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極挨覇道 挨拶侍  作者: 石鹸ソイソース
第1章 社内の人にこんにちは

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第23話 大馬鹿者の彷徨

 敗北を認め、俺はその証として会議室の扉を開いた。

 ナム課長と目が合った。

 怒っているようでもあり、友を慈しむような優しい目でもあった。


 何を考えているのか、開かない口が答えを教えてくれることは無かった。

 ただ、俺が入るまでずっと俺を見つめていた。

 扉をくぐると、まるで他人であるかのように立ち上がり自分の席へと去ってしまうのだった。


 俺の席は錦山の隣だった。

 扉を壊したことをとやかく言う輩の傍で無かったのは幸いだった。


 社会人として一応説明を聞いてはいたが、耳に入った傍から抜けていくようで全く頭に入らなかった。

 第一もうどうでもいいと思っていた。


 説明が終わっても、席を立つことはなかった。

 錦山が早速仕事に取り掛かろうとすっ飛んで行ったが、どよめいた空気はすぐに無くなり、参加者たちが思い思いに動き出した。

 参加者の歓談が耳にノイズを乗せたが、誰一人俺に声をかけてくる者はいなかった。

 優しさからの遠慮なのか、それともただの哀れみなのか今となっては判断できない。


 ざわざわと騒がしい中、ふらりと会議室を出てタクシーに乗り込んだ。

 行き先は告げず、市街をぐるぐる周る。


 車窓から見えるあれは、前にいた会社のビル。

 こっちはその前。そっちはさらに前の前。


 振り返ればいろいろな会社を渡り歩いてきた。

 業種も違えば規模もまるで違う。

 ひとつ会社の格が上がれば、景色がまるで違って見えた。

 次はどれだけ見晴らしが良いのだろうと常に上を見上げてきた。


 でもどうだろう。

 こうして眺めてみると、前の会社もその前の会社もただ重厚な建物があるだけ。

 なんの知識も興味もなければ、その二つに何の違いを見いだせようか。


 昔、自然公園で稀に声を交わした老婆がいた。

「今日は暑いわね」とか「そろそろ散水時間だから帰った方がいいのではなくて?」だとか、とりとめもない会話を押し付けてきた。


 あるとき、ランクが上の会社に昇格した嬉しさからか老婆にそのことを話したことがある。

「あら、すごいわねえ。ご立派でえらいわ」なんて褒めてくれたことがある。

 次に転職に成功した時も思わず老婆に話した。

 するとまた「立派ですごいわ」と褒めたのだ。

 どちらも、小さな暖かい風が瞬間的に心を撫でるような嬉しさがあった。


 今になって思う。

 老婆は、昇格したことを機械的に褒めたのであって。会社の格もその成果がいかにすごいかも理解していなかったことだろう。

 きっと俺が、最下層の社員であっても同じ事を言ったはずだ。


 所詮、どれだけ励もうと世間からの認識はその程度なのだ。

 新佐は俺と同い年で第2次子会社まで登っている。

 錦山は俺より遥か年下でも、俺と同じ位置にいる。


 でもきっとその差が分かるのはほんのごく一部の人間だけなのだろう。

 納東亜重工のように頂に立って初めて、その位置を認識される程度のものでしかない。

 この世界のほとんどは会社なんて良く知らない自由市民で、社会人なんて二割にも満たないではないか。


 見返したい、他人に認められたいという願いに対して、社会人という道はどれだけ不効率なのだろう。

 どれだけ進もうと、結局自己満足に過ぎないということはずっとどこかで分かっていたが、急に心情と絡み合ってはっきりと理解できたように感じる。

 もう潮時だと思った。


