人波の向こうに
通りには買い物客が行き交い、店先では商人たちが威勢よく声を張り上げる。
「今朝採れの野菜だよ!」
「焼きたてだ、熱いうちにどうだ!」
あちこちから飛び交う呼び込みの声が重なり合い、市場は朝の活気に満ちていた。
焼きたてのパンの香ばしい香り。
果物の甘くみずみずしい匂い。
露店で煮込まれるスープの湯気に混じって、香辛料の刺激的な香りも風に乗って漂ってくる。
荷車を押す商人が横を通り過ぎ、小さな子どもが母親の手を引いて駆けていく。
昨日と同じ市場なのに、人の流れは絶えず変わり続けていた。
その中で、ルカは何度も人波の向こうへ視線を走らせる。
探しているのは、たった一人。
夜空を思わせる深い青の髪。
その中に細く混じる金色の髪は、陽の光を受ければきっとすぐに分かる。
そして、静かな湖面のように落ち着いた、深いすみれ色の瞳。
昨日、一度だけ見たその姿を思い浮かべながら、すれ違う人々の顔を一人ずつ確かめていく。
青い髪が見えれば思わず目で追い、金色が光れば足を止める。
けれど、そのどれも探している人物ではなかった。
「……人、多いですね」
思わず漏れたルカの声に、ルドルフは周囲を見回しながら苦笑する。
「市場だからな。それにしても、これだけ人がいたら、見つけるだけでも一苦労だ」
「はい……でも、きっとまだどこかにいるはずなんです」
昨日別れたばかりの少年の姿を思い浮かべ、ルカは小さく拳を握る。
「まずは花屋からですね」
「ああ、頑張って探していこう」
二人は視線を交わすと、人の流れを縫うように歩き始めた。
ほどなくして、通りの角にある花屋へたどり着く。
店先には色とりどりの花々が所狭しと並び、朝露をまとった花びらが陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
赤い花は炎のように鮮やかで、白い花は朝の光を映して透き通るように美しい。
青や紫の花々も風に揺れ、そのたびに甘くやさしい香りがふわりと辺りへ広がる。
店の前では、若い女性が花束を選び、隣では年配の男性が鉢植えを手に店主と楽しそうに話していた。
「今日はユリもよく咲いてるよ。こっちの花束も人気だから見ていきな」
店主が朗らかな声で客へ話しかける。
「ありがとう。娘が花好きだから、これなら喜びそうだわ」
女性は笑顔で花束を受け取り、大事そうに抱えて去っていった。
その様子を横目に見ながら、ルカは店先へ近づく。
並ぶ人たちの間から一人ひとりの姿を確かめる。
夜空のような青い髪。
金色の混じる横髪。
その姿を探して視線を巡らせるが、見覚えのある少年はどこにもいない。
「……いませんね」
ルカが小さく呟くと、ルドルフも周囲を見渡した。
「もう移動したのかもしれないな」
ルカは少し迷ったあと、花を並べていた店主へ声をかける。
「あの、すみません」
「ん? どうしたんだい」
店主は花瓶を置く手を止め、穏やかに振り向いた。
「今朝、このくらいの背丈で、青い髪の男の子を見ませんでしたか?」
ルカは自分より少し高い位置へ手を上げながら尋ねる。
「青い髪?」
店主は腕を組み、記憶をたどるように首をひねる。
「うーん……今日は朝からお客さんが多くてねぇ。髪の色までは見てなかったな」
「そうですか……」
少し肩を落とすルカ。
店主は申し訳なさそうに笑った。
「悪いね。でも、その子が花好きなら、どこか別の花屋を見てるかもしれないよ。この市場、花を扱う店はここだけじゃないからさ」
「はい、お店の邪魔してすいませんでした」
ルカは深く頭を下げる。
「早く見つかるといいね」
「はい、ありがとうございます」
その一言に、小さく笑みを返して店を離れた。
歩きながら、ルカはもう一度だけ花屋を振り返る。
もしコリンがここへ来ていたなら、一輪一輪の花をゆっくり眺め、その名前や香りを確かめるように見つめていたのかもしれない。
そんな穏やかな姿を思い浮かべると、自然と口元が少しだけ緩んだ。
「次、行きましょうか」
「おう。せっかく市場を回るんだ。隅々まで見ていこうぜ」
「はい」
二人は再び人の流れへ溶け込むように歩き始めた。
市場の賑わいは、先ほどよりもさらに大きくなっている。
荷車が石畳を軋ませながら通りを進み、行き交う人々は自然と道を譲る。
「失礼するよー!」
威勢のいい声が響き、その後ろを子どもたちが笑いながら駆け抜けていく。
通りを抜けた先には、荷馬車が何台も並ぶ広場があった。
荷運びを終えた馬が静かに鼻を鳴らし、首をゆっくりと揺らす。
その足元では数羽の小鳥が落ちたパンくずをついばみ、一匹の茶色い犬が尻尾を大きく振りながら主人の帰りを待っていた。
「動物なら、この辺りかな?」
ルドルフが辺りを見渡す。
「そうですね」
ルカも頷きながら、犬や鳥のいる方へ視線を向けた。
昨日の話が本当なら――。
コリンは動物たちの声を聞くことができる。
珍しい鳥を見つければ立ち止まり、犬に話しかけられれば、きっと自然と返事をしてしまう…はず。
そんな姿を思い浮かべながら、人影を一人ひとり確かめていく。
荷車の脇では、小さな女の子が犬を優しく撫でていた。
「いい子だねぇ」
犬は嬉しそうに尻尾を振り、少女の手に鼻先を寄せる。
