第22話 大馬鹿者の抱擁
顔を上げた彼の瞳の形が変わった。上下に平行線が現れて、角膜の湾曲が光を反射する。
中心には三日月状の俺の口が写っている。
俺の顔は思ってたほど悪くない。
引きつってもいなければ、緩んでいるわけでもない。
最良とは言えないまでも、悲観するものではない。
そんな呑気なことが頭をよぎったのは、錦山の目に素直に関心してしまったからだ。
俺の目でも、課長の目でも、他の誰の目でもない。ましてやドールの虚ろな目とはわけが違う。
生きた目がそこにはあった。
もう少しよく見ていたいなんて下世話な感情が浮かびそうになるが、それよりも錦山の勝利を許せばこの目は東の海に消えてしまうのだと思うとどうにも物悲しく思えてくる。
イーストウェークで死んだとて蘇生は出来る。
しかし、目覚める体は日本で作り直された全く新しいものになる。新しい体には積み重なった僅かな傷や焼き付いた情景など消えてしまっているだろう。
たった今感じたものを生まれ変わった目にも見出すことができるだろうか。
きっと、難しいにちがいない。
失っていいものじゃない。
守れるのは俺だけなのだ。
もう幾ばくかで錦山の間合いに入る。
俺の腕はまだ届かない。
錦山を行かせてはいけない。俺は不動の壁にならねばならぬ。
錦山の少し照りつく髪の光が、鷹揚にして後ろへ流れてゆく。
俺の右手からぬるりと顔を出したシイラが、そそくさと消えた。
窓の外には変わらぬ街並みが鎮座して、会議室の誰もが蝋人形のように固まっている。
後ろに流れるはずの左足は彼の体の真下で静止する。
始まる。
大丈夫俺は笑えているのだから。
右足が振り子のように差し迫る
『ッカッタッッァァン!!!』
左足に並ぶと地面へ撃ち込まれた。
扁平な靴底に叩かれて、逃げることさえできなかった空気が爆ぜる。
耳が痛くなるほどではない少し大きな音。
それでも無数の棘が飛び散るようで、全身にチクチクと刺さる。
空気が変わる。
新佐のような重厚さはなく、軽く柔らかいものがあたりを包む。
一瞬の凪。唐突に風は止み、波が消える。
太陽に照らされた暑さとは違い、万物から放射される赤外線が人割と肌を温めるような感覚。
目の前には、柱が立っている。
何をしようとびくともしないだろう、強靭な一本の垂直な線。
地中の奥深くまで打ち込まれ、その一端が見えているのだと錯覚する。
しかし確かに有機的で、突っ張ったジャケットの袖の皺は、不規則ながらも流れを有している。
ニンゲンとはこんなだっただろうか。
そんな意味不明に浮かんだ疑問を解消するように、胸が膨らみ鼻は上がる。
表情は変わっていないはずなのに、ほんの少し顔の角度が変わるだけで口元の曲線は深みを増す。
瞳の平行線の均衡が崩れ、瞼にかかった深く濃い影が階調へ線は面へと変化する。
無機物じみた形相が人間のものに変化するのが、不可思議な浮遊感を作った。
角度が作った無表情のほほ笑みは、好感を思わせる暖かさを含みながらも、どこか蔑むような冷徹さを併せ持っている。
満を持して、唇が割れる。
中心に開いた穴が左右に広がり、遅れた肉が引き剥がされてゆく様子は水のそれ。
確かに水分を含んだ、地球の生物であることを思い起こさせる。
「どうも。」
たった3文字足らずの発声に、脊椎のなかの神経が震え、駆け上ってくる。
始まりの濁音が重く腹の底に沈んだと思えば、終わりのくぐもった音が強張った首筋を優しく撫でる。
緊張と緩和。
衝撃と優和。
そこには解放があった。
どこまでも続きそうな余韻が心地よく思えるが、弄ばれている自我が転がっている。
手足の感覚が消え去っていた。
音の波に漂うクラゲのごとく、ふわふわと浮遊する。
俺はただこの空間に留め置かれている意識しか存在していないのではと思われた。
「こん」
小突くような音の波が、現実へ引き戻すようにノックした。
硬質な音は脳に頭蓋骨の存在を思い起こさせた。
そして肉体があることを理解する。
それはひどく冷酷で悲しいことに思われた。
肉体は牢獄なのだと俺の意識は理解した。
「にちは。」
ドロドロと渦巻く意識に、さらなる音が放り込まれる。
底からねっとりと這い上がって来た音は窮屈に窄まり、胸に刃を突き立てる。
知覚出来る速さで刃が表皮を破るのが分かった。そしてそのままじわじわと押し込まれる。