 行く先を変えた。

 ホンオフェスタ不動産本社ビル。


 入り口ではまだ何人かが立ち話をしていて、会場案内が消えていない。

 コロシアムにはまだ人がいるのだろう。


 いつも通りの道筋を通って、いつも通りのオフィスへ向かう。

 いつも通りの扉を抜けて、いつも通りの席に座った。

 特に誰のデスクとは決まっていない。でも、ここがいつも俺の席だった。


 机と椅子しかない殺風景なこの箱を埋めるように、壁には今までの写真やら賞状が飾ってあった。

 少し若い俺もいれば、後輩を怒らせた時に課長にとられた写真もあった。

 きっとずっと前の社員だろう、俺の知らない顔もいくつも並んでいる。

 俺もいずれは誰も知らない誰かになってゆくのだろう。


 感慨に浸っていると支給ドールが荷物を運んできた。

 来る途中で注文しておいた便箋を届けに来たらしい。

 便箋はちゃんと紙のやつにした。ARにしなかったのは、何かここに形あるものを残したかったというせめてもの意地がそうさせた。


 字を書くのはいつぶりだったか思い出せないほど久しぶりだった。

 指よりも細いペンが思いのほかあまりに軽くて不安を覚える。書き始めてみたが、いつも目にしている文字がどうにも手書きとなるとスラスラと出てこないうえにうまく文章が定まらず一文字一文字に精神を吸い取られているような、まるで精神をインクとして書いているように思えてくる。


 どれだけ心を込めて手紙をしたためようと、どうせ課長が読むときにはきっと自動でハングル文字へ視覚翻訳されて俺が書いた文字なんて見えないことだろう。

 今俺が何を考えて思っているのか、AIは善意も悪意も無く見た目だけ良いもので覆い隠してしまう。

 伝わらないかもしれない。でもそれでいい。

 これは俺の自己満足に過ぎないのだから。


 どうにも視界に入れているのが嫌で、四苦八苦して書き上げた退職届は課長のデスクの端にすぐに置いた。


 錦山にも手紙を書くことにした。

 彼とはそこまで深いかかわりは無かったが、こうして目的に進んでいるというのは素直に祝ってやるべきだ。

 俺が懸念したことを伝えるべきだとは思うが、退職して部外者となる俺は安易に会社の情報を口にするべきではない。それに喜んでいるだろう所に水を差すのは野暮ってものだ。

 ただ、行かせた当事者として何らかの手助けをしてやるのは義務であり、この手紙が一助となれば良いと思う。

 結局これも自己満足なのだろう。


 書き終えた手紙はデスクに置いておくわけにはいかないので、支給ドールに預けておくことにした。


 もうここへ来ることは無いのだからと去る前にオフィスをぐるりと周ってみるが、これまでいた会社とさして違いは無く、せいぜい窓のその景色だけが少し他より高いくらいだった。

 思い出そうとしても前の会社のオフィスの中にどんな特徴があったかなんて出せなかった。

 いずれこのオフィスも鮮明に思い出せなくなるのだろうと思うと少し悲しくなるはずだが、不思議と何の感慨も湧かなかった。そのこと自体が悲しいようにも思えてくる。


 たった2通の手紙をこしらえるだけで相当な時間を使っていたようで、太陽は既に地平線に近付いていた。

 誰もオフィスに戻ってこなかったのがこの会社での最大の幸運だったかもしれないなんて自虐的な冗談を口にしてみるが、俺を含めて笑う人間はどこにもいなかった。


 ビルを出ても何ら思うところは無かった。

 肩の荷が降りたとか、これからの不安だとかそういった感情が一切湧かず、拍子抜けしてしまった。


 そうなるとなんとなく慣れたルートを外れたいという密かな願望が出てきた。だからといってやることもないので、せめてもの変更として家には帰らず、自然公園に向かうことにした。


