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第12話 風が強くば、ワルツを踊れ

ふわりと舞う袖。

透けたチョゴリの大ぶりな袖は、大きく回した腕により、翼のようだ。


回ってきた細く白い手は、みぞおちの前で重なる。

コンスと呼ばれる韓国式のお辞儀の構え。


カンッ。

ナム課長の足が止まった。

既に俺の斜め前。新佐までは6mくらいだろうか。


新佐をまっすぐに見据えた。


「パンガプスムニダ」


丁寧な発音。抑揚がない。

横一線になった細い上唇の下には綺麗な白い歯が並ぶ。

暖かいいはずの笑みは、ひどく寒い。


それは上半分。

下半円の瞳が何者へも安らぎを許さない。


そして世界が凍る。

白い霧に。白い息。

床からは冷気の靄が立ち上る。


キラキラと輝くダイヤモンドダストの中から現れた。

大きく翼を広げ舞う、タンチョウ。

高く掲げた頭頂の赤は、希望に満ちた太陽に見えた。


広げた翼を前へと扇ぐと、冷気も靄もすべて新佐へ吹き付ける。


暴風が止むと、晴れ晴れとした中の凛とした立ち姿。

氷の女王の刹那の慈悲。

人はこれに神々しさすら覚えるだろう。


吹き付ける風は新佐を止めなかった。

当たり前だ。冷風はエフェクトでしかない。


眉間に深く、深く皺が寄る。

大きく張った胸が僅かに痙攣している。

寒さに悶えているのだろうか。

そんな風にも思えるほど、課長の幻影は心を冷やす。


だが新佐の様子は、何かが違う。

全身に力をこめた姿には、圧倒的な暴力の気配がする。


もしや俺と同じ空嚥系を納めているのか?


たとえ流派が分かっていても、極挨は本人の経験と創意工夫によって大きく変わる。

俺だってそうやってのし上がってきた。


カパン。カパン。


ナム課長の極挨を受けて新佐の歩き方が変わる。

足裏全面で踏みつけるような重い踏み込み。

前へ入れ込んだ肩は丸く硬い。

今にも背中からミチミチと張り詰める音が聞こえそうだった。

大波が形を変えず、押し寄せるように、実体を持った重圧が迫る。

自由市民なら硬直するだろう。

失禁する奴もいるかもしれない。


しかし、それは長くは続かなかった。

たった3歩。

岩にも似た驚異的な剛健は幻だったのだろうか。そんな僅かな時間だったが、俺の心臓はドクドクと流速を速めたままだ。


唐突に背筋を伸ばす。そこに力みは感じられない。

緊張による強張りも、眼前の敵を打ち払う意志の強さも、そこにはない。

ただ、綺麗な立ち姿の男が一人。


「俺は高みを知っている」

ぼそりとつぶやくと、男は再びゆっくりと上を向く。

己が指針が間違いでないと、北極星を求めるように。


そして、またしても幻を見た。


先ほどまであった頭が消えていたのだ。


見つけたのは、はるか下。

腰を折り深々と下げた頭。


そして背後には、巨大な日本画の蛸。

知っている。

これは北斎の春画の大蛸。


驚きで見開いた目がヒリついた。

視認した直後に吹き荒れる暴風。

エフェクトなどではない。ホンモノの物理的風圧。

思わず閉じて、背けてしまう。


「こんにちはッ!!!!」


暴風に混じって聞こえる挨拶の啖呵。


驚愕と畏怖が骨の髄に染み渡る。

なんだこれはなんだこれは、なんなんだ一体。

乾いた眼球が求めたのは、救いか結末か。

眼差しは、ナム課長を探していた。


涙が滲んだ眼球が捕えた人影。

そこにあったのは、首元の重ねた左手に額を隠した女。

表情はまるで見えない。

だがその心はありありと伝わってくる。


ただ速いだけの礼など見る価値もない。

神速のお辞儀など児戯。


そう、一蹴する姿。


肝が据わっているなんてもんじゃない。

元より冷え切った肝を地面に突き刺して杭としているのかもしれない。


それでも、物理的風圧の暴力は、精神的強さなど関係なく襲い来る。

課長の袖をはためかせるだけに留まらない。

後方へ引きづりこもうと、暴れて飛び回る。


ロングスカートは足の形を露わにして、大きな歪を生む。

じりじりと下がる左足は、実力の差を表しているようだ。

しっかりとした布地の上からでも乳房のハリがはっきりと現れる。


後ろで「うはぁ…」なんて聞こえた気がした。


右足が動いた。

後ろではなく前へ。

左の膝を少し屈めて、スカートをピンと張った。


一見、縦に揃えた帆は、僅かにズレて斜めに風を含む。体が横に逸れてゆく。

すぐさま左足を前へ出す。

左右に揺れ、翻弄される体。ムリもない。


しかし、幻じみた現実を見た。

課長は進んでいる。揺れながらもなお前へ。

ありえないだろ。

向かい風の中、煽られながらも前に進むなど物理法則に反している。


直情的な意識はこの現実を受け入れられない。

だが脳は知っている。知識として向かい風で前進するヨットの原理。


斜めの帆は、表と裏の気圧差から揚力を産む。横の力こそ大きいが、僅かな分力は前を示す。

ゆらりゆらりと揺れる姿。


それは。いつもの、課長そのものだ。

膝を使った、柔らかくも確かな足さばきは、ワルツを踊る可憐な乙女。


はっきり、言おう。

新佐は第2次子会社の名に恥じない、剛力であったと。


それでもだ。

それでも課長は負けてない。

決して、俺たちは負けてなぞいない。


風にもまれながらも進む課長の姿は、敗北を認める事を許さない。

この薫陶を受けて、折れることができようか。


風は止む。

いつもの白い廊下。

俺の荒い呼吸と隣から乱れた吐息。


遊ぶような長い黒髪の合間には、目も口も横一線の笑み。


一足の合間で向かい合う両者。新佐の肩眉がピクリと歪む。


次回、商談。

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