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第27話 パルマの黄色信号と、冷徹な再会

【月曜朝の『沈黙』】


 いつもの月曜日。

 商店街の喧騒は相変わらずだが、パルマ総合クリニックのスタッフルームには、重苦しい空気が漂っていた。


「……先生。これ、今月の収支報告書です」

 新人看護師の佐藤が、珍しく声を震わせて一枚の書類を差し出した。

 一条院長は、眼鏡をずらしてそれを覗き込み、いつものように「あはは、数字がいっぱい並んでるねぇ」と笑い飛ばそうとした。

 しかし、隣で腕を組んでいた真壁看護師長の冷徹な一言が、その笑いを凍りつかせた。

「先生、笑い事じゃありませんわ。家賃、光熱費、そして薬品の卸業者への支払い。これらを差し引くと、今月、私と佐藤さんの給料を払ったら、クリニックの口座はほぼ空っぽになります」


「え……? でも、毎日あんなに患者さんが来ているのに」

 佐藤が驚いて聞き返すと、真壁が一条を鋭く睨みつけた。

「患者さんは来ているわよ。でも、一条先生が『お金のことは気にしなくていいですよ』なんて言って、生活保護の申請中の方から窓口負担を取らなかったり、頼まれもしないのに無償で往診に出かけたり、果ては身寄りのないお年寄りのためにタクシー代まで肩代わりしているんですもの。……先生。パルマ(手のひら)の温もりを配るのも結構ですが、このままでは、手のひらを差し出す場所そのものがなくなりますわよ」

 一条は申し訳なさそうに頭をかいた。

「いやぁ、困っている人を見ると、ついね……。僕がもう少し昼飯を抜けば済む話かな?」

「そういう問題ではありません!」

 真壁の叱咤が響いたその時、クリニックの自動ドアが無機質な音を立てて開いた。


【黒い影の訪問者】


 入ってきたのは、商店街の住民ではない。

 仕立ての良い三揃えのスーツを身にまとい、銀縁の眼鏡の奥で冷徹な光を宿した男。

 その後ろには、数人の黒服の男たちが控えていた。

「……相変わらずだな、一条。君のその『お節介』という名の病気は、一向に治る気配がないようだ」

 その声を聞いた瞬間、一条の背筋がわずかに伸びた。

 お人好しな笑みが消え、どこか懐かしく、そして苦い記憶を呼び起こすような表情に変わる。

「……黒崎か。久しぶりだね。大学病院を辞めて以来かな」


 黒崎。

 一条の大学医学部時代の同期であり、かつては共に切磋琢磨した仲だった男だ。

 しかし今、彼は「関東メディカルホールディングス」という巨大医療法人の常務理事として、そして厚生労働省の外部監査委員という肩書きを引っ提げて現れた。

「一条。パルマ総合クリニックの惨状は把握している。不適切な会計処理、過剰なサービス提供、そして……地域医療を盾にした放漫経営。君のやっていることは、もはや医療ではない。ただの『慈善事業ごっこ』だ」

 黒崎が叩きつけた書類には、クリニックの買収提案書、あるいは閉院勧告とも取れる厳しい内容が記されていた。


【天才の挫折と、暴かれた過去】


「お、会計処理が不適切なんて、人聞きが悪いなぁ」一条が精一杯の冗談を口にするが、黒崎は表情一つ変えない。

「君はかつて『心臓血管外科の至宝』と呼ばれた男だ。君の手技があれば、今頃、大学病院の教授の椅子に座り、数千人の命を組織的に救えていたはずだ。それを、たった一人の末期がん患者の『孫の結婚式を見たい』という願いのために、組織のルールを破って独断で外出を許可し、挙句に術後の管理責任を問われて全てを失った。……その教訓が、まだ足りないのか?」


 佐藤と真壁が息を呑んだ。

 一条がなぜ、輝かしいエリート街道を捨てて、こんな小さな商店街の町医者になったのか。

 その本当の理由を、二人は初めて知ったのだ。

「黒崎。僕はね、組織の歯車になるよりも、一人の人間の『最後の一瞬』に寄り添える手のひらでありたかったんだ」

「その結果が、この破産寸前のクリニックか? 笑わせるな」


 黒崎は冷酷に宣告した。

「一週間後、再度訪問する。それまでに、経営改善の具体的なプランを出すか、あるいは我々の法人の傘下に入り、君は『指示通りの治療』を行う駒になるか。選ぶがいい。……行こう」

 嵐のような男たちが去った後、クリニックには耐え難い沈黙が流れた。


【パルマ(手のひら)の震え】


「……先生。本当なんですか? 先生、昔はすごい外科医だったって」

 佐藤が震える声で尋ねる。

 一条は、自分の震える右手をじっと見つめた。

「……昔の話だよ、佐藤君。今はただの、借金まみれの町医者だ」

「先生……」真壁が何かを言おうとしたが、一条はそれを遮るように立ち上がった。

「さあ、診察を始めよう。黒崎が何と言おうと、待合室には『腰が痛い』おばあちゃんと、『学校に行きたくない』男の子が待っている。……僕にできるのは、今、目の前の人の手を握ることだけだ」

 一条はいつもの笑顔を作ろうとしたが、その表情はどこか歪んでいた。

 パルマ総合クリニックに灯った黄色信号。

 それは、一条自身の信念を揺るがす、過酷な一週間の始まりだった。

【今回の医療知識:医療経営とDPC制度】


• 医療法人の経営: 個人クリニックといえども、医薬品の仕入れやスタッフの雇用維持のためには、適切な利益(医業利益)が必要となる。過剰な減免やサービスは、経営の健全性を損なうリスクがある。

• DPC/PDPS(診断群分類別包括評価制度): 大学病院などの大病院で採用されている「定額支払い」制度。一条がいた大学病院のような組織では、効率的な退院や標準的な治療が求められ、個別の患者の「特別な願い(外出など)」はリスクやコストとして敬遠される傾向にある。

• 地域医療のゲートキーパー: 一条のような町医者の役割だが、経済的基盤が不安定であれば、その役割を継続することが困難になるという現実的な問題を描いている。

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