コリン:途切れた言葉
暖簾をくぐると、眩しい昼の陽射しが降り注いだ。
思わず目を細める。
店の中に残っていた焼き菓子の甘い香りは、外へ出た途端、人々の熱気とともに市場のさまざまな匂いへ溶け込んでいった。
焼きたてのパンの香ばしい香り。
屋台で焼かれる肉の香り。
果物の甘くみずみずしい匂いに、香辛料の刺激的な香りまで風に乗って流れてくる。
昼を迎えた市場は、朝とは比べものにならないほどの賑わいだった。
「いらっしゃい! 今日一番のおすすめだよ!」
「この布、二枚買うなら少し安くしよう!」
威勢のいい呼び込みが通りのあちこちから飛び交う。
「お母さん、あのお菓子食べたい!」
「帰りにね。まずはお買い物を先に済ませるよ」
親子が笑いながら通り過ぎ、その横を荷車を押す商人が大きな声を張り上げる。
「道を空けてくれー!」
積み上げられた木箱を揺らしながら荷車が進み、人々は慣れた様子で左右へ避けていく。
大道芸を見終えた子どもたちが歓声を上げながら駆け抜け、店先では旅人たちが地図を広げて次の目的地を話し合っていた。
「さっき食べた串焼きもうまかったけど、まだ食べてない店がたくさんあるな」
「昼飯だけで終わらせるにはもったいないな。帰る前に焼き菓子も買っていこうぜ」
「賛成だ。せっかく来たんだし、隅々まで見て回ろう」
二人は笑いながら人混みへ歩き出す。
「それにしてもこの町の市場、本当に広いな」
「ああ。一日じゃ回りきれないって聞いたぞ」
笑い声が重なり、市場全体が生き物のように絶えず動いている。
その賑わいの中を、俺は深くフードを被り直した。
誰とも肩が触れないよう、人の流れの端を選びながら歩く。
昼の市場は、人が多い。
だからこそ、一人くらい紛れていても誰も気にしない。
誰も俺を見ない。
誰も話しかけない。
それでいい。
そうやって人混みに紛れてしまえば、余計な視線を向けられることもない。
花や動物と話しているところを見られることも。
気味悪がられることも。
避けられることもない。
その方が、ずっと楽だ。
……なのに。
さっきまでいた焼き菓子屋のことが、頭から離れなかった。
俺はフードを深く被り直し、人の流れから少し離れるように歩き出した。
……ちゃんと謝れた。
礼も言えた。
それでいい。
もう、あいつらに迷惑をかけることはない。
そう思っていた。
なのに。
足は前へ進んでいるのに、頭の中には焼き菓子屋での出来事ばかりが浮かんでくる。
濃い桃色の髪。
陽射しを受けると花びらみたいにやわらかく光って見える、不思議な色だった。
少し長めの髪の隙間から覗く瞳も、髪とよく似た濃い桃色。
春の夕暮れを閉じ込めたみたいに温かくて、まっすぐだった。
くりくりとした少し幼さの残る目なのに、その視線だけは不思議なくらい迷いがない。
笑うと年相応の子どもみたいなのに、真剣な時だけ妙に頑固で。
誰かを疑う色じゃない。
相手がどんな奴かも知らないくせに、それでも真正面から向き合おうとする目。
脅しても。
睨んでも。
植物を動かしても。
あの瞳だけは、最後まで俺から逸れなかった。
あんな目で見られるのは、苦手だ。
嘘をついているなら、もっと警戒できた。
怯えてくれれば、距離を置けた。
なのに、あいつは違った。
植物たちで脅しても逃げない。
花使いだと知っても顔をしかめない。
俺が「気味悪い」と言われてきた力を聞いても、驚くより先に「すごい」と言った。
まるで、それが当たり前みたいに。
……意味が分からない。
あんな奴、今まで会ったことがない。
あんな目で見られたのは、いつ以来だっただろう。
「……変なやつ」
ぽつりと呟く。
普通なら。
気味悪がる。怖がる。距離を置く。
一歩引いて、目を逸らして。
「気持ち悪い」と口にしなくても、その顔を見れば全部分かる。
俺は、そういう目には慣れている。
――『見ちゃだめ』
幼い子どもの、小さな囁き。
遊んでいた子が、親に手を引かれて離れていく。
まるで、俺が何か悪いものみたいに。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
――『気味悪い子だ』
聞こえないと思っていたのだろう。
背中越しに落とされた、大人たちの笑い混じりの声。
ひそひそと交わされる囁きは、風に乗ってもはっきり耳へ届いた。
笑われるたびに、足が止まった。