 外は今日の最高気温から少し下がったが、まだまだ暑さが残っている。

 公園の草花が熱を奪って少し涼しく感じるが、代わりに高まった湿気がシャツと肌の隙間にまとわりついてくるようで気持ちのいいものではない。


 路地には長く伸びた木の葉の影が無数に重なっては離れて、絶えずまだら模様を変化させている。

 路肩には土混じりの小さな水たまり。溺れて白くなったミミズが沈んでいた。

 時より当たる光がミミズの体表を輝かせるが、すぐに影が落ちて暗いトーンに同化する。

 行き交う自由市民は誰も気にも留めず、認識することもない。


 木々を抜けて原っぱに来るとまるで違う世界に来たかのように空気が変わる。

 下から上に温かい空気が昇ってゆく。

 遠くの路地には陽炎が揺らめいて、すぐ近くでは小さな羽虫が昇っては落ちてぐるぐると纏まり蚊柱を作っている。

 地面に這いつくばっている草の生き生きとした明るい緑が眩しくて、いつもの薄暗い公園とはまるで違って見えた。


 日常との違いを求めてきたのに、いつものベンチに座った。

 変化が急に恐くなったのか。それともどれほど違いがあるのか確認したくなったのか俺にもよく分からない。もしかしたらどっちもかもしれない。


 動きを止めるとドッと暑さがのしかかってくるようだった。調温インナーを着てくればよかったのだろうが、立ち合いがあったのでそうもいかなかった。

 噴き出した額の汗をハンカチで拭い、冷たい繊維水を注文した。


 数分と経たずに掌くらいのトンボが飛んできて繊維水を置いて行った。

 ボトルに描かれたファインちゃんの顔には大粒の汗が浮いていて、良く冷えているのが見て取れる。

 手に取ると肌にしみ込むような冷たさが心地いい。

 低温でいつもより粘度を増した繊維水が、ゆっくりと食道を冷気で染め上げてゆくようで、ほおと息が漏れる。


 遠くで自由市民の子供達がデフォルメした矢のようなおもちゃを蹴り上げて遊んでいた。

 今日から俺も彼らと同じ自由市民になったのだ。


 社会人をやめて、堅苦しい世界から脱したというのに、どうにも実感が湧かない。

 何か急な変化があるわけでもなく、切り替えの手続きがあるわけでもなく。期待していた気持ちの軽さも訪れなかった。


 どちらかと言えば、社会人という肩書が抜け落ちただけのような気もする。


 実入りは格段に減り、これからは配給ポイントだけでくらいしていくことになる。

 ゆくゆくは住まいも地下長屋に移すことになるだろう。

 さっきみたいに繊維水を特急オプションを付けて発注するのも難しくなるかもしれない。

 いや、そのくらいは今まで溜めたポイントでどうとでもなるか。


 生活様式を変える時にならないと実感というのは湧かないのだろうか。

 考えたところでどうしようもない気がしてきた。

 繊維水が口に含む度にぬるく、柔らかくなってゆく。


 ぼんやりと景色を眺めていると日が沈み始める。

 石をしきりにひっくり返していた少年が遠くへ行って、遊んでいた子供たちはいなくなった。

 もう何人も俺の前を通り過ぎたが、知ってる顔はひとつもなかった。


 以前声をかけてきた老婆はいないのだろうか。最後に見たのはいつだったか。もうずいぶんと季節を巡った気がする。


 緑色の草がオレンジ色になったかと思えば空は紫に変わり、やがて深い青に落ち着いた。

 欠けた黄色い月が、太陽になり替わろうと励んでいるのが健気で可愛そうに思えてくる。

 足元の明るさは街灯のおかげで、月がどれだけ頑張っているのか俺に知ることは出来ない。


 俺は頑張った。努力した。懸命に励んだ。社会人の上位30%に入るまで躍進した。

 俺を馬鹿にしたクラスの連中の誰もが、俺の下にいた。


 で?

 何か変わったか?


 クラスの連中は誰も俺の事なんて気にも留めなかった。

 ポイントを使ってクラスメイトを調べたが、数人は既に死に、9割は自由市民として生きていた。


 時より立ち合いの賭博に参加している奴もいたが、俺への称賛なんて一度もなかった。

 連絡しようと思えばいつでもできた。でも、自分から連絡するなんて出来るわけなかった。

 社会人になった奴らもせいぜい20次子会社程度で、始めは稀に顔を見かけたが、見なくなってもうしばらく経った。


 とどのつまり、誰も俺を見ていない。


 両親でさえいつも「おお、すごいな」の一言で、老婆同様に上位への転職が、昇進がそれぞれどれだけすごいのかなんて理解していなかった。

 唯一讃えてくれる仕事仲間たちも、上に行けば皆いなくなり声も聞こえなくなる。

 新しい職場で同僚に慣れ親しんで来たと思えば、また遠くに消えてゆく。


 ホンオフェスタ不動産の在籍期間がいままでで最長だったのは、また俺を見る目が無くなるのが恐ろしかったのかもしれない。

 課長にいじられるのが、思いのほか心地よかったのかもしれない。


 にもかかわらず、ついさっきすべてを自ら投げ捨てた。

 状況はハッキリと理解しているのに、いまだに喪失感が現れない。

 俺はこんなにも薄情な奴ではなかったはずなのに。


 俺は何がしたかったのか、これから何をしたいのかまるで分からない。

 これから俺はどうするのだろうか?


