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 東北で空を見上げて 下

 翌朝、父がいなくなっていた。いつも帰省の際や旅行の際には、朝ご飯の都合で必ず子供たちを起こしにかかるのが父の常なのに、緑郎は自然な目覚めで八時少し前に起きた。障子を開けて、東京より澄んだ光を入れ、縁側の掃き出し窓から庭の緑を眺めて、山形の朝に浸っていた。

 洗面所で顔を洗うと水が冷たくて、こんな所も山形〜と緑郎は思った。廊下は磨かれた綺麗な板間になっており、柱も天井も木の自然の風合いを生かした造りになっている。杉の良い香りがする。裸足で、ぴたぴた歩いて居間へ行き、ガラス障子を開けると、味噌と煮干しが混じった匂いがする。ホッとする。祖父母の家では昔から赤味噌を使うので、この匂いこそが緑郎にとっては故郷の風情でもある。

 子供だった梅乃や緑郎、孫たちが目玉焼きが好きだった為か、今朝も目玉焼きが座卓に用意してある。

 小学生の時に山形に来た時、朝の目玉焼きに醤油を掛けようとした緑郎に、祖父がソースを掛けると美味しいと教えてくれ、試してみたらお好み焼きのような関西っぽい味になった事が新発見で、感動した緑郎が祖父に「ハイカラだねえ」と、急に老成風の口をきいたので、その場に居合わせた親戚がドッと笑ったのだった。座卓にある目玉焼きを見ると、あの小学生の時の夏休みの朝が甦る。

 という訳で、今朝はソースで目玉焼きを頂こうかなどと彼は頭の中で、段取りを始めていた。

 台所に入っていき、緑郎は「おはよう」と、朝食を拵えている祖父母に声を掛けた。二人は、気まづそうな顔をして、顔を見合わせる。不吉な雰囲気に、緑郎は不安になる。が、すぐに祖母が「おはよう」と、返事をし「ちょっといいか」と、居間へ入って正座する。緑郎は何事かと思い、後へ続いて向き合う。

祖母は、メモ用紙を割烹着のポッケから取り出し、座卓へ滑らせた。広げて中身をみると「音楽の仕事で出かけます」と、父の字で書いてある。

 寝起きの緑郎は、ぼうっとしてしばらくメモ用紙を眺めている。そのうち、置きざりにされた事に勘づいて、胸がざわつき出す。出し抜かれた焦りに顔が赤くなり、同時に所在ない心地になる。自分の父親がした事の恥ずかしさと気まづさ。屈辱すら感じる。なのに、山形と自分を繋いでいた存在がもうない心細さ。ここに居て良いのか、どうやってここに居れば良いのか。

 なぜ父がそのようなことをするのか緑郎には分かっていた。断られたら嫌だから。具体的な話をすると己の弱さを晒すみたいで傷つきそうだから。

 だけども、大人になった緑郎が思うのは、あの道中の楽しかった時間はなんだったのかという事だ。あれは自分だけが思っていた事なのか、息子を良い気分にさせておけばいいと思ったのか。父の気が知れなかった。

 大人として付き合っていけるだけの感触を父は息子から得ていたはずなのに、どうして試してくれなかったのだろう。何の断りも入れず、関係性も顧みず。

 作りかけの朝食の火を止めて、祖父も座についた。

 祖父母は、しばらく黙っていたが、祖父は沈黙を破った。挨拶周りは、決まったら伺うと本家や親戚には言ってあるから、なにも今日行く必要はない。これからの事を話し合わないといけない。そうは言っても、舜二郎に付いて補佐的に働くつもりだったろうし、こんな形で押しつけられたら心外だろうし、そもそも舜二郎はもう戻ってこないかもしれない。その一言を、手を揉みながら話す祖父。すっかり気力をなくした緑郎は、自分と同じように祖父母が戸惑っているのが分かった。彼らは責任感から必死で状況を整理している。

 父が一時的に音楽の仕事に戻った訳ではなさそうな気配を、過去の父の行いから祖父母も緑郎も真っ先に感じていた。

 途方に暮れる一方で、言い出しづらい事を言い出してくれた事、状況だけではなくて緑郎の心情も気に掛けてくれた事、祖父の話し方は緑郎にとっては何よりも頼りなると感じたし、全体が見えていると感じられた。

 祖父母の予定としては、今日は挨拶回りと神社のお参り、翌日はこの辺の店の案内と必要な物を揃える買い物をして生活環境を整えて一段落着いたら、旅館の従業員に紹介して舜二郎と働いてもらおうと、思っていたらしい。

 しかし、父が出奔したとなると、後継ぎの問題が再浮上し緑郎が背負うような流れになりかねないので、流れに押されて引き受けるのでは孫が不憫だから、一旦止まって考えようと祖父母は言ってくれている。こんな状況は当然不愉快だろうし東京に帰りたくなっても仕方がないと思う、緑郎は緑郎の考えに基づいて話していいのだから、正直に、考えがまとまったら聞かせてほしい、と言うのだった。後を継がないまでも、働いてくれたら有難いと思っている事を、あえて今は言わない潔さも、祖父母の人柄の良さを感じさせる。

