第15話 変わらぬ朝は喜ばしくもあり少し残念でもある
瞼の裏が赤く染まる。
目を開ければ灰色の天井に東からの長い光。
ふう。
夏至は過ぎたが、朝が早い。
でも、悪くない。
地上に住む特権を感じられるこの瞬間は、いつも意識を鮮明にしてくれる。
開ききらない目にワイヤーグラスをかけると世界が色付く。
大艦との約束の朝。
待ちわびた朝。
洗面台へ向かい冷たい水を顔に当てて、口をゆすぐと、血管が引き締まる。
さて行くか。
外はずっしりと重く、冷えた空気に浸食されている。
体に染み入ってくる感覚を振り払い、足を早めてゆく。
晴天。
今日は暑くなるだろう。
この時間でも、街には人がいる。
もう出てきたのか、あるいは帰っていないのか。
ガラス張りの通路の下には車が行き交う。
空には無人機とタクシーが入り混じる。
輸送機の甲高い音の合間に聞こえるのは、水の流れる音。
壁面塗料の生成物を集積する側溝のせせらぎからは、独特な発酵しているような匂いがする。
昨日オレンジ色だったビルが、今日は緑。
一番大きい空中広告が、RVRゲームから多幸剤入りのカートリッジに。
駆け抜ける街は日ごとに違う景色だが、その本質はいつもと何ら変わりはない。
15分のタイマーが鳴った。
じっとりと尻に汗をかいてきていい頃合い。元来た道を引き返す。
僅かに人が増えてきた。
犬の散歩をしている夫婦。追尾モードなのにあのはしゃぎぶりは、人が少ないのを良いことにパラメータを上げているのだろう。
緑のビルは青に変わり、広告はRVRへ戻っている。
定期散水の前には戻ってこられた。
鏡の前に立ち自分の姿を見て、新歓を思い出す。
大艦に比べて細く、低い体。じっとりと張り付く汗に溶けてしまいそうな頼りなさ。
あの時見た彼は、決して動かすことのできない巨木に見えた。
師匠に薫陶を受けた今。決して相手を侮ることなどない。
勝敗が決するその瞬間まで、相手と自分は対等。
立ち合った次点で、貴賎なし。
ただ、もし自分が劣っていると思ってしまったのなら。それは対等といえるのだろうか。
それでも対等と言い張るなら、自分に合わせて相手をも下げてしまう恥じるべき行為だ。
昨日は丸一日使って、大艦を調べ上げた。
来歴から、対戦履歴、噂話に至るまで。
目立った肩書は無いものの、実力に疑う余地はない。
学生時代は野良試合ばかりで成績は芳しくなかった。
社会人になり、最底辺の第26次子会社からのし上がってきた剛腕。
同格以下に負けなし。
ロリコンだとか、無差別恐喝テロリストだとか、悪い噂もあるが、派手な生活をしている様子は無い。
ポイントが増えることを目的とする人もそれなりにいる。彼もその口なのだろう。
簡潔に言えば、向上心の塊。
地位を上げることのみを目的として社会人をやっているように思える。
こういった類は、とてつもなく強い。
立ち合いそのものを目的としている人間は、趣味嗜好に重きを置く社会人とは腰の入り方がまるで違う。
これまで建前上の付き合いだけで、顔を合わせることは稀だった。
たった一日で今までの関係性を凌駕して、もはや親友と呼べそうな心持ちになっていた。
だからこそ、今となっては素直に彼はすごいと思える。
師匠の受け売りだが、相手を尊敬するところから始めなくてはいけない。
別に大艦を侮っていたわけではない。
それでも、これまでの成績や脅威に至るまでの空気が、根拠のない自信となって、なんとなく勝てると思い込んでいた。
それが瓦解してしまった。
相手を知って尊敬の念を持つ。それが相対的に不安を産むものだとは思わなかった。
相手は強い。であればこれまで通りで勝てるだろうか。
どうすれば下せるだろうか。
タイミングは?声量は?角度、視線に表情は最高と呼べるものだろうか。
もしかしたら天気だって関係してくるかもしれない。
本当に勝てるだろうか。
もしかしたら負けるかもしれない。
小さな不安は雪だるま式に大きくなる。
ふわふわとしたいくつもの”もし”がどんどん巻き込まれ、歪で硬く、重くなってゆく。
いけない兆候。
考えを止めろ。