 先ほどの子供たちのようにどこかコミュニティに参加して、小さな世界で生きてゆくのだろうか。

 実家に帰って家族という最小単位のなかで生きてゆく選択肢もある。

 ポイントは人よりもあるのだから、子供を発注してみるのもいいのかもしれない。


 子育てなんか考えたことも無かった。どうするのか、どれほどポイントを使うのかまるで知らない。

 検索してみようとニューロキャストを起動すると、自動設定していたエゴサーチ結果の通知が来ていた。


『イーストウェーク主任決定戦、ベテラン大艦がまさかの大敗。度重なる奇行いったいなぜ?』

 最新ニュースの傍らに俺の名前が乗っていた。


 思うところがないわけではないが、負けたのは事実で奇行と言われるのも仕方がないと納得できる。

 記事にはいくつも批判的なコメントが付いていた。

「え、俺の3か月分消えたんだけどどうしてくれんの?」とか「今季最大の大穴過ぎて死にたくなるわ」だとかどいつもこいつも好き勝手言っている。

 中には「長年大艦追っているけどここで失速かぁ…」「上り調子が途絶えるのは悲しすぎる」なんてのもあった。

 俺を応援してくれていた人達も確かにいたのだ。

 嬉しいような気もする。


 でも、手放しで喜ぶことは出来なかった。


 彼らの期待に、違和感を覚えてしまった。

 退職届を置いてきて感傷的になっているのかもしれない。常に気を張って来たせいかひねくれているのかもしれない。

 そうであってもこの違和感を拭うことは出来なかったようにも思う。


 好意的にとれるコメントはいずれも、俺へ向いていない。俺を見ていない。


 立ち合いのアーカイブを見たのは疑いようがない、過去も配信も見て生活を豊かにするはずのポイントをこの俺に託して、より良い未来を願っていた。

 今回もこれからも、俺を信じて俺に賭けるつもりだった。


 だが彼らが望んだのは、俺じゃあない。

 俺を介して、自分の未来を望んでいた。


 誰も俺という人間を見ていない。そして彼らのより良い未来に俺という人間はいない。

 彼らにとって俺は、ポイントを増幅する機械であり、番号しか無い競走犬と同じなのだ。

 勝利という結果だけが注目され、愛される。

 大艦榴鯛という生きた男の名は、ただの記号に過ぎないのだろう。


 どんな批判的なものよりも、俺を肯定するコメントが何より心を抉る。


 批判的なコメントは、俺を見ていた。

 俺の行動のどこが悪い。俺の見てくれのどこが好かなかを観察している。

 立ち合いの俺の姿そのものを見ていた。

 その目に俺という人間をちゃんと写していた。


 だったら何が不満なのか?

 俺を否定しているからか?

