朝の香りに誘われて
朝日に照らされた風車が、ゆっくりと羽根を回している。
緩やかな坂を下りきると、隣町の入口が見えてきた。
昨日訪れた市場と同じ場所のはずなのに、そこに広がっていた景色はまるで別の町のようだった。
「あ……」
ルカは思わず足を止める。
市場は、静かに目を覚まし始めていた。
通りには店を開く準備をする人々の姿が並んでいる。
荷車から木箱いっぱいの野菜を運び出す農家。
布を広げながら果物を並べる商人。
魚を氷の上へ丁寧に並べる店主。
まだ「営業中」と呼ぶには少し早い時間だ。
それでも町全体が少しずつ息を吹き返していくような活気があった。
大きな鍋から立ち上る白い湯気。
鉄板で何かを焼く音。
焼きたてのパンを窯から運び出す香ばしい香り。
「おはよう!」
「今日はいい天気だね!」
「おう、あとで寄るよ!」
あちこちから飛び交う朝の挨拶には、昼間の市場とは違う親しさがあった。
忙しそうに働きながらも、誰もが自然と笑顔を交わしている。
ルカは辺りをゆっくり見渡した。
昨日は買い物をする人で溢れていた通りが、今日は働く人たちのための場所になっている。
同じ市場なのに、時間が違うだけでこんなにも表情が変わるものなのか。
「……なんだか」
思わず小さく呟く。
「昨日より、町や市場が近く感じます」
その言葉に、ルドルフは隣で小さく笑った。
「昼は客が主役だけど、朝はこの町で暮らしてる人たちの時間だからな」
そう言って、目の前を通り過ぎる荷車へ視線を向ける。
「ルカは朝からこういう市場はあまり来なかったかもしれないけど、商人も職人も農家も、みんな朝から動いてる。だから朝の市場は、町の普段の顔が見えるんだよ」
ルカは静かに頷いた。
なるほど、と心の中で思う。
昨日は客人として市場を歩いた。
でも今日は、その町が目を覚ます瞬間を見ている。
そんな気がした。
ふわり、と甘く香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。
焼きたてのパンだ。
それに混じって、野菜を煮込む優しい香りや、焼きたてのベーコンの香ばしい匂いも鼻をくすぐった。
ぐぅ。
小さくお腹が鳴る。
ルカは慌ててお腹を押さえた。
「「……」」
隣のルドルフと目が合う。
数秒の沈黙。
そして。
「手で隠した腹は、正直だな」
ルドルフが吹き出した。
「う……」
ルカの頬が少し赤くなる。
「匂いが、すごく美味しそうで……」
照れながら答えると、ルドルフは笑いながら市場の通りを見回した。
「その反応なら、店選びは楽しめそうだな」
そう言って歩き出す。
「ほら。どれ食うか探そうぜ」
ルカも少し照れ笑いを浮かべながら、その後を追った。
そんなことを言いながら、ルドルフは屋台を一軒一軒ゆっくりと見て回る。
焼きたてのパンが山積みになった店の前では足を止め、ふわりと漂う香りに鼻をくすぐられて目を細める。
「お、ここではこれ作ってんのか」
小さく呟いたかと思えば、今度は隣の屋台へ視線を移した。
大鍋では野菜たっぷりのスープがぐつぐつと煮え、湯気と一緒に優しい香りが立ちのぼっている。
「こっちも捨てがたいな……」
顎に手を当て、本気で悩み始める。
さらに少し歩けば、鉄板の上で厚切りのベーコンがじゅうじゅうと音を立て、その隣では目玉焼きが焼き上がっていた。
香ばしい匂いに、ルドルフの視線が吸い寄せられる。
「朝から厚焼きベーコンは反則だろ……」
思わず漏れた独り言に、ルカはくすりと笑った。
ルドルフは照れた様子もなく、今度は串焼きの屋台へ目を向ける。
「いや、でも俺は朝パンの気分なんだよな」
そう言いながらも、串焼きをじっと見つめている。
「……ルドルフさん、さっきから全部のお店を気にしてませんか?」
ルカが苦笑交じりに尋ねると、ルドルフはあっさり頷いた。
「市場は見て歩く時間も楽しいんだ」
その声はどこか嬉しそうだった。
「急いで決めるのもいいけど、『今日は何があるかな』って眺めるのも朝市の楽しみなんだよ」
市場を歩く人々に混じって、ルドルフはゆっくりと歩みを進める。
その姿は、初めて訪れた旅人というより、昔からこの朝の賑わいを知っている人のようだった。
