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花明かりの東京郊外 下

 八の子駅を超えてみると、通行の道幅が急に広くなり、駅のすぐ近くだというのに車が入れない土地があって、そこが丁度ガードレールで囲われているので市民の勝手に出来るのか、休憩場や遊び場になっていた。主に遊んでいるのは、中学生から高校生ぐらいの少年たちで、小型の自転車やスケボーを自在に操っている。大学生か社会人らしき大人の骨格をした者も二三人いる。春先で、町の行き交う人はほとんどが上着を羽織っているが、彼らは真っ白で大きめのティシャツをはためかせた。

 立ち止まって眺めていた緑郎と梅乃は顔を見合わせて、長年の疑問が解消されたのを確認し合った。しばらく少年たちが遊んでいるのをなんとなく見ていると、誰かがコケた拍子にスケボーが勢いよく二人の方へ走ってきて、

「気をつけてくださいー!」と、少年たちの内の誰かが声をかけてくれた。二人はゴロゴロと音を立てて走ってくるスケボーを眺めて、手前の所で梅乃が足で止めた。コケた少年はスッと立ち上がって二人の方に走って来ると「すいませーん」と、低い声で言い、スケボーを抱えて戻って行った。

 この時の少年たちは常識的でただアクティブに遊んでいるだけの悪意のない人間のようだった。

 それは喜ばしい事だったけど、承知したと同時に頭の中では気になる事がすぐさま前面に出てきて、意識が占領された。前を見つめながら緑郎は小声で、

「茶色のキャップ」と、照れながら梅乃に囁いた。すると、

「分かるよ。あの人一番華があるよね」と、梅乃も前を見ながらすぐさま答えた。

 二人は前を向きながら、背の高い一人の青年の格好良さを分かり合えた事に微笑み、次の瞬間にはスケボー少年たちに背を向けて、駅の脇道へ進んで行った。

 ファストフードの店とコンビニ、居酒屋が多数並んでいるその道は、日当たりが悪くて道幅が狭いせいか、二人を少し緊張させた。路の隅には怪しい濃い染みがある。縁にはタバコの吸い殻が点々と落ちていて、ヘンゼルとグレーテルの物語に出てくるちぎったパンのようだと一瞬緑郎は思ったけども、辿っても良い事など無さそうな忌まわしさが白いフィルターに茶色く滲んでいる。

 道幅が狭いので二人は自転車を降りて引いて行くことにした。緑郎は帰りまで気づかなかったのだが、看板にもそうするように指示してあった。

 妹の話では、この道の先にあるという事なので、緑郎は梅乃の後ろに列んで付いて行った。妹は、知らない道のせいかゆっくり進むので、互いの自転車の車輪が触れないように緑郎は妹の後部車輪を見ながら間隔を保つようにしていた。

 しかし突如妹の自転車が止まり、車輪と車輪が軽く接触して、緑郎はどうしたのかと顔を上げた。妹は立ち止まって前を凝視していた。首を傾げてその視線を追ってみると、二人組の男女が親しそうに顔を寄せて微笑み合っている。よく見ると、女の子の方は見覚えのある顔をしていて、あまりにご機嫌な表情が別人のようですぐには分からなかったが、二人の幼なじみの美樹ちゃんだった。

 兄妹は夢心地なカップルの雰囲気を察して、チラチラと控え目に美樹ちゃんへ視線を送っていたが、対面が間近に迫って来ていても美樹ちゃんは二人の存在に気づかないようだった。そんな様子に、二人はすれ違い様も声を掛けられなくて、揃って首を回して見送った。

 美樹ちゃんとその彼氏らしき人物は、すれ違った後も、顔を近づけヒソヒソと何かささやき合い、目を見つめ合った。そして男だけ駅の方へ向かった。何度も振り返って小さく手を振る彼氏らしき人物と、何度もそれに応える美樹ちゃん。ついつい微笑がもれてしまう美樹ちゃんは、ゆるんだ顔のまま振り返り、声を上げた。

「わっ」

手の届きそうな範囲に、緑郎と梅乃がいるのに気づいて美樹ちゃんは身を引いた。ただでさえ薄暗い路地の、さらに影のかかった片隅で同じような表情をした兄妹が、静止してこちらを見ている。

「やっとお気づきですか?」と、緑郎が言うと、

「え、何してんの、二人は」と、美樹ちゃんは笑いながら、話題を変えるよう早口で尋ねた。顔が赤くなっている。

「あのさ、この先に麦畑っていうパン屋さんがあるみたいなんだけど、行ってみようかと思って。なんか美味しいって評判らしいんだ」

「ふぅん……」

美樹ちゃんは梅乃の言う麦畑を知っているのか知らないのか、ほとんど集中していないような返事をして、口を閉じた。緑郎は、何か他の話題を振るか早く別れた方が良いのかなと感じた。

「じゃあ、何か考え事があるようだしさ、俺たちのパン代を置いてもう行きなさい?」

緑郎は優しく促す。美樹ちゃんは賢明な人間なのでいったん考えて、それから顔を上げた。

「あんたは交番に行きたいんでしたっけ?」

姑息に気づいた美樹ちゃんのせりふに、兄妹は吹き出した。美樹ちゃんは三人の中では一番年下だけど、昔から一番しっかりしていて堂々とした風格があるので、周りはその気質を頼りにふざけていられる。

