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第29話 崩壊の序曲と、商店街を襲う「赤い風」

【空っぽの診察室】


 翌朝、一条院長がクリニックの鍵を開けたとき、待合室は静まり返っていた。

 いつもなら真壁がカルテのチェックをし、佐藤が元気な声で掃除をしている時間だ。

 しかし、二人の姿はなかった。


「……そりゃあ、そうだよな」

 一条は力なく呟き、白衣に着替えた。

 黒崎の言った通りだ。

 自分の甘さが、二人を傷つけ、居場所を奪おうとしている。


 診察開始のチャイムが鳴る。

 しかし、受付に真壁がいないため、患者たちは困惑した表情で立っていた。

 一条が一人で受付に立とうとした、その時だった。

「……遅れてすみません! 途中の交差点が酷い渋滞で!」

 ドアが勢いよく開き、息を切らせた佐藤が飛び込んできた。

「佐藤君……? 君、解雇の話を聞いたんじゃ……」

「まだクビになってません! それに、真壁さんが言ったんです。『あのお人好しを一人にしたら、受付でお釣りを間違えて赤字を増やすだけよ』って」


 その後ろから、真壁がいつものように完璧に整えられたナースキャップを被って現れた。

「先生。勘違いしないでください。私はまだ、あなたを許したわけじゃありません。でも、患者さんに罪はありませんわ。……さあ、佐藤さん、診察の準備を!」


【牙を剥く「日常」】


 三人の間に流れる奇妙な緊張感。

 それを切り裂いたのは、クリニックの電話でも、予約システムでもなかった。

 遠くから聞こえる、重なり合う救急車のサイレン。

 そして、窓の外を血相を変えて走る人々の怒号だった。


「先生! 表が大変なことになっています!」

 佐藤が窓の外を指差す。

 商店街の入り口にある建設現場で、クレーンが倒壊し、向かいの老舗レストランのテラス席を直撃したのだ。

「真壁さん、トリアージキットを持って表へ! 佐藤君、処置室のベッドをすべて空けて、包帯と消毒液、縫合セットを出しなさい! 提携病院に連絡を……いや、この数だ、間に合わない!」

 一条の指示は、これまでの「お人好し院長」のそれとは一線を画していた。

 声に迷いがなく、その瞳にはかつて『心臓血管外科の至宝』と呼ばれた男の、冷徹なまでの集中力が宿っていた。


【黒崎の見守る「地獄」】


 クリニックの入り口に、次々と負傷者が運び込まれる。

 そこへ、買収の最終手続きのために訪れていた黒崎が、SPを伴って現れた。

「一条、何を考えている! こんな設備の整っていない場所で重傷者を受け入れるなど、自殺行為だ。二次被害が出たら、君の医師免許は今度こそ剥奪されるぞ!」

 黒崎の怒鳴り声を、一条は一瞥もせずに切り捨てた。

「黒崎。君の言う『効率』は、今この目の前で血を流している人間には何の役にも立たない。真壁さん、この男性は気胸ききょうだ。すぐに脱気だっきの準備を。佐藤君、この子の足の出血を圧迫止血して、輸液ルートを確保して!」

 一条は、瓦礫に挟まれ胸部を強く強打した男性の前に跪いた。


「……心音減弱。心タンポナーデか。このままじゃ数分で心停止する」

 黒崎が息を呑んだ。

「馬鹿な……エコーも透視もないところで、心膜穿刺しんまくせんしをやるつもりか?」

「黒崎、君は忘れたのか? 僕の指先には、一ミリの狂いもなく心臓を捉える感覚が染み付いているんだ」

 一条は、佐藤が震える手で差し出した長い穿刺針をひったくった。


 診察室の簡易ベッドの上。

 一条の指先が男性の肋骨の間を正確に捉え、迷いなく針を突き立てる。

 どす黒い血液がシリンジ(注射器)に逆流してきた瞬間、停止しかけていた男性の脈拍が、力強く戻り始めた。

「……よし、減圧成功だ。真壁さん、今のうちに大学病院のICUへホットラインを。僕が直接執刀医と話す」


【パルマ(手のひら)が繋いだ「絆」】


 一時間後。

 パルマ総合クリニックに運び込まれた八名の負傷者は、一条たちの迅速なトリアージと緊急処置により、全員が命を繋いだ状態で救急隊へと引き継がれた。

 床は血と消毒液で汚れ、一条の白衣はボロボロになっていた。


 静まり返ったクリニックの中で、黒崎は一人、動かなくなったモニターを見つめていた。

「一条。……君は、変わっていないな」

 黒崎の声には、先ほどまでの冷酷さは消え、どこか敗北感に似た色が混じっていた。

「……僕は、お人好しだからね。目の前の命を諦める『効率』を持ち合わせていないんだ」

「……あんな無茶な処置、大学病院のガイドラインでは即座にクビだ。だが……」


 黒崎は、鞄から一枚の書類を取り出し、目の前で破り捨てた。

「我が法人は、リスクの大きすぎる投資は行わない。このクリニックの買収案は白紙に戻す。勝手にするがいい。……ただし、一条」

 黒崎は去り際に、一度だけ振り返った。

「君を救ったのは、君の腕じゃない。君が無理心中させようとした、あの二人の看護師の献身だ。……それを忘れるな」


 黒崎が去った後、一条は崩れるように椅子に座り、震える手で顔を覆った。

「先生……」佐藤がそっとタオルを差し出し、真壁が黙ってコーヒーを淹れる。

「……ごめん。二人とも、本当にごめん」

 お人好し院長の目から、堪えていた涙がこぼれ落ちた。

 パルマ総合クリニックの長い一日は、まだ終わらない。

 閉院の危機を乗り越えたその場所に、かつてないほど強い、三人の絆が刻まれようとしていた。

【医療知識:トリアージと緊急処置】


• トリアージ: 災害や多重事故の際、治療の優先順位を決定すること。赤(緊急)、黄(準緊急)、緑(軽症)、黒(死亡・絶望的)の四色で分類される。

• 心タンポナーデ: 心臓を包む膜(心膜)の中に血液などが溜まり、心臓が圧迫されて拡張できなくなる状態。一刻も早く針で血液を抜く(心膜穿刺)必要がある。

• 気胸と脱気: 肺に穴が開き、胸腔内に空気が漏れて肺が潰れる状態。針や管を刺して空気を抜く処置が必要となる。

• プライマリ・ケアの限界と可能性: 本来、個人クリニックで行う処置ではないが、高度な専門知識を持つ医師がいれば、高度医療機関へ繋ぐまでの「命の架け橋」となり得る。

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