 きっと違う。


 彼らもまた。見ていた時は俺を通して、望む未来を見ている。

 そして負けが決まった途端に批判の目を向ける。


 目を向けたのは俺ではない。

 過去の俺。

 既に時間に固定された、可能性も何も無い俺。


 誰も今の俺を見ていない。

 これからどうするのか、分からないこの瞬間の俺を誰も気にしてなどいない。


 叫び出しそうだ。

 喉が張り裂け、耳を劈くまで声を上げたい。


 自由と名の付く市民になろうと、僅かばかりの羞恥心が行動を縛る。


 繊維水のボトルを抱え込み、うずくまる。

 ベコバキと密閉されたボトルが悲鳴を上げている。


 認めてしまった。学生の頃と何も変わっていないじゃないかと。

 誰も俺を認めてなんかいないじゃないかと。


 涙が出そうだった。

 喉の奥がとてつもなく苦く、苦しい。


 何もかもが無駄だった。

 どこかで分かっていたが、のらりくらりと避けていた考えを今はっきりと理解してしまった。


 認められることだけが生きる意味であった。

 そのためにひた走って来たはずだった。

 掴んだと思った時もあった。でも手を開けてみればいつも跡形もなく消え去り、空っぽだった。


 当たり前だ。全部が全部、無意味であった。


 こんなにも虚しいことがあっていいのだろうか。こんなに悲しいことがあっていいのだろうか。

 むせび泣いて喚き散らせば、すべて最初からにならないだろうか。

 荒唐無稽で支離滅裂な願望が思考を占拠する。


 隅っこに生き残った冷静な思考もまた冷ややかに突き放してくる。

 どうせ最初からやり直してうまくやれても、きっと違う何かが俺を悶えさせるのが道理だと。

 手放しで喜べる未来などどこにも無く、ただどこに行っても苦悩が待っていると。


 問答する思考は、短慮な結論を導く。

 生まれたことが間違いなのだと。


 ひとりでに苦悶し、ひとりでに絶望した。


 ひとりでに目標を定め、ひとりでに走って、ひとりでに納得する。

 いつでもどこでも、結局は一人だったのだ。


 思考は停止し、視界は暗い。

 虫の声が良く聞こえる。


 悲しそうに消え入る音色は、どこか俺と同じと思えた。

 違うのは、虫は適切な行動が取れているということ。

 俺は。俺は……


「あ、あの」


 虫ではない可愛らしい声が突如割り込む。

 見上げるとそこに少女がいた。


 目が赤くないだろうか。情けない表情をしていないだろうか。そんな心配が瞬時によぎる。

 社会人としての本能が無意識に取り繕おうとするのが可笑しかった。


「あの…えっと」


 返事をしなかったせいか、少女がもう一度俺に声をかけた。


 返事をする前に、俺は少女と会話していい絵面なのかが心配になった。

 ニヤニヤしていないだろうか。だからといって硬く恐い表情をしていないだろうか。

 まただ。また体裁ばかりを気にしている。

 誰も俺なんて気にしていないと結論付けているのに、どうしても世間体を気にしてしまう。

 大馬鹿者じゃなかろうか。


「いっつも、ここに居ますよね。」


 少女の平坦な発言に肝が冷えた。

 いつもここで、逢瀬集会を眺めていたのがバレたのだろうか。

 それでどこぞの三下連中のように俺をロリコンと罵るつもりだろうか。


 第三者が罵るだけならまだいい。

 でも彼女が見られていた当の本人で、不快と明言し通報すれば俺はたちまち犯罪者だ。

 世間体もくそもあったもんじゃない。


 それでも嘘を付くのはマズい。

 どうせどこかの監視カメラなり、誰か視界メモリーに証拠は残っている。


「そうですね。仕事終わりにここで一息つくことが多いですね。」


 言い訳がましく仕事終わりなんて単語を使い、やめたというのにまた見栄を張ろうとしている。

 反吐が出るほど馬鹿な発言だったと、すぐに猛省する。


「えっと……この間はありがとうございました。」


 一瞬何が何だか分からなかった。

 俺にとって良くない方向に転ぶであろうと思われた発言とは真逆の意味を持っていて混乱したのもあるが、お礼を言われるようなことを俺は最近どころか、生まれてこの方した覚えが無かったからだ。


