コリン:鳥が教えてくれたもの
朝、薄いカーテンの隙間から差し込む光で、ゆっくりと目が覚めた。
見慣れない木目の天井をぼんやり眺める。
昨日泊まった宿の一室。
小さな部屋だが、寝るには十分だった。
静かに息を吐いて体を起こし、窓の外を覗いて見ると、人の話し声や荷車の軋む音が聞こえてきた。
もう市場は始まっているらしい。
「……朝か」
小さく呟き、ベッドから足を下ろす。
ぐっすり眠れた。
……とは言えない。
夜中に何度か目が覚めた気がする。
夢を見たような気もするが、内容までは覚えていなかった。
ただ、胸の奥に引っかかったあの妙な感覚だけは、まだ少し残っている。
昨日の焼き菓子屋での出来事が、ふと頭をよぎる。
あの、濃い桃色の髪。そして、妙にまっすぐな瞳。
「……」
小さく息を吐く
無意識に眉が寄る。
まただ。
昨日ほど胸はざわつかない。
頭から離れないほどでもない。
それでも、思い出してしまう自分が少しだけ鬱陶しかった。
「……もういい」
小さく息を吐いて首を振る。
考えたって分からない。
続きを聞いていない以上、答えなんて出ない。
それに、もう会うこともない。
そう自分に言い聞かせると、不思議と昨日ほど胸はざわつかなかった。
まだ少し引っ掛かってはいる。
けれど、その程度だ。
時間が経てば、そのうち忘れる。
そういうものだろう。
立ち上がって窓を開ける。
朝の涼しい風が部屋へ流れ込み、木々の匂いを運んできた。
思わず目を細める。
通りでは旅人が荷物をまとめ、商人が店を開く準備をしている。
今日も、この町はいつも通り動き出していた。
「……さて」
荷物へ視線を向ける。
この町に長居する理由はない。
次はどこへ向かうか。
森を抜けるか。
別の町へ行くか。
それとも、しばらく人の少ない場所で過ごすか。
頭の中で地図を思い浮かべながら、コリンは静かに今日の行き先を考え始めた。
荷物を肩へ掛け、部屋を出る。
木の階段を降りるたび、ぎし、ぎし、と古い板が小さく鳴いた。
一階へ降りると、宿の主人が帳場で帳簿を広げていた。
白髪交じりの主人は顔を上げると、コリンに気づいて穏やかに笑う。
「お、もう出発かい?」
「……はい」
短く返事をする。
主人は「そうか」と頷き、帳簿を閉じた。
「朝飯は食べていかなくてよかったのか?」
「大丈夫」
コリンは首を横に振る。
「どこかで適当に食べます」
「そうかそうか」
主人は無理に引き止めることはせず、柔らかく笑った。
「この町の市場は朝から賑やかだからな。うまい店も多い。腹が減ったら寄ってみるといい」
「……ありがとうございます」
少しだけ間を置いて礼を言う。
主人は「気をつけてな」と片手を軽く上げた。
「事情は聞かんが……あんたも、あんたなりに大変なんだろう。道中、気をつけるんだぞ」
その言葉にコリンは一瞬だけ目を伏せ、小さく頷く。
「……はい」
それだけ返して、宿の扉を押し開けた。
朝の光が差し込み、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
宿を出ると、朝の空気はまだ少しひんやりとしていた。
市場へ向かう人々とすれ違いながら、コリンは人通りの少ない道を選んで歩く。
賑やかな場所は嫌いじゃない。
ただ、人が多いほど余計な視線も増える。
だから自然と足は、路地や建物の陰へ向いてしまう。
角を曲がった先に、小さな花屋が見えた。
店先には色とりどりの花が並び、朝露をまとった花びらが陽の光を受けてきらきらと輝いている。
コリンは立ち止まった。
「……少しだけ」
誰に言うでもなく呟いて、花の並ぶ棚へ近づく。
赤いゼラニウム
白いカモミール
青いネモフィラ
どの花も朝の光を浴びて嬉しそうに揺れていた。
店主は奥で水やりをしている。
こちらには気づいていない。
コリンはそっと一輪のスミレを咲かせ下のほうへ視線を落とした。
「おはよう」
小さな声で話しかける。
風が吹く。
花々が、ふわりと揺れた。
《おはよう》
柔らかな声が返ってくる。
《今日はいい天気》
《朝のお水が冷たくて気持ちよかった》
《隣の子、昨日から蕾が開いたの》
花たちの声は、どれも穏やかだった。
人の言葉みたいに複雑ではない。
嬉しいことも、悲しいことも、そのまま伝えてくる。
コリンの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「そっか」
それだけ返すと、花たちはまた風に揺れた。
