第11話 波に乗るなら目線は遠くに
立ち止まる。
新佐のツンと上がった顎。
その目の焦点はナム課長にはない。
廊下の向こう。ビルを超えて。黒い世界を超えて。水平線の彼方。
肩ごと大きく回した首は、次第に中心へ揺れを収束させた。
少し俯いたかと思えば、方向はナム課長の顔の下。
まさか、こいつおっぱいを見ているのでは無かろうか。
いいや、この期に及んでそんな不埒な男ではない。
目ははっきりと開き、瞼に力が入っているのが見て取れる。
この眼力は、真皮も脂肪もことごとく貫き、心根を見ているのだ。
己が敵と認め、内なるものを見んとする漢の動き。
それは、まだ終わりではない。
再び体を前へと傾けると、連れ立ったように足が床を擦る。
全くブレない頭蓋は、空中を滑るかごとく進んでゆく。
先ほどまでとは、気配が違う。
僅かに波打つ桟橋を歩くかのような軽快さを持ち合わせていたはずなのに、今は打って変わって、大波に揺れる船を歩く。
片時も床を離れない両足。
のっぺりとした歩みには、微塵の隙も見出せない。
「苛烈な美少女の次は、妖艶な美女と立ち合いとは、嬉しいのか苦しいのか…」
どこか遠くでそんな声が聞こえた。
そんなこと考えなくても、どこかなんて分かりきっている。新佐だ。
児戯のごとき馬鹿げた意趣返し。
おべんちゃらにもセンスというものがある。お世辞にも良いとは到底言えない。
しかし、効果はてきめんだった。
雪のように白い頬に陽光が宿る。
キュッと結んだ口が開いたと思えば、「まあ、フフフ」なんて真に受けてやがる。
先ほどまでの冷たく硬い威厳はどこに行った。
あまりに唐突で不可解。
早急に脳内でAIコンシェルジュに解析を行わせると回答はすぐに展開された。
端的に言えば、ナム課長にお世辞がクリーンヒットした。ただそれだけ。
ひとつ、ナム課長が若作りに陳腐しているのを自覚しており、それを褒められるのが嬉しい事
ひとつ、若い女と比較されて発現にリアリティがあったこと。
要約すればそんなところだが、漏れ出た本心のように即座に出した反撃としてこれほど上手いカウンターは、俺にはとてもじゃないができるとは思えない。
ほぉと声が出てしまいそうなくらい関心している合間も歩みは再開していた。
心なしか、ナム課長の足取りは軽くなった。
カンッという、突き刺すはずの踵は、しなやかな膝の動きで丸くなる。
ほだされたのではなかろうか。
誰もがそう思うだろう。
でも俺は知っている。
踵から消えた重きは、踏み込むためにつま先に移ったのを。
膝のたわみは切り込みのために込めた力の表れだと。
射程が近い。完全な予備動作であることを。
そう分かっていてもなお、ただ世辞に浮かれポンチの女にしか見えない。
変わらない、4分の3拍子は浮足立ったスキップに思えてくる。
その虚実の裏では虎視眈々と獲物を見据えて、飛び掛からんと力を蓄える。
冷たい、女。
韓国にはトッケビという妖怪がいるらしい。
人を騙し、いたずらを好む。鬼とも妖精とも言われるような実像の無い伝承の存在。
もし、実在するのならこの女のような姿かもしれない。
揺れていた肩はいつしかその下のみに揺れを残す。
今なら頭にボトルを乗せても落ちなさそうだ。
甲高い音が消えたことにより、のっぺりした足音が聞こえるようになった。
なおも足の裏で弧を描いて、床へ全面を張り付けるような歩き方の新佐の頭が傾いた。
と思えば、ゴキリと関節の音。
そして、反対へ顎先が振れて、ゴキリ。
顎が中心へ戻っても、なおその位置は高い。
見下すような視線。上を向いた額。
予備動作と思った方が自然かもしれない。
仰け反るような姿勢は、まるで上段の構え。
一刀を振り下ろす事だけを考えているに違いない。
新佐は居合系ではないはずだ。
あれはそうそう出くわす流派じゃない。錦山くらいなもんだ。
だがそこには、一点集中した漢の気概がある。
なんだよ。かっけえじゃないの。
ここにきてから、長い時間が経ったような気がするせいか、気が緩んできた。
相手を褒めるくらいの余裕はある。
じっくり見せてもらおうじゃないの。
なんて、思ったのもつかの間。
先に仕掛けたのは課長だった。
1か月も空いてしまいました。すみません。
次回決着です。