 息子に仕事を押し付けようとしている父と、孫の意思を尊重しようとしている祖父母の下で、緑郎は、なんでこんなに誠実な人間から、あんな身勝手な人間が生まれて来るのかな、と同じ正座で向き合う祖父母の姿を眺めた。

 とにかくせっかく山形に来たんだから、まあ春休みだと思って過ごせばいい、と祖母は言い、朝食を作りに台所へ行った。祖父もうなずくと祖母に続いて、台所へ引っ込んだ。テレビをつけると、NHKの朝ドラがやっていた。その時の朝ドラのヒロインも、新天地で頑張る姿が描かれていて、緑郎は特に感動した訳でもなかったのに記憶に深く刻まれて、後年そのドラマのテーマ曲を耳にした時、正座して祖父母と向き合った朝の居間の懐かしさで胸が一杯になるのだった。


 自分がどうしたいのか、それを考える為の時間。緑郎は、庭の池岩から遠くの山脈を眺めたり、池の中の金魚や何かを眺めているのが好きで、山形に来ると暇な時間はそうして過ごした。自分はどうしたいか、池の水面を見詰めながら、考えてみた。昔、新庄祭りですくってきた金魚はまだ居るか、池の隅を見て回った。考えようとしても、続かない。

 夜になると、また山形を感じた。祖父母の視る主なテレビチャンネルはNHKで、他のチャンネルも東京の局と異なる。地元のニュースは、山形の事。元々、彼はテレビをあまり視ないから、別に構わなかったのだが、タブレットやパソコンがないのは考えなきゃいけない事だった。パソコンは祖父の部屋に一台、いつの時代の物か分からない未来宇宙が詰まったような丸く分厚いデスクトップがあるが、もはアンティークショップの飾りと同じ役割の物と緑郎は認識していた。

 暇だから、夜は小灯でライトアップされている祖母自慢の庭でも見ようと玄関を出てみると、めちゃ寒い。それに庭に行くまでの駐車場が広い上、真っ暗でしんとしていて一寸先すら見えないから、怖い。少し目が慣れてきて、ふと夜空を見上げてみると、無数の星々が冴えた光を瞬かせている。これはとても綺麗。

 庭の池の岩で佇んで、薄明かりの中のカエルや金魚でも眺めようかと思っていた緑郎だが、玄関先で山形の夜に一歩が踏み出せずにいた。それで、少しその場で夜空を眺めてから、後ろに一歩引いて静かに玄関ドアを閉めた。

 翌日も、夜になると暇になって、外に出てみようと思いついた。そして、真っ暗な闇を目の当たりにして、そうだったと玄関前で立ち尽くすのだった。

 今日は庭まで行ってみようか、と緑郎は考えていた。すると、暗闇からガサゴソと何かが目を光らせて、飛び出して来た。目の前を移動する、鼻息の荒い四つ足の駆け足がいかにも獣っぽくて、緑郎は「わぁっ」と声を上げた。四つ足の獣はその声に驚いて、さらに俊足になり立ち去るのかと思いきや、なんとふと立ち止まってこちらに顔を振り向けた。そして、闇の中でボウッとこちらを見ている。緑郎もそれを機に、何の生き物かと目を凝らして見詰めた。たぬきだった。たぬきは動かずにずっと緑郎の事を見ていて、緑郎も逃げないたぬきが不思議でその余裕に呆気に取られていた。しばらく互いの存在を見つめ合い、そのうちにこの状態を、あぁなるほど、いつまでそこに居るのか?と訊ねているのかな、となんとなく察して、緑郎は玄関の内に入って戸を閉めながら、随分気が大きいんだな向こうが先輩だからなと関心して、閉め切る間際にもう一度外を覗くと、たぬきは祖父がゴミを焼却する場所に置いておいた痛んだ果物を物色しているようだった。

 祖父の話ではここいらのたぬきは畑を荒らしたりペットを襲ったり悪さをしないので、放った農作物は好きにさせているのだそうだ。全体的に黄色っぽくて顔が大きいたぬきだったら、うちに出入りしているたぬきだと祖父は身元を保証するような口調で説明した。祖父の話を黙って聞く祖母は、たぬきの出入りに賛同していないような顔をしている。

 居間の窓の外は真っ暗で、鏡のように内を反射する窓に朗らかな顔をして話す祖父と曇り顔の祖母と自信なさげに猫背で話を聞く自分の姿が写っている。緑郎は、真っ暗な外にたぬきの姿を思い返した。野生のあの自然な存在感。あぁいう自然な自信はどこから来るのだろう。

 翌日も特にすることも無く、時間を持て余した緑郎は、誰もいない居間の畳で寝転がりながら、真っ昼間にマッチングアプリを再インストールした。東京にいた時に、たまに使っていたものだ。──どんなメンツか見てみよう。会いに行ける距離に二人いる。全然タイプじゃない……。それに人数が少なすぎないか。

 緑郎は彼氏ができたことがない。恋愛はきほん片想い。アプリで会った人と、そういった関係を結んだことはある。 

 東京でもそうだったけど、やはり恋愛には期待ができないようだ、緑郎はすぐにアプリを開かなくなった。

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