――『その力を人に見せるな』
父さんの低い声。
怒鳴るわけでもない。
叱るわけでもない。
ただ感情を押し殺したような声で、それだけを告げられた。
あの日から、庭の花に話しかけるたび、誰かに見られていないか周りを気にするようになった。
何度も、何度も。
同じような視線を向けられて。
同じような言葉を浴びせられて。
植物たちと話すたび。
鳥に話しかけるたび。
花へ笑いかけるたび。
返ってくるのは、皆が皆不思議そうな顔か、怯えた顔だった。
人は、俺を怖がる。
植物や動物と話す俺を見て、少しずつ距離を置いていく。
だから、人とは話さなくなった。
避けられるくらいなら、最初から近づかないほうがいい。
期待しなければ、傷つくこともない。
植物や動物の方が、ずっと気楽だった。
言葉を疑わないし、勝手に怖がったりもしない。
だから俺も、人との間に線を引くようになった。
近づかない。
話しかけない。
踏み込ませない。
そうしていれば、誰も俺を気味悪がることはない。
それが、一番楽だった。
それが俺の当たり前だった。
……なのに。
あいつだけは違った。
あの濃い桃色の瞳は、一度も逸れなかった。
俺を、花使いだからでも、気味悪い奴だからでもなく。
ただ――"コリン"として見ていた。
……意味が分からない。
だから、調子が狂う。
どうしてあんな目で見られたのか。
その答えだけが、どうしても分からなかった。
『だからね、コリン――』
また、頭の中で同じ声が響く。
あのときと同じ、どこか間の抜けたような、それでいて真っすぐな声。
その先だけが、どうしても続かない。
いや、続くはずがない。
あの瞬間、店にあいつの仲間が入ってきて、話はそこで途切れてしまった。
最後まで聞けていないんだから、思い出せるわけがない。
それなのに、頭は勝手にその続きを探そうとする。
『だからね、コリン――』
その先に何を言おうとしていたのか。
何度考えても答えは出ない。
分からない。
分からないくせに、それが妙に引っ掛かる。
知りたいわけじゃない。
……いや、本当に?
苛立つ。
なんでこんなことばかり考えてる。
目の前では商人が値段を叫び、子どもが笑っている。
屋台からは香ばしい匂いが漂ってくる。
市場はいつも通り賑やかなのに、俺の頭の中だけが、あの焼き菓子屋から動かない。
忘れようと別の店へ目を向けても。
耳に飛び込んでくる呼び込みへ意識を向けても。
歩く速さを少し上げても。
「……だから、何なんだよ」
小さく吐き捨てる。
考えたって分かるはずがない。
なのに、考えてしまう。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなくって。
『だからね、コリン――』
まただ。
頭のどこかで、あいつの声が勝手に蘇る。
舌打ちしたくなる。
どうでもいい。
どうせ、もう会わない。
続きを知ったところで、何かが変わるわけでもない。
あいつが何を言おうとしていたかなんて、俺には関係ない。
……そう思っているはずなのに。
「……っ」
気づけば、眉間に力が入っていた。
さっきから同じところをぐるぐる回っている。
考えるだけ無駄だと分かっているのに、頭は勝手に続きを探し始める。
その先は、何度考えても真っ白だ。
「敵じゃない」と言いたかったのか。
「友達になりたい」とでも言うつもりだったのか。
それとも、まったく別の言葉だったのか。
考えたところで答えなんて出るはずがない。
聞いていないのだから。
それなのに、胸の奥に引っ掛かった小さな棘みたいに、その言葉だけが抜けない。
自分でも何が気になっているのか分からない。
言葉なのか。
あいつなのか。
それとも――あのまっすぐな瞳なのか。
「……なんなんだよ、本当に」
小さく吐き捨てる。
返事をする相手なんていない。
考えるのはやめよう。
そう思って歩き出しても、一歩進むたびに、またあの声が浮かぶ。
『だからね、コリン――』
「……っ」
もう聞こえるはずのない声なのに、耳から離れない。
苛立ちを隠すようにフードをさらに深く被り直し、俺は人混みの中へ紛れていった。
次回は7月29日に「コリン:鳥が教えてくれたもの」を投稿します。
お楽しみに(^▽^)
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