続いた3文字が肉体に捕らわれた意識の奥まで傷口を広げる。
その刃は杭となり、俺の体を固定する。
両腕を広げて佇む姿は、ひとりでに十字架に磔にされているようだ。
苦しい。
あまりに窮屈で息が詰まりそうだ。
これだけ大きな体を有していても、自由なんてどこにもない。
むしろ、肉の圧力が精神にのしかかるようで煩わしいとさえ思えてくる。
人間は蒸気機関のようなものだ。
欲望が心を沸騰させ体の中に充満してゆく、どうしようもなく高まった圧力は逃げ場を求めて四肢というシリンダを突き動かすのだ。
際限なく湧き出す欲望は、常に圧力を生み出し続ける。
動き続けていた肉体が止まった今、破裂してしまいそうな俺は解放を求める。
救いがどこかにないのかと、見えない何かにすがろうとしている。
そんなもどかしさを体現するように、視界に影が落ちてきた。
気が付けば、錦山の背後に彼の礼影が立っている。
鷹の頭をしたデカくて大きな巨人。
振り上げた両腕の翼が、俺を光の熱から遮っている。
柔らかそうな羽毛が、俺の膨張を宥めようと親身に寄り添っている。
温かい優しさが交わる先には、冷たく鋭い刀が握られている。
剣先は天井まで伸びきって、きらりと光を反射させる。
不思議と恐怖はない。
そこにあるのは、求めていた解放なのだ。
俺が誇示し続けてきたこの肉体が、巨人の一振りで無意味な物質へと変わるだろう。
でも寂しさも口惜しさも感じることはない。
あの刀が落ちた時、ようやく俺は真の自由を手に入れるのだ。
煌々と輝く鷹の目は、鋭く俺を見つめている。
痛いほどに刺さる視線、確実に俺を屠ると語っている。
敵意とは思えない。これは慈愛に満ちた眼差しなのだ。
始まりを告げるように錦山の髪の輝きが変化する。
落ちてくる刀身は、眉間を通り、嘴の頂点を超えて錦山の直線をなぞる。
刀を隔てて、視界が割れる。
世界が割れて、肉体が割れた。
心が洗われ、真っ新になる。
過去を引きずり続け、満たされないと欲求が這いまわる体は、既に苦悩と陰鬱でいっぱいだったのだ。
どれだけかき集めて摂取しようと欲望が満足出来るほどの容量などどこにもなかった。
この体は小さい。それが初めて分かった気がする。
これまでの人生はなんだったのだろう。
ひたすら自分を誇示し、行き場のない思いをぶつけて回る。そんな物悲しい生き物であった。
肉体がある以上、過大な望みを持つべきではなかった。
年を追うごとに薄れて行くドールへの執着は、きっと心の奥底で満足し得ないことを理解していたからかもしれない。
自己に帰結する欲求は最終的に何も残さない。
俺は内面にばかり気を取られすぎていた。
内側に向いた行動は、周りへの影響があっても良い事なんてひとつもない。あるとすれば迷惑という悪影響だけだろう。
俺は他者にもっと関心を向けるべきだったかもしれない。
関心を寄せられたいと自身への欲求を押し付けていただけなのかもしれない。
承認なんて自分から求めるものでは無かった。
振り返ればつねに、栄誉は作るものでは無く、他者から与えられるものだった。
自由を知ったのなら、こんな事はもうやめよう。
自由があるのなら、外を向いてみようじゃないか。
社会的動物として最後に残るのは、他者への慈愛なのかもしれない。
他人、家族、会社、コミュニティ、地域、国、世界。
対象なんて今更どれにしたらいいかなんて分からないが、今向かい合えるのは錦山ただ一人。
俺がここに居るのは錦山を救うためではなかっただろうか。
そうだ。そのはずだ。
この真新しい精神でもって、錦山の救済を第一歩としなくてはいけない。
呆けているわけには行かない。
奴を救うために、奴を潰さなくては。
真ん中に走る刀の直線の向こうには、昇りゆく頭部が見える。
目はまたも下弦を描き、こちらを睨む。
再び柱に戻ると鷹巨人は霧散するように消えていた。
はっきり言って、勝敗は付いた。
ここから俺が勝てるなんて考えも無い。
それでも俺にはやらねばならないことがある。
社会人としての矜持などもうどこにもない。
誰かに認められたいなんて思わない。
ましてやコンペ主任なんて仕事はもうどうでもいい。
ただ、お前のために。お前を止めるためだけにこの力を振るおうぞ。
根を張り苔むした足に意識を集中すると確かにそこにある。