 兄妹の賑やかな笑い声につられて美樹ちゃんも笑い出し、雰囲気が砕けた所で、梅乃は核心に触れやすくなったのを見て取って、訊ねてみた。

「さっきの人、彼氏?」

「や、ちがうよ。そういうんじゃないよ」

美樹ちゃんは首を振って目を逸らした。唇をしらばっくれようとする時の形にしている。緑郎は何も隠すような年齢でもないのにどうしたのかなと思って、白状しやすいよう言った。

「別に良いじゃん朝帰りしたって大人なんだから」

「違うんだって。そういう朝帰りじゃないんだって。院の子たちと飲んでて電車がなくなっちゃったから、二人で朝マックして、今別れただけなんだから」

兄妹は、にわかに信じ難い様子で、顔を見合わせた。美樹ちゃんはちゃんとした訳があるという風にそれらしく語っているが、始発なんてとっくに出ているし、朝マックの時間もとっくに終わっている。

 それで美樹ちゃんはまた大学院に戻るからと、パン屋へのお誘いを断ってそそくさと退散した。

 遠のいて行く美樹ちゃんの後ろ姿を並んで見送りながら、梅乃は緑郎の目を横目でチラッと見た。

「なんだろう。怪しすぎるよね」

「そうね。朝マックじゃなくて朝ファックじゃないですか?って意味でね」

緑郎は、はしゃがずに答えた。彼は、人に下発言をする時にはなるべく、下品で粗暴な雰囲気を出したくない感覚が働いて、彼なりに聞いてる人を圧倒したくないような、ショックを与えたくないような態度を取った。

 ふと、このような聞き手の繊細を気に掛ける感性は、自分がゲイだからなのだろうかと、緑郎は度々考える事があったが、真相は分からなかった。緑郎は、割とすぐに自分がゲイだからこう感じるのかなと考えるところがあった。

 とは言え彼の繰り出した「ファック」という単語に、梅乃は軽いショックを受けて、手を叩いた。

 パン屋に着くと、二人はまず母の好きそうなクリームコロネと何かの豆入り蒸しパン、それから西洋っぽい固そうなパンをトレーに乗せた。ご機嫌だったので、二人は美樹ちゃんにもアンパンマンみたいな、というかそのもののような可愛らしいパンも買った。家は近くなので届けるついでに、差し支えがなければ、洗いざらい今朝の事を聞かせてもらうつもりでいる。

 帰り、自転車の前かごにパンの詰まった袋を入れて、緑郎はゆっくり走った。駅前の狭い道は億劫だったので、二人は探検がてら道幅のある線路の高架下に沿って、少し周り道をして帰る事にした。

 高架下には色んな商店が軒を連ねていて、途中には大きな公園も入っていた。砂ぼこりの漂う公園が大きなコンクリートの柱と屋根で長方形に区画してある。雨の日も安心だし、二手に分かれて遊ぶことも出来る。そして上は道路にもなっている。なんか一石二鳥な感じ、緑郎はぼんやりそう思った。一人、自分の考えに浸っていると、後ろから呼び声がかかった。

「止まってー」 

緑郎が振り向くと、ずいぶん後ろに梅乃はいた。彼が気づかない間に、妹は途中の店を覗いていたようだった。追いつこうと、身をかがめてひいふう言って自転車を漕いでくる。そして、緑郎の横に着くとすうっと手を伸ばして、彼の前腕に掴まった。

「はい、行っていいよ」

妹の合図を受けて、緑郎はまたゆっくり漕ぎ出した。一生懸命自転車を漕いだ妹は疲れているから、兄に牽引してもらい自身の自転車を軌道に乗せ、ペダルが軽くなるまで力を借りたいのだろうと彼は考えた。しかし、妹は走行が安定しても一向に手を離さなかった。

「ええかげんにせーよ。わしゃ馬車馬か?」

緑郎は笑いながら言って、ハンドルを少し揺さぶり、妹の手を振り解こうとした。すると梅乃は、

「家まで行くんだよ」

急にドスを利かせ、犬歯を光らせた。彼女は緑郎の前腕の袖をつかみ、手を絞って、もっと楽して引っ張って貰おうと企み出した。緑郎の自転車はもはや妖怪に取り憑かれたように重い。

「やーめーて」

緑郎は諭すよう言った。悪巧みを拒もうにも、妹の安全を考えると強引に振りほどく訳にもいかない。彼は内心あたふたした後仕方なしと受け入れ、妹の要求に応じるような形で引っ張ってやった。梅乃は彼の驚きに、仕掛けた悪戯が成功したのを確信し、大人しく牽引する兄の横顔に「へへへッ」と、子供のように笑いかけて、手を離した。

 とたんに今度は、緑郎がずる賢い奴を撒いてやろうと、懸命に、自転車を漕ぎ出した。彼の古着のナイロンジャケットの首元は汗が滲んで蒸れだした。そして、どんどん引き離されて行くのを、

