第3話 止まらない食欲と、深夜の「偽装」エネルギー
【ダイエットの挫折と院長の共感】
「……先生、もうダメです。僕、自分の意志の弱さが嫌になります。また2キロ増えてました」
診察室の椅子に沈み込むように座ったのは、30代後半のシステムエンジニア、佐藤さん。
170cmで95kg、BMIは32.8。
前回、一条院長と約束した「夜21時以降の断食」は、三日坊主に終わっていた。
一条院長は、叱るどころか、自分の少しふっくらしたお腹をポンと叩いて笑った。
「あはは、分かりますよ、佐藤さん。僕もね、昨日の夜中に冷蔵庫のプリンの誘惑に負けそうになったんだ。美味しいものは、どうして夜に手招きするんだろうねぇ」
新人看護師の佐藤(同姓)が、横からジロリと院長を睨む。
「先生! 自分の話で共感してどうするんですか。佐藤さん、血糖値も脂質も真っ赤っか(異常値)なんですよ。血圧だって150/95mmHgで推移してますし」
一条は「おっと、真面目な佐藤君に怒られちゃった」と苦笑いしながら、手元の資料をめくった。
「でもね、佐藤さん。あなたが夜中に冷蔵庫を開けてしまうのは、本当に『意志』のせいなのかな? 僕はね、あなたの体が『エネルギー不足だ!』って、脳に偽のSOSを送っている気がするんだよ」
【首筋の黒ずみと「いびき」の問診】
一条は、佐藤さんの首の付け根にある、わずかに黒ずんだ皮膚(黒色表皮腫)をそっと指で示した。
「佐藤さん、この首の後ろの黒ずみ。これね、汚れじゃないんだ。インスリン抵抗性……つまり、膵臓から出ているインスリンがうまく細胞に効かなくなっているサインなんだよ。真壁さん、彼に『エプワース眠気尺度(ESS)』の問診票を出してくれるかな?」
ベテラン看護師の真壁が、手際よくタブレットを差し出す。
「佐藤さん、正直に答えてね。会議中や、赤信号で止まった車の中で、ガクンと意識が飛ぶような眠気に襲われることは?」
「あ……あります。実は、仕事中に集中力が切れると、どうしても甘いものや炭水化物を詰め込みたくなるんです。そうしないと頭が回らなくて」
一条は頷き、確信を持って指示を出した。
「佐藤君、すぐに採血だ。一般項目の他に、HbA1c、そして空腹時のIRI(インスリン濃度)を測って。それから、自宅でできるアプノモニター(簡易睡眠検査)の手配を。彼は寝ている間、戦っている可能性がある」
【低酸素が生む「偽りの空腹」】
数日後、再診に訪れた佐藤さんに、一条は検査結果のグラフを見せた。
「佐藤さん。アプノモニターの結果、一時間に30回以上も呼吸が止まっていました。重症のSAS(睡眠時無呼吸症候群)です。一晩中、あなたの脳は酸欠状態で、溺れているのと同じだったんだよ」
「溺れている……? だから、あんなに疲れているんですか?」
「そう。脳が酸欠になると、生存本能としてストレスホルモンであるコルチゾールやアドレナリンを大量に出す。これが血糖値を上昇させ、今度はそれを下げようとしてインスリンが過剰に出る。この乱高下が、脳に『エネルギーが足りない! すぐに糖分を摂れ!』と強烈な命令を出すんだ。これが、あなたが抗えなかった食欲の正体、偽装エネルギー要求だよ」
佐藤さんは、目から鱗が落ちたような表情をした。
「僕が食いしん坊なわけじゃなくて、脳がパニックを起こしていたんですね……」
「その通り。だからね、自分を責めるのはもうおしまい。まずは物理的に呼吸を確保しましょう。佐藤君、CPAP(持続陽圧呼吸療法)のデモ機を準備して。真壁さん、提携している睡眠医療センターに詳細データを送っておいてくれるかい?」
【パルマ総合クリニックの流儀】
「いいですか、佐藤さん。CPAPで良質な睡眠が取れるようになれば、食欲を抑えるホルモン(レプチン)が正常に働き出し、逆に食欲を増進させるホルモン(グレリン)が減ります。無理な我慢をしなくても、自然と体重は落ちていきますよ」
一条は、患者の佐藤さんの手を両手で包み込むように握った。
「僕と一緒に、ゆっくり治していきましょう。あなたは一人じゃないんだから。あ、でも、痩せたら僕に美味しい低カロリーレシピ、教えてくださいね。僕も真壁さんに怒られない程度に頑張るから」
診察室を出る佐藤さんの足取りは、心なしか軽くなっていた。
「先生、本当にお人好しなんだから。患者さんの食欲を、脳のせいにしちゃうなんて」
片付けをする新人看護師の佐藤が、呆れたように笑う。
「でも佐藤君、医学的な事実は事実だよ。罪悪感で押し潰されている患者さんに、さらに『頑張れ』なんて言うのは酷じゃないか。僕らの仕事は、原因を取り除いて、患者さんが前を向けるように背中をそっと押すことなんだ」
「……そうですね。じゃあ先生、背中を押すついでに、その机の引き出しに隠してあるチョコ、没収しておきますね!」
「ああっ! それは僕の生命維持装置……!」
真壁の笑い声が響く中、パルマ総合クリニックの夜は更けていった。
【医療解説:肥満とSASの悪循環】
• BMI 30以上の肥満: SAS(睡眠時無呼吸症候群)の最大のリスク因子。喉周りの脂肪が気道を塞ぐ。
• インスリン抵抗性と黒色表皮腫: 肥満によりインスリンの効きが悪くなると、代償的に高インスリン血症となり、皮膚の角質細胞が増殖して黒ずんで見えることがある。
• CPAP: 寝ている間に鼻マスクから空気を送り込み、気道を広げる治療法。SASの標準治療であり、代謝改善にも劇的な効果がある。
• 食欲ホルモン(レプチンとグレリン): 睡眠不足や酸欠状態では、満腹感を感じるレプチンが減り、空腹感を感じるグレリンが増えるため、過食に陥りやすい。