俺の足。俺の体。
広げた腕にも血が通っているのが分かる。
この体のことならなんでも知ってる。
ふにふにとして頼りない頃もあった。
鎧を纏うように肥大化してゆく筋肉が嬉しかった。
浮き上がってゆく太い血管が生きているのだと実感させてくれた。
近頃は水分が飛んだみたいに少し陰影が出てきたのも知っている。
なぜ思うとおりにいかないのかと恨めしいと思ったこともあったが、客観的な強靭さを誉に感じたことのが多かった。
常に俺と共に俺を支えた、親愛という言葉では語り切れないこのカラダという盟友を、俺はイーストウェークに捨て去ろうとしている。
ごめんな。
生まれてこの方、いつも頼ってばかりであった。どんな無茶な命令にだって従ってくれた。
俺の意識が、最後の最後まで最も信頼を置けるのは、己の肉体以外にはないのだ。
付き合わせて悪いが、お前にしか頼めないんだ。
だって、俺には友人が少ないからな。
ピクリと脈動が呼応する。
消失する可能性も、苦し紛れに張った見栄も、身勝手さも、不安も、恐怖も、後悔も奮起も興奮も期待も愛も、すべてを飲み込み。
ただ、「相分かった」とそう言うのだ。
愛してるぞ。まったく。
俺の返事を待つこともなく、40兆個もの細胞が一斉に沸き立つ。
個々が、バラバラになりそうなほど、硬く強く、熱くなる。
焼け死んでしまいそうだと愉快に思える。
なだらかな面を見せていた肌が、勇猛な大地のように盛り上がり、緑色の根が先へ先へとのびてゆく。
喜んでいるかのような起伏の上にふつふつと芽吹くか細い柔毛が空を求めて立ち上がる。
今。私のカラダは荘厳なる大地となった。
どんな暴雨も雷撃をも受け入れて、広大な自然は恵みを約束する。
指の先まで余すところ無く満ちた生命の息吹が土の四肢を突き動かす。
浮き上がった足は、空間を隔てても地面と繋がっていると感じられる。
踏み下ろして再会を果たしても、もとよりこの状態であったというように何食わぬ顔をしている。
地面がぬるりと移動する。背後に潜む何か大きな怪物に飲み込まれて、後ろへと消えてゆく。
広げたままだった二本の地脈がすべてを押しつぶさんと前へと滑る。
相反した左右からの流れは、割れたはずのカラダが縫い合わせる。
円弧を描く軌道はそのまま中央で衝突し、新たな山脈を築くかと思われたが緩衝を受ける。
土の腕はこれ以上動くことをやめた。
ここが自らがいるべき場所だと、錦山の肩に5本の根を下ろす。
下に見える錦山の顔が黒く染まる。
地面も、俺の腕も、目に見えるものすべてに与えられるはずの光を飲み込む、黒い獣が俺の背後から覗き込んでいた。
刺々しい剛毛を纏った獣の大腕が降下して、俺の伸びた腕に重なる。
舌を押し下げて、空気が空っぽのカラダに満ちていく。
体はさらに空気を求め膨らんで、顔を否応なしに上に向ける。
見上げた礼影はずんぐりとしていて、丸い下顎からぬらぬらとした涎が糸を引いている。
コイツと会うのも最後かもしれない。
どんな表情をしているのか、ふと気になった。
感情を映しているはずの目は見えないが、それがかえってこの極挨が終わるのを惜しんでいるようにも見えてくる。
勇猛さを体現したはずの熊の礼影が、愛おしく可愛らしいと思える。
別れを言うつもりはない。
気道の末端はすでに暴発の臨界を迎えようとしている。
詰まる思いは、内圧の詰まりで物理的に上書きされる。
苦しみを押し殺し、頭蓋を擡げて錦山を見据える。
瞼は限界まで引きあがり、伸びる視線が彼の眉間へつながる。
こめかみが一段外にずれて、口が開く。
震えている。
地続きの錦山の肩がわずかに振動している。
目を閉じて、奥歯を噛み締め。来る痛痒に備えている。
当然だろう。
出のはこれまでで間違いなく大きな一撃。
ごめんな。
ブルブルと震える横隔膜が、五臓六腑を巻き込んで押しあがる。
封鎖された喉奥が空気の暴徒に押しのけられ決壊した。
「「「!!!!!!ッッッォオ」」」
時間が止まる。
時空が凍る。
音も空間も、この場のすべてが止まっている。
そして、震えるはずの発声器官すら、その小さな往復をやめている。
これが錯覚であることを教えるのは、錦山の小さな震えであった。
そして脳内に響く無機質な声。
『外傷に至る攻撃行動と判定。予定された挙動を強制的にキャンセルします。』
「ふっ」