店先から漂う匂いに足を止めては焼き色を眺め、湯気の向こうで手際よく料理を作る店主たちの様子に目を向ける。
「あっちも良さそうだな……」
ぽつりと呟きながら歩き、また別の屋台へ視線を向ける。
どの店も美味しそうで、なかなか決められないらしい。
ルカはそんなルドルフの後ろを歩きながら、思わず小さく笑った。
やがて一軒のパン屋の前で、ルドルフの足がぴたりと止まる。
店先には焼きたてのパンがずらりと並び、窯から運び出されたばかりなのか、まだ湯気がふわりと立ちのぼっていた。
香ばしい香りが鼻をくすぐる。
ルドルフは満足そうに頷くと、店の奥へ声をかけた。
「すみません!」
店主のおばさんが振り返り、人懐っこい笑顔を浮かべる。
「いらっしゃい!」
並んでいたのは、香ばしく焼き上げられた丸パンに、野菜や卵を挟んだパン。
「おすすめはありますか?」
ルドルフが尋ねると、おばさんは嬉しそうに胸を張る。
「朝採れ卵のサンドだよ。それとこっちのハムサンドも人気だね」
「ルカ、お前はどうする」
ルドルフが横を見る。
ルカは少し迷ってから答えた。
「俺、卵にします」
「じゃあ俺はハムだ」
二人はパンを受け取る。
紙に包まれたパンは、まだ温かかった。
「熱いうちに食べな。」
おばさんが笑う。
「ありがとうございます」
二人は礼を言って屋台を離れた。
歩きながら紙を開く。
ふわりと湯気が立った。
「いただきます」
一口。
柔らかなパンと、ほんのり甘い卵。
思わずルカの表情がほころぶ。
「美味しい……」
「だろ?」
ルドルフは嬉しそうに笑った。
「外で食べる朝ごはんって、なんか特別ですね」
「同じパンでも、外で食うと少しうまく感じるんだよな」
「そういうものなんですか?」
「ああ。不思議だけどな。だから学生の頃も朝市をやめられなかったんだけどな」
「この味を忘れられなかったんですか?」
「それもある。」
ルドルフは小さく笑う。
「朝の空気を吸いながら、焼きたてのパンを食って学校まで歩くのが結構好きだったんだよ。」
「……なんだか、ルドルフさんらしいです。」
「そうか?」
「はい。なんとなく想像できました。」
ルドルフは照れくさそうに笑いながら肩をすくめる。
「昔から、美味いもんには目がなかっただけだ。」
ルカは思わずくすりと笑った。
昨日なら、こんな朝を迎えるなんて思ってもみなかった。
朝ごはんを片手に、市場を歩く。
ただそれだけなのに、胸が少し弾んだ。
市場の中心を抜けると、さっきまでの賑わいが少しずつ遠ざかっていく。
呼び込みの声も、人々の笑い声も、今は背中の向こうで小さく混ざり合っていた。
通りには焼き菓子や花を並べる店が増え始める。
昨日も歩いた道だ。
焼き菓子屋までは、もうあと少し。
ルカは手にしたパンを一口かじりながら、ゆっくりと前を見つめた。
温かなパンの味は変わらないのに、胸の奥だけが少し落ち着かない。
自然と、頭の中には一人の姿が浮かんでいた。
――コリン。
昨日は突然の出会いだった。
話した時間だって、決して長くはない。
それでも、自分の花の加護を「呪い」だと寂しそうに笑ったあの表情だけは、どうしても忘れられなかった。
『……会えたら、最初になんて声をかけよう。』
歩きながら、何度も考える。
――――コリン
まずは名前を呼ぶ。
それから、「昨日はありがとう」と伝えるべきだろうか。
「また会えて嬉しい」と笑えばいいのだろうか。
それとも、回りくどいことは言わずに、自分の気持ちをそのまま伝えた方がいいのだろうか。
頭の中で何度も言葉を並べ替えてみる。
けれど、口に出してみるたびに、どこか違う気がした。
どの言葉も、本当に伝えたい想いには少しだけ届いていない気がする。
だからこそ、会って話したい。
顔を見て、自分の言葉で。
……きっと、答えは会ってから見つかる。
そう思うたび、胸の鼓動が少しだけ速くなる。
ルカは小さく息をつき、前を見据えた。
次回は7月14日に「君を探して、朝の市場へ」を投稿します。
お楽しみに(^▽^)
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