その様子を見ていた商人が笑った。
「こいつは人懐っこいからな。知らない人でもすぐ友達になるんだ」
「そうなの?かわいい!」
ルカも思わず微笑む。
もしコリンがここへ来ていたら、この犬とも何か話をしていたのだろうか。
「……すみません」
ルカは商人へ声をかけた。
「今朝、この辺りで青い髪の男の子を見ませんでしたか? 僕より少し背が高くて……」
商人は「ああ?」と辺りを見回しながら考え込む。
「青い髪か……悪いな。朝から人が多くて、そこまでは覚えてねぇや」
「そうですか……ありがとうございます」
頭を下げるルカ。
ルドルフも広場を一周するように見回したが、それらしい姿は見当たらない。
荷物をまとめる商人。
馬へ水を飲ませる御者。
行き交う旅人たち。
どこを見ても、探している夜空色の髪は見つからなかった。
「……いませんね」
ルカは静かに呟く。
「まだ決めつけるには早いさ」
ルドルフは穏やかに言う。
「動物がいる場所なんて、ここだけじゃない。市場は広いからな」
ルカはもう一度だけ犬へ視線を向け、小さく頷いた。
「はい。探してみましょう」
二人は再び人の流れの中へ歩き出した。
市場にはまだ見ていない通りがいくつも続いている。
鳥かごを売る店。
羊毛を運ぶ商人。
籠いっぱいの子猫を連れた女性。
動物を見かけるたびに立ち止まって周囲を見回すが、それでも見つからなかった。
「市場って、思ったより広いですね……」
ルカは苦笑しながら呟く。
「だろ?話によるとこの国でもかなり大きい部類の市場らしいからな」
ルドルフも肩をすくめる。
気づけば、市場を歩き始めてからかなりの時間が過ぎていた。
何人もの商人に声をかけ、何度も通りを行き来したが、それでもコリンの姿は見つからない。
「手掛かりは間違ってないと思うんだけどな」
「はい、そのはずなんですけど……」
「焼き菓子屋に戻れば、おばあちゃんが何か知ってるかもしれない。でも……」
ルドルフはルカの横顔を見る。
「お前はまだ、探したいんだろ?」
ルカは少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「……はい。もう少しだけ」
「よし。それなら付き合う」
二人は再び市場を歩き始めた。
色鮮やかな布を風にはためかせる露店。
職人がその場で木を削り、小さな玩具を作っている細工屋。
香ばしい木の実を焼く屋台の前では、人々が足を止めて品物を選んでいる。
通りを進むたびに景色が変わり、市場の賑わいは尽きることがなかった。
やがて、ひときわ大きな歓声が聞こえてくる。
「おおーっ!」
子どもたちの声が重なり、拍手が広場いっぱいに響いた。
二人が足を向けると、そこでは大道芸人が細い棒の上で器用に皿を回している。
くるくると回る皿に歓声が上がり、芸人は得意げに一礼する。
その前には大きな人だかりができ、大人も子どもも夢中になって芸を見つめていた。
ルカは、その賑わいを少し離れた場所から眺める。
人混みの中心ではなく、その外側へ自然と目が向いた。
昨日のコリンなら——。
大勢の輪の中へ入るより、少し距離を置いて静かに眺めていそうだ。
楽しそうな声を聞きながら、それでも人混みに紛れることなく、一歩引いた場所から景色を見つめる。
そんな姿が、不思議なほど自然に思い浮かぶ。
ルドルフもルカの視線の先を追い、小さく頷いた。
言葉を交わさなくても、お互いが探している場所は同じだった。
二人は人だかりの外側をゆっくり歩きながら、一人ひとりの顔を確かめていく。
栗色の髪。
銀色の髪。
帽子を被った旅人。
荷物を抱えた商人。
次々と視界へ入る人影を見送りながら歩いていると——
ルカの足が、不意に止まった。
「……っ」
鼓動が、一つ大きく鳴る。
人混みの向こう。
広場の端。
陽の当たりにくい建物の壁にもたれるように、一人の少年が立っていた。
深く被ったフードが顔の大半を影に隠している。
人目を避けるようなその佇まいは、昨日市場で出会った時と何も変わっていなかった。
ふいに朝風が通り抜ける。
その拍子にフードの隙間から、夜空を思わせる深い青の髪がわずかにのぞいた。
その中に細く混じる金色。
左右だけ少し長く伸びた髪が朝日を受け、控えめに光を返す。
ルカの視線が、その髪に吸い寄せられる。
見間違えるはずがない。
昨日、一度だけ見たあの髪だった。
背丈はルカより少し高く、人混みへ近づきすぎることもなく、壁にもたれながら静かに立っている。
フードの奥からのぞく深いすみれ色の瞳は、大道芸ではなく、その周りではしゃぐ子どもたちや、足元へ舞い降りた小鳥たちを穏やかに見つめてて、深いすみれ色の瞳には、昨日と同じ穏やかな光が宿っていた。
その横顔を見た瞬間、ルカは息をのむ。
探し続けていた姿。
見間違えるはずがない。
「……コリン」
思わず零れたその名前は、市場の賑わいに溶けるほど小さく、胸の奥につかえていたものが、そっとほどけていくような気がした。
次回は7月26日に「コリン:途切れた言葉」を投稿します。お楽しみに(^▽^)
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