形だけでもお辞儀の素振りを始める。
内ももから尻、背筋を引き締めて精神を研ぎ澄ます。
首を固めて腰を折れば、鼻が空気を切り裂く。
次第に、集中は高みりいつしか無心になれる。
願わくば、すべての不安が頭から飛んで行ってしまえ。
日課が終わったら、濡れた衣服を返却シュートに投げ込んでシャワーを浴びる。
立ち合い前に過度なトレーニングはご法度。
昨夜の残りの米と味噌汁を温めて少し水と味噌を足す。
卵巣漬けと一緒に届いた塩辛を一口。
天然ものの強烈な海の匂いがたまらない。
万人受けするよう作られた合成イカでは味わえない。
米をかき込み、味噌汁を流し込む。
うーん。
ちょっと待て。こんなはずじゃなかった。茶だ。茶が欲しい。
塩辛と味噌汁は分けた方がいいかもしれない。
味噌汁に入れたチキンミートの油と壊滅的に相性が悪い。
味噌汁も魚介系に統一すべきだった。
どうせなら天然イカをオーダーして、イカ御膳と洒落こむのも悪くない。
今の時期ならスルメが出回っているはずだ。
幼いころはなぜリスクがあるのに天然の魚介をわざわざ食べるのか不思議だったが、だんだんと分かってきた気がする。
鳥や豚なんかと違って、一般流通しているから多種多様で面白い。
昔一度は天然物を禁止されたらしいが、その辺で勝手に獲って来てしまい、警備コストが増加。医療コストと死亡による損失がはるかに低いと判断され撤回された。
数少ないAIの判断を覆させた一例として有名だ。
さすがは我らが先祖。食い意地が張っている。
食べながらニュースをチェックする。
だが、また今日もこれと言って興味が湧くものは無し。
やれ、どこぞのおじいちゃんが将棋大会優勝後の特別マッチでスサノオにボロ負けだとか。
北米の有名人が突如失踪したとか。
アフリカのナントカって地域で出生率が18%超えたとか。
クソほどどうでもいい。
どれもこれも、自分の生活圏から離れた出来事で、へーとしか感想が出てこない。
いつもニュースを目にするときは、何か自分を巻き込むような劇的な何かを期待している側面があるが、もう一方では何もない平穏を願ってもいる。
それでも、閲覧を終えると少し残念な気持ちになるのは不思議だ。
食器をシンクに置いて、いつも通りのスーツ着替えいると通気口からカブトムシみたいなロボットが何匹も入ってきた。
そしてそそくさと食器を掃除し始める。何匹かはシャワー室に向かっている。
見るたび、本能的に気持ち悪いと思ってしまう。
カブトムシは好きだ。かっこいい。でも床を這いずるクロビカリ達はどうにも好かない。
極めて衛生的なのは理解している。
街の清潔もコイツらのおかげだが、道路を掃除した個体が自分の食器を洗っていると思うと、どうにもいい気持がしない。
だからといって専属の家政婦ドールを買うことは無い。
ここは仮住まいで、適度に居心地が悪くなくてはいけない。
居着いてはいけないのだ。
一刻も早く、イーストウェークベースへ向かい、父の後を追わなくてはいけない。
そして妹を救わねばならない。
状況は分からない。
生きているのか、死んでいるのか。
そもそも今でもに救いを求めているのかすら。
本当は単に自分の好奇心をヒロイックに肯定しているだけかもしれない。
そんなバカな考えをしたこともあるが、自分にとって最大の、文字通り人生を変えた大事件。
デイリーニュースからは決して得られない、誰も持ちえない、俺だけの人生の動機を既に持っている。
僅かに残った玉露を煽って、歯磨きキャンディを口に入れて。
ジェルで髪を撫でつける。
いつも通りの朝。でも、きっと今日ですべてが変わる。
変えるのだ。
細く赤いネクタイの結び目を引き上げれば、鏡にはいつもの自分が映る。
「さて、行こうか。」
扉からの光が、湯飲みに止まった掃除ロボットを照らす。
その光沢は、黒く鈍い。
設定が破綻するため大艦と新佐は42歳になりました。すみません。
ノリで2345年とかで始めましたが、年数設定が非常に重要になる構想なのでちゃんとしらふで読み直してから出すことにします。ごめんなさい。




