて行くサーという波の音、眺めているだけでもそれなりに人間は楽しめるのだが、やはり海に圧倒されるのだろうかと、かつて熊夫が水を怖がっていたのを思い出し、立ちすくす雪右衛門に重ねて思ったが、しばらくすると急に、砂や貝殻を嗅ぎ回ったりして、リラックスした様子を見せた。

 ならばと、少しづつ海に近づき、緑郎がサンダルのまま海の中へ入っていくと、雪右衛門は海の匂いを間近で嗅いでから、そのまま付いてきた。足が濡れるのも気にせず、胸まで水に浸かっても雪右衛門は笑っているような顔をしている。 

 試しに、緑郎が犬の胴を抱え、優しく沖へ押し出し足の届かない深さへ行かせてみると、雪右衛門は明るい顔のまま懸命に犬かきを始めた。

「お、いいよいいよ!その調子でたくさん泳んだよ猪八戒(西遊記に出てくる豚の修行者)」

海で、解放されたように楽しげに泳ぐ犬の様子につられて、緑郎のかけ声が大きくなった。リードを目一杯伸ばして、彼は岸を歩き、犬が並行して泳ぐのを、夢が叶ったように感じた。

 二三分、そうして緑郎が犬を引いて歩いていると、横で様子を見ていた栗崎さんが「私もやりたい」と言い出したので、手綱を譲った。

「うわぁ。おもしろーい。上手だねえ!」

スイスイ泳ぐ犬の順調なエネルギーを手綱越しに感じて、栗崎さんは喜んだ。しばらくすると気づいてしまう。

「すごい背中大きい」

海面から出たり潜ったりする雪右衛門の白い背中は細波と混じって、派手にてらてら光る。楽しそうな雪右衛門の顔と泳ぐ水音、栗ちゃんの笑い声、全部光の中でまばゆい。

 犬は言葉が分かると言っていたけど、そんなことは忘れたような栗ちゃんと雪右衛門。海や空があんまり広くて、気が大きくなって、なんでも楽しいみたい。栗ちゃんの荷物を全部持ち、緑郎と江野は歌をうたいながら、海辺で戯れる乙女と犬の後に続いた。

 やがて雪右衛門がへたばり始めたので、引き揚げた。休憩に防波堤を背もたれにして、横に並んで腰掛けた。三人は自販機で新たに買った冷たいペットボトルのお茶を勢いよく飲んだ。それから、江野が差し出したチョコの焼き菓子を、ぞれぞれが摘んだ。

「これ美味しいね」

「当たりだったな」

顔を向け合い会話していると、雪右衛門が三人の正面に回り込んで菓子を失敬しようと、輪にズカズカ入り込もうとする。腕を突き出し、全員で雪右衛門を押し返す。

「犬はダメ」

叱られても雪右衛門は尻尾をゆっくり振って、明るい顔をしている。緑郎の濡れた脚が、潮風で乾いていく。空と海の大きさに、みんな身を委ねた。

 

 帰り、全員がほどほどに遊び疲れている中、旅館を通り過ぎて雪右衛門の家へ近づくと、犬は尻を引いて力一杯抵抗し始めた。首輪に顔周りの肉が盛大に詰まり、寄せ集まった皮で面白い顔になっているので、江野と栗崎さんは可笑しがっている。緑郎も、ふふっと微笑みながら、それでも早く家に帰したくて「ほら!」とか「帰るんだよ!」とか色々に声を掛けて、説得を続けていた。

 思えば、雪右衛門は行きも門扉から出た途端に前方へ突進し、山へ向かっていたのを引き返し、家を通り過ぎる時にも物凄い速さで駆け抜けていた。そして今度は、四つ脚に力を込めて踏ん張っている。すると、ふと、ある曲の一節が緑郎の頭で流れた。

「I never, never want to go home」

モリッシー(スミスというバンドのゲイの人)、と彼は口の中で言い、手綱を緩めた。緑郎は合点がいってしまった。

 今、スミスとほとんど同じ事を訴えている生き物が目の前にいる。『家に帰りたくない』と、切実に言っているのだ。緑郎の頭には、一日中繋がれた雪右衛門とゲイで若かったモリッシー、彼らが変えられない状況に窮している姿が写し出されていた。

 このまま家に帰したら、またほとんど毎日、雪右衛門はずっとロープに繋がれて、ただ飯を食うだけで、それ以外は何もする事のない日々を送るのだろうか。緑郎の視線と気分は急速に地面に落ちた。いつの間にか、彼らのように、選択を編み出せたらと緑郎もまた、願う立場に立っている。

 緑郎は、犬の後ろ姿を見つめ、少し考えてから小林家に背を向けて歩き出した。

「おい、お前何してんの」

江野が驚いて、緑郎の背中に問い掛ける。

「旅館の裏庭で、水洗いしてから帰す」

緑郎はそれっぽく建前を言った。小林家の庭でもできるのに、本当は犬に同情してしまったため、時間稼ぎの為に旅館に連れて帰るのだ。江野と栗ちゃんは、ぽかんとして後に続いた。

 旅館の裏口は竹の生垣で囲まれていて、客には見えないようになっている。裏側の空間からぐるりと庭園と繋がっていて、小門で行き来出来るようになっている。その小門ら辺は、客室やロビーの窓からは死角で見えないし、庭園の散歩をする人もこの時間はいない。小門の辺りには、龍の髭(草)が座布団のように生えているので、緑郎はひとまずそこで雪右衛門を待機させ小門の脚にリードを繋いだ。

「くつろいでて」と、言う前から雪右衛門は伏せて脚をたたんでいる。彼はすでに夕涼みでもしているような穏やかな顔になっている。庭隅の蛇口でジョウロに水を入れて来ると、緑郎は雪右衛門の体に小雨のようなシャワーを掛ける。雪右衛門は舌を出して目を細めた。

 同じように繋がれている状態でも、旅館の雰囲気を感じ取っているのか、雪右衛門はリラックスしながら耳を動かし、鼻を上に向け、いつもとは違う場所を味わっている。海の波音、正面玄関から聞こえてくる人の声、、露天風呂の桶の音、微かに漂うコーヒーの匂。

 結局、一時間ほど雪右衛門を休憩させてやると、後はすんなり帰ってくれた。旅館から小林家までは歩いて五六分だから、帰るとなると事はすぐに運んだ。休憩してから帰るまで、従業員にも客にも誰にも見つからずに済んで緑郎は内心ホッとした。



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