溜めていた空気が思わず漏れ出た。
「っふッハッハッハッハッハ!」
笑わずにいられようか。
あまりにも馬鹿げている。
これほどバカバカしいのは人生でもう二度とないだろう。
あれだけ気張って、あれだけ苦悶した結果が不発だなんて趣味が悪いにも程がある。
これまでの人生すべてで培い、悩んで、練り上げた極挨が、こんなつまらないメッセージ一つにかき消される。
「はっはっはっ、あーあ。」
なんだこれは。
スサノオが、アルゴリズム1つで俺の人生を吐き捨て踏みにじる。
これほど惨めなことがあるだろうか。
こんな寂しいことがあっていいのだろうか。
しかし、昔からずっとそういう社会であったな。
分け隔てなく与えられる安心が、これほどまでに痛いとは。
おっさんと呼ばれるまで生きてきたのに、初めて理解した。
そしてこれほど時間がたったのに、俺は同じ過ちを繰り返す。
成長などしていなかったのだ。変わってなんかいなかったのだ。
夢でも見ていたのだろうか。
俺はずっと何かを成し遂げられる人間だと思い込んでいた。
自分は特別で優れていて、最終的にはすべていいように転がると上っ面の目に見える根拠だけで信じていたのだ。
大馬鹿ではないか。
今までずっと。そしてこれから先もきっと。
どれだけ、ポイントを稼ごうとも俺は矮小な人間に過ぎないのだ。
錦山の極挨を受けて強いと思った。ナム課長と新佐を見て、勝てないと思った。
上にはもっとすごい人たちがわんさかといるだろう。
とどのつまり、どんな人間もスサノオの手のひらで転げまわっているだけじゃないか。
違いなんてどこにある?
俺が下してきた奴らと俺になんの違いがあるというのだ。
目糞鼻糞を笑うだったか?
いや、どんぐりの背比べと言った方が上品だな。
兎角、なんとくだらない世界だろうか。
目の前の錦山は理解しているのだろうか。
「はぁ。」
溜息を聞いた錦山が恐る恐る瞼を開いた。
そしてゆっくりとこちらを見上げてくる。
奇しくもこの距離は、新歓で初めて会った時と同じだ。
あの頃の誰構わず刃を向けるような刺々しさは消え失せ、まっすぐ俺だけに刃先を正確に添えている。
荒々しく叩き切ろうという気概は、うやうやしく丁寧な気迫に変わっていた。
成長と言っていいのだろうか。
しかしどれだけ行こうと社会の掌からは出られず、ミクロな争いを世界のすべてと思い込むしかないというのに。
生物のムラのある表面が生む不均一に乱れた光が灯る目。
その光の数だけ多様な希望を抱いた目。
いつか彼も俺のように理解する時が訪れる。その時振り返って同じ目をしていられるというのだろうか。
これから先、どんなものを見て何を思うのだろうか。
きっと、美しいものをいくつも見るだろう。しかしそれと同じくらい絶望も目にすることになる。
そしてそれはどんな幸福よりも深く網膜に焼きついてしまう。
それでもお前は俺を見るのか?
反射する無数の光が俺をかたどっている。
望みも行く末も可能性もすべてを押さえつけるように俺が写る。
俺はコイツの邪魔者でしかない。
揺らめく炎のように波打つ虹彩は、黒々とした水晶体の深い穴に向かっている。
思いのすべてが際限なく深淵の底に溜め込まれているのだろう。
本当に人のためを思うなら、望む道を進ませるのが良心ってものなのかもしれない。
この短時間で、また俺は自分本位な願いで行動してしまったようだ。
「どうしても。行くんだな。」
瞳孔がわずかに開いたのが見えた。
奥底から、妹への執念が這い出てきたように思えた。
「はい。」
ならば止めまい。
俺を超え、海を越えて、望むものを見てくるがいい。
世界の明るさも暗さも全部焼き付けて、この狭い世界をもその深淵に収めることを願う。
肩に突き立てた硬い指が氷解して、彼の背中を滑っていった。
何かを叩き潰すことしかしてこなかったこの腕が、誰かを壊さないように包んでいる。
俺より小さくて細い体。
流線的な柔らかさの中に含まれた熱が確かに伝わってくる。
緊張からか、少し強張っているのが生きていることを実感させる。
放してやると錦山は抱き留められた時のまま、小首をかしげて固まっていた。
「アホ面だな。」
異なる光り方をするまん丸なお目目。
しかしどちらも中央には、泣いてんだか笑ってんだかよく分からないおっさんがいた。