《今日は風が優しいね》
《鳥さんもいっぱい来るかな》
そんな他愛もない会話。
誰にも聞かれたくない、小さな時間だった。
店主がこちらへ振り向きそうになり、コリンは何事もなかったように一歩下がる。
花屋を離れ、再び歩き始めた。
少し進むと、石畳の脇に小さな雀が一羽降り立つ。
人が近づいても逃げる様子はない。
コリンは歩幅を緩めた。
「朝から元気だな」
雀が首を傾げる。
《パン屋さん》
短く鳴くような声が返ってきた。
《今日もいっぱい落ちる》
《丸いの、おいしい》
コリンは思わず小さく笑う。
「あんまり食べ過ぎるなよ」
《だいじょうぶ》
雀は胸を張るようにぴょんと跳ねた。
《今日は仲間も来る》
それだけ言うと、羽を広げて空へ飛び立っていく。
その姿を見送りながら、コリンは静かに息を吐いた。
「……やっぱり、お前たちと話してる方が楽だ」
人みたいに裏を読まなくていい。
気を遣わなくてもいい。
ただ思ったことを、そのまま返してくれる。
昔から、それだけは変わらなかった。
ふと足を止める。
視線の先には、大きく枝を広げた一本の木。
葉が風に揺れ、さらさらと音を立てる。
《今日は東の道が賑やかだよ》
木が静かに教えてくれる。
《旅人がたくさん通った》
《荷車もいっぱい》
コリンはその言葉を聞きながら、頭の中の地図を思い浮かべた。
東へ向かう旅人が多いということは、その先で何か催しでもあるのかもしれない。
あるいは商隊が動いているだけか。
「……どうしよう」
呟きながら空を見上げる。
急ぐ理由はない。
行き先は、まだ決めていない。
長居をするつもりもなかった。
人が集まれば、それだけ金目当ての連中と鉢合わせる可能性も増える。
面倒事になる前に、この町を離れるつもりだった。
朝の風が、フードの裾を優しく揺らした。
そのまま石畳の道を歩いていると、頭上から軽い羽音が聞こえた。
一羽の小さな雀が、ひらりとコリンのすぐ近くへ降り立つ。
「……お前か」
しゃがみ込むことはせず、小さく視線だけを向ける。
雀は石畳をぴょんぴょんと跳ねながら、小さく鳴いた。
《あっち、あっち》
「ん?」
《人がいっぱい》
《おもしろいの、やってる》
雀は翼をぱたぱた動かしながら、市場の広場の方へ首を向ける。
《みんな笑ってる》
《子ども、いっぱい》
「大道芸か」
雀は嬉しそうに何度も頷いた。
《そう、それ》
《犬も見てる》
《鳩も屋根から見てる》
「分かった」
短く返すと、雀は満足そうに空へ飛び立っていく。
コリンは小さく息を吐き、人の流れに紛れるように市場の中央へ向かった。
広場へ近づくにつれ、賑やかな歓声が聞こえてくる。
「おおー!」
「すごーい!」
子どもたちの弾んだ声。
大人たちの拍手。
どうやら本当に大道芸をやっているらしい。
人だかりの少し外れまで来ると、コリンは立ち止まった。
中へ入る気はない。
人混みは苦手だ。
近くの建物の壁へ静かにもたれかかり、そこから広場を眺める。
大道芸人が軽やかに道具を操るたび、歓声が波のように広がった。
最前列では、小さな子どもたちが身を乗り出して目を輝かせている。
「あっ、すごい!」
「もう一回!」
無邪気な笑い声が風に乗って届く。
その声を聞いた瞬間だった。
(……そういえば)
ふと、遠い記憶が胸の奥から浮かび上がる。
まだ、花の加護を授かって間もない頃。
父には内緒だよ、と祖母がいたずらっぽく笑って、こっそり町へ連れ出してくれたことがあった。
人混みではぐれないよう、小さな自分の手をしっかり握って。
『今日は特別だからね』
そう言って笑った祖母の横顔を、今でも少しだけ覚えている。
あの日も、大道芸人が広場の真ん中で芸を披露していた。
火の玉を操る芸に歓声が上がり、空高く投げられた道具を見上げて、夢中になって拍手をした。
隣で祖母も一緒に笑っていた。
あの頃は、まだ。
花と話すことが、人と笑い合うことを邪魔するなんて思ってもいなかった。
「……」
コリンは静かに目を伏せる。
風が頬を撫で、広場からまた歓声が響いた。
そのとき。
「――コリン」
不意に、自分の名前を呼ばれた気がした。
聞き間違いかと思いながらも、反射的に顔を上げる。
その声がした方へ、ゆっくりと視線を向けた。
次回は8月1日に「再び交わる道」を投稿します。
お楽しみに(^▽^)
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