「あーっと、えっと……お礼なんてそんな。ご丁寧にどうもありがとうございます。」


 訳の分からないお礼は社会人時代にも多々遭遇した。

 もっともそれらは、「あなたとは知古ですよ」という関係性の押し付けのために、本当に些細でお礼なんて言うべきものじゃない事柄で、無理やり感謝を押し付けてくる。

 そういった場面では何がなんだが分からずとも、どうせ否定ところであったなかったの押し問答になるから適当にあしらってきた。


 まさかその時のノウハウをここで使うとは思いもしなかった。


 しかし、少女は訝しげに首をひねり納得していないようだった。

「一昨日の夜、あそこの栗の木の下でナンパ男を追い払ってくれたの……覚えてます?」

 彼女は後ろの大きな栗の木を指さして、嬉しそうに微笑んだ。


「ええ、もちろん。もちろん覚えてますよ。無事で何よりです。ああいう手合いは無視した方が良いですよ。一言でも返すと図に乗りますから。」


 また、忘れていたことを覚えているなんて見栄を張った。

 そして気まずさを誤魔化すために、求められてもいない改善案をペラペラとしゃべる。

 つくづくこの男は救いようがない。


「そうなんですか。わたし、思ったことがあると口に出てしまう癖があるので……」


「そうですか。難儀ですね。」


「……。」

「……。」


 俺には彼女に何を言うべきなのか思いつかなかった。

 彼女もきっと同じなのだろう。

 年端もいかない娘と、いい年した大の大人が同じ状況に陥ったというのはやるせなさも感じるが、妙な心地よさもあった。


 少女は握った手を突き出して沈黙を破った。

「あのっ。これあげます。」


 彼女は手を見るわけでもなく、黒々とした瞳にはくたびれたおっさんが写っていた。

 彼女は、未来でもなく過去でもなく、今の俺に感謝の念を込めた眼差しを向けていた。


 なんだかそれだけで、救われた気がした。

 何もかもが肯定された気がした。


 俺がここに居ていいとそう言ってくれた気がした。

 夏の温かい風が胸の奥を通り抜けて行った。


 誰かの目に写るというのがこんなにも心地いいのはなぜなんだろうか。

 どれだけ配信やニュースに取り上げられ、多くの目にさらされようと、このたった一対の目に収まることより胸をいっぱいにすることなど他にあるのだろうか。


 瞳の中のおっさんは、気持ちの悪い困ったような笑みを浮かべ、なんとも情けない姿をしている。


 少女は、そんなおっさんに顔を背けることもせずもう一度、握った拳を突き出してきた。


 こちらも下に掌を出して受け取って見ると、握りしめたせいか少し歪んだ黄土色の小さな箱であった。


「キャラメルです。食べてください。」

 そういって少女はまた、走って行ってしまった。


「弱ったなぁ……」

 甘い菓子なんて最後に食べたのはもう30年近く前の話だ。

 食べないことに慣れた今、これを貰ってもというのはある。


 だがそう思って出した声は忌避感が微塵も無く、嬉しさが漏れ出ていたように聞こえるのだから笑ってしまう。


 見上げると、いつものように星が瞬いていた。

 どれもこれも光ってはいるが、俺を照らすほど明るくはない。


 きっと一つぐらい消えても誰も気が付かないだろうし、生活に何ら支障があるわけでもない。

 彼らの必死な輝きは無駄でしかない。

 でも俺は、星は綺麗だと思う。


 決して「星々が綺麗だ」とは言わない。「”星”が綺麗だ」と、そう言うのだ。



 少女が与えてくれたささやかな幸福から派生したノスタルジーにいつまでも浸っていたい。


 なんて思えてくるが、現実は非情だった。


 脳内に鳴り響く着信音。

 誰かが俺の感慨を土足でぶち抜いて来やがる。


 とっさに拒絶したが、間髪入れずのまた着信が泣きわめく。

 誰だよと思ったらナム課長だった。


 きっと机に置いた退職届を見たのだろう。

 大人として説明する義務があるのは分かっているが、何を言われるのだろうと子供のように怯えてしまうのもまた事実だった。


 恐る恐る、音声通話を許諾する。


「今どこ?」


 怒っているのか判断付かない声色。

 短い文がより不鮮明さを醸し出して、なおさら恐い。


「自然公園にいます。」


「そう。じゃあ今すぐ送ったアドレスのバーに直行。命令です。よろしく。」


「話があるということでよろしいですか?」


「ちがうわよ。終わったら課で飲み会するって言ったでしょ。だから大ちゃんも来なさい。業務命令です。」


「つかぬことをお聞きしますが、オフィスの机の上はご覧になりましたか?先ほど私は退職届を提出いたしました。机への提出物の通達は既にナム課長に飛んでると思うのですが。」


「はあ。私は知らない。大事な書類ならデータで送れっているも言ってるでしょ。退職届は不承知です。よってあなたはまだ辞められていません。もう一度言います。業務命令です。今すぐ来なさい。」


「いや、でも、錦山とかちょっと間開けてから顔を合わせたいと言うか、なんというか……」


「あーあ。ニッシーに先輩風ふかせたこっ恥ずかしい手紙書いたから、会いたくないってことかしら?大丈夫、ニッシーは逃げちゃって来ないみたい。それに他の皆も唾つけてた企業の対応でてんやわんやで誰も来やしない。だから早く来なさい。祝いの席で私を一人寂しく飲ませるおつもり?だとしてもこれは業務命令です。退職届を受理していないので命令は有効です。さっさと来なさい。いいわね?ではまたあとで。」


 竜巻のような通話が途絶えた。

 何もかもを巻き上げて行ってしまったような気持ちだった。


 課長はたぶん、はなから誰も呼んでいないのだろう。

 それが分かるくらいには、彼女とは長かった。


 何を言われても退職届を撤回するつもりは無い。

 でも、きっと彼女もまた俺を見ていてくれたのだろう。


 先ほど貰ったキャラメルを開けてみた。

 包みを剥がすと、箱と同じ黄土色をした普通のキャラメルだった。


 甘さが鼻孔に残るような、懐かしい匂いがした。

 口の中に転がすと、なんだか少ししょっぱい味がした。


第1章これにて終幕。

ここまで付き合って下さった皆々様には心より御礼申し上げます。

ちょっと小話を挟んですぐ第2章と行きたいところですが構想が纏まっておらず、しばらくお休みさせていただきます。

詳しいことは活動報告にて。

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