「待って! 足つったかも。漕げないよ!」

と、妹のいたずらな声が熱を帯びて追いかけてくる。緑郎は一応振り返り、息を弾ませながら向き直して「健脚」と、声を震わせた。

 道路脇を素早く通り過ぎて行く彼らは、満開になった公園の木蓮や道端のタンポポに気づきもせずに、夢中で春爛漫の町を自転車で駆けた。道端で兄妹が騒いでいても、町の人たちが大らかに見てくれる土曜の午後。あっという間に日が暮れた。

 そんな明るい生活の空気に触れていると、緑郎は荒んでめくれ散らかした己の心の肌が角質通り整っていくようで、段々と、怒りが消滅していくのを感じていた。自分の気質が活かされる職場と人間関係じゃなかったと、自分の陥った状況を引いて見られるようになっていた。あいつ(二代目オーナー)の事嫌ってる料亭なかったかなとか。敵対してるとこだったら都合が良いんじゃないかなどと考え出し、余裕が出てきた。そろそろ新しい仕事でも見つけて、仕切り直すかな、と彼は思い始めていた。

 そんな頃、旅館を継いだ父から電話がきた。水曜日の昼、家には緑郎以外はおらず、彼は丁度、紅茶を淹れて二階のベランダでぼんやり空でも眺めようかと思っていた時だった。

 父方の祖父母は、山形県の海辺で旅館業を営んでおり、父を含めた子供達が全員県を出て職に就いたり、嫁いだ為に、家業を継ぐ者が不在のままだったのが、妻(緑郎の母)に離婚を言い渡されてから父は旅館を継ぐと言い出したのだった。

「暇なら手伝わないか」

父は、ずっと敬遠していた旅館業を引き継ぐと突然宣言し、散々両親に苦労を掛けたからと塩らしいことを言い、跡取りに難儀していた祖父母を喜ばせたが、緑郎たち家族は、離婚で心細くなっただけなのではないかと冷静に観察していた。しかし、それから一年間特に音沙汰もなかったので、父は上手くやっているようだと皆安心していたのだった。

 緑郎は特に断る理由が思い浮かばなくて、

「……あぁうん」

と、なんとなく引き受けてしまった。しかし、父と関わる未来については何か安心出来ないような、雲を摑まされるような、信用しきれないイメージがあって、すっきりとは了解出来ないものが胸につかえた。父は、何を考えているのかよくわからない男なのだ。

 それに、雪国の広い大地での生活は大変だと、昔から父は緑郎と梅乃に語っていたので、そこで生活したり働くことを考えたことがなかったので、その事も案じられた。

 しかし、無職の緑郎には渡りに船のような話でもあり、大人になった今、雪国の生活の不便をネットの知恵で順応可能にすることも出来るかもしれないし、何より祖父母がいるのだから、心配ないかも知れない。

 この国ではまだ同性婚は出来ないし、性格的に恋に生きる事も出来ないんだから、せめて仕事に生きたいと高校生の時から考えてはみたものの、何をやってもそれなりで、心から楽しさや充実感を得られた事がない。いつも何となく向かって行って、着いたところで当初の理想は翻弄され、形ばかりの作業を身につけるだけ。何もかも忘れて夢中になれる瞬間は、人が創った美しい映像と音楽に触れている時、仕事人間になれる要素なんて本当は無い。それに、また料亭で働きたいかと胸に問うてみても、実の所音信がない。だから、行き当たりばったりでやって行くしかないのが、実際の所なのだ。

 それに今回は祖母に雇ってもらえる訳で、一時的かもしれないが他人に雇われる立場での緊張や苦労は免除されるので悪い話ではない、いやむしろ幸運だ。

 緑郎は、薄暗い台所で電話を切り居間に移った。庭に面した吐き出し窓を全開にして、窓際でカーペット敷きの床にゴロンと寝転がると、すぐに外が春めき立っている事に気が付いた。頬を撫でる風が柔らかいし、隣家のブロック塀を超えて桜の花びらが、うちの庭にひらひら舞ってくる。

 手を頭の後ろで組んで、ぼんやりと春の空を眺めていると、自然とうとうとした。隣家の古い桜や伸びた雪柳。うちの小さな桃や木香薔薇。南風が溜め込んだ甘い花の香が、正午の感覚を惑わせるよう……。

 繁り始めた庭の樹々に視線を上げて木漏れ日を目で追うと、天から降る太陽光が、新緑の中を通って地に淡い輪を重ねている。煌めき立つ樹の下で呼吸していると、若い季節が胸を透き通るよう。空では鳥がお喋りに興じていて、薄雲は風にゆっくり解けていく。

 緑郎がゆっくり目を閉じると、上空に一杯の春が彼の体を花びらのように軽く持ち上げてしまうような気がした。

読んでいただきありがとうございます。感想、いいね励みになります!

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― 新着の感想 ―
兄妹の自然な掛け合いが温かく、春の街並みの描写も美しく心が和みました。緑郎が少しずつ前向きさを取り戻し、新たな一歩を踏み出そうとする心情の変化が丁寧に描かれていて、続きが楽しみになる一話でした。
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