第28話 折れたメスの記憶と、スタッフの「査定」
【凍りついたスタッフルーム】
黒崎たちが去った後のスタッフルームは、まるで空気が入れ替えを拒んでいるかのように澱んでいた。
いつもなら「先生、カルテ溜まってます!」と元気な声を上げる佐藤が、手元のカップを見つめたまま動かない。
ベテランの真壁もまた、窓の外を見つめたまま、一度も一条の方を振り返らなかった。
「……あはは、二人とも、そんなに深刻な顔をしないでよ。僕が少し、お節介が過ぎたのは事実なんだから。これからは真壁さんの言う通り、経費削減に励むからさ」
一条が努めて明るい声を出す。
だが、その声は空虚に響くだけだった。
「……先生」佐藤がようやく顔を上げた。
その瞳には涙が溜まっている。
「先生が大学病院を追われた理由……黒崎さんが言ってたこと、本当なんですか? その、おじいさんの外出を許可したせいで、先生は全部奪われたんですか?」
一条は、白衣のポケットの中で自分の右手を握りしめた。
かつて数多の命を救ってきた、黄金の指先。
「……奪われたなんて思っていないよ、佐藤君。ただ、組織という大きな船を維持するためには、規律を守れない乗組員は降りるしかなかった。それだけのことさ」
【真壁の憤りと佐藤の迷い】
「……ふざけないでください」
真壁の声は低く、震えていた。
彼女はゆっくりと一条に向き直った。
「先生は、私たちを信じていないんですか? 私たちは、ただの雇われ人ですか? あんな冷血漢に、先生の人生をボロクソに言われて……それなのに、先生はまた『お人好し』な顔をして、自分一人で背負おうとする。そんなの、チームじゃありませんわ」
「真壁さん……」
「経営が苦しいのは、先生のせいだけじゃない。私がもっと厳しく管理していれば……でも、先生が患者さんに寄り添う姿を見て、私はどこかで『これがパルマの理想なんだ』と甘えていた。でも、現実はこれです。給料も払えない、クリニックも守れない。……これが先生の守りたかった『手のひら』なんですか?」
真壁はそれだけ言うと、乱暴にナースキャップを脱ぎ捨ててスタッフルームを出て行った。
佐藤もまた、掛ける言葉が見つからず、一条から視線を外して彼女を追った。
一人残された一条は、古びたデスクの上に置かれた「心臓血管外科・最優秀論文賞」の盾を見つめた。
それは今や、重い文鎮以上の役には立たなかった。
【黒崎の再来と非情な『選別』】
翌日。
一週間の猶予を待たず、黒崎は再びクリニックに現れた。
今度は、一台のノートPCと、数名の会計監査人を伴っていた。
「一条。検討する時間は無駄だ。君の経営状態を詳細に分析した結果、一つの提案を持ってきてやった」
黒崎は、一条のデスクを占拠するようにPCを広げた。
「このパルマ総合クリニックを我が法人の傘下に入れ、君は『外来主任』として雇用する。ただし、条件がある。第一に、全ての自由診療および減免処置の廃止。第二に、検査の包括パッケージ化による単価の向上。そして第三に……」
黒崎は、診察室の外で不安げに待機している真壁と佐藤を冷ややかに一瞥した。
「人件費の削減だ。この規模のクリニックに、経験豊富な正看護師(真壁)と、まだ使い物にならない新人(佐藤)の二人は必要ない。真壁君は我が法人の本院へ転籍させ、佐藤君は解雇だ。代わりに、AIによる予約管理と、パートの准看護師一人をこちらへ送る」
「待て! それは……」一条が身を乗り出す。
「一条。君が助けたいのは、患者か? それとも自分の『仲間ごっこ』か? 合理化を受け入れれば、このクリニックは存続できる。地域住民も、最低限の医療は受け続けられる。……君のわがままで、全員を道連れにするつもりか?」
黒崎の言葉は、一条の胸に鋭いメスのように突き刺さった。
組織の利益か、仲間の絆か。
かつて大学病院で突きつけられた究極の選択が、再び形を変えて一条を追い詰める。
【パルマ(手のひら)の亀裂】
その会話を、佐藤と真壁はドア越しに聞いていた。
「……私、解雇なんですね。やっぱり、お荷物だったんだ」
佐藤が力なく呟く。
真壁は何も言わず、ただ拳を固く握りしめていた。
診察室から出てきた一条は、二人の顔を見ることができなかった。
「二人とも……今日はもう、上がっていいよ。あとのことは、僕が……」
「先生。私たちの運命を、勝手に決めないでください」
真壁の声は、今まで聴いたことがないほど冷たかった。
「明日、出勤するかどうかは……自分で決めさせていただきます。失礼します」
真壁は佐藤の手を引き、一度も振り返らずにクリニックを後にした。
夕暮れのパルマ総合クリニック。
お人好しな院長が守りたかった場所は、今、音を立てて崩れようとしていた。
【医療知識:医療法人のM&Aとリストラ】
• 医療法人の傘下入り: 経営難に陥った個人診療所が、大きな医療法人に買収されるケースは近年増えている。経営は安定するが、経営方針(利益重視など)が大きく変わり、医師の裁量が制限されることが多い。
• 診療報酬の包括化: 特定の疾患に対して検査や投薬を一括で評価する仕組み。効率的な運営が求められる一方、過剰な検査を防ぐ側面もあるが、利益率向上のために利用されることもある。
• 人員適正化: 医療機関のコストの半分以上は人件費である。黒崎のような合理主義者は、真っ先に「高給のベテラン」や「教育コストのかかる新人」を排除し、コストの低い人材への置き換えを提案する。




