出発前夜の願い
夕食を食べ終えたあと、二人は居間でのんびりとした時間を過ごしていた。
市場で買った旅道具は玄関脇にまとめて置いてある。
新しい旅鞄。
旅靴。
外套に水筒。
明日になれば、それらを持って本当に旅へ出るのだ。
慌ただしかった一日もようやく終わり、家の中には穏やかな静けさが流れていた。
ルドルフは椅子に腰掛けながら、買ってきた地図を広げている。
ルカは湯気の立つ茶杯を両手で包み込みながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
外はもうすっかり夜だ。
静かな夜道を見つめていると、昼間の出来事が次々と思い出される。
市場を歩いたこと。
キッシュを食べたこと。
旅道具を選んだこと。
そして――。
「コリン、今頃どうしてるんでしょう」
ぽつりと、独り言のように呟いた。
ルドルフが地図から顔を上げる。
「コリンのこと気になってるのか?」
ルカは小さく頷いた。
「はい」
茶杯を見つめながら続ける。
「そうか…ルカはコリンとなんかあったのか?」
「そういえばルドルフさんは、コリンとどういう出会い方をしたのか、ちゃんと話してませんでしたよね」
「ああ」
「俺がコリンと会ったの、俺がルドルフさんと逸れて焼き菓子屋さんで休憩をとっていた時なんです」
ルドルフは静かに耳を傾けた。
「最初は、もらった焼き菓子を食べながら休憩していたですけど、急に俺のところへ現れて、『ちょっと匿って』って俺に言ってきたんです」
「匿って?そりゃまた急に」
ルドルフが思わず聞き返す。
ルカは頷いた。
「俺もその時何が起きたのか分からなくて」
苦笑しながら、あの時の慌ただしさを思い出す。
「そうしたら、コリンがすぐ俺の隣にしゃがみ込んできて」
まるで何かから逃げるように。
ルカの影へ身を隠すように、小さく体を丸めた。
「とりあえず、咄嗟にコリンへ荷物を持たせて隠したんです」
「ルカお前、よくそんな機転利いたな」
「その時はいきなりのこと過ぎて頭がいっぱいで、必死でしたね」
ルカは少し照れくさそうに笑った。
「その直後でした」
笑みが消え、表情が真剣になる。
「俺の知らない人たちに声を掛けられて」
茶杯を持つ手に、少しだけ力が入った。
「コリンを探してるって言われたんです」
思い出しただけで、胸の奥がざわつく。
低い声。鋭い視線。
何気ない質問のはずなのに、妙な威圧感があった。
「俺、その時何も答えられなくて……」
あの時の自分は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
何を言えばいいのか分からなかったし、正直、少し怖かった。
ルドルフは黙って話を聞いている。
「そしたら、お店のおばあちゃんが出てきてくれたんです」
ルカの表情が少しだけ和らいだ。
「『うちの店の前で何してるんだい』って」
毅然とした声だった。
小柄な体なのに、不思議なくらい迫力があった。
「そのまま、あっという間に追い払っちゃって」
「へぇ」
「おばあちゃんすごく格好よかったんですよ」
思い出して、思わず笑みがこぼれる。
「俺、あんなに頼もしい人、初めて見ました」
「焼き菓子屋のばあちゃん、強ぇな」
ルドルフもつられて笑った。
「はい。本当に」
ひとしきり笑ってから、ルカはふっと視線を落とす。
茶杯の中で、湯気がゆっくりと揺れていた。
「俺とコリンの出会いは、だいたいこんな感じです」
ルカは手の中の茶杯へ視線を落とした。
「なんで追われていたのかとか、何があったのかとか……そういうことは、俺の口から言うのは違う気がして」
少し言い淀んでから、小さく首を振る。
「ごめんなさい。詳しいことは、言えないんです」
ルドルフは黙ってルカの話を聞いていた。
責めるような様子はない。
ただ、考えるように目を細める。
「いや、謝ることじゃねぇよ」
穏やかな声だった。
「俺も本人から聞いたわけじゃないしな」
ルドルフは軽く肩をすくめる。
「話したくない事情があるなら、無理に聞くもんでもないだろ」
その言葉に、ルカは少しだけ肩の力を抜いた。
「……はい」
「大事なのは、コリンが追われてて、怯えてたってことだ」
ルドルフはそう言って、テーブルの上に視線を落とす。
「それだけ分かれば、十分心配する理由にはなる」
ルカは小さく頷いた。
コリンが何者なのか。
どんな理由で、なぜ追われていたのか。
本当のところは、まだ何も知らない。
けれど、あの時の表情だけは忘れられなかった。
怯えた目。
周囲を警戒する仕草。
そして、助けを求めるように自分の後ろへ隠れた、小さな背中。
「だから、余計に気になるんです」
ルカは窓の外へ視線を向けた。
夜の闇が、静かに広がっている。
「今、一人なんじゃないかって」
ぽつりと零れる。
「また見つかって、追われたりしてないかなって」
言葉にした途端、不安が胸の奥から込み上げてきた。
あの時、コリンが見せた不安そうな顔が頭から離れない。
ルドルフはしばらく黙ったまま考え込んでいた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そりゃ、心配にもなるな」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「ですよね」
ルカはほっとしたように顔を上げた。
自分だけが気にしすぎているわけではなかった。
そう思うだけで、少し気持ちが軽くなる。
しばらくの間、部屋には静かな沈黙が流れた。
時計の針の音だけが、小さく響く。
湯気の立たなくなった茶杯を挟んで、二人はそれぞれ考え込むように視線を落としていた。
やがてルドルフが、ぽつりと呟く。
「……今度会えたら、ちゃんと謝りてぇな」
独り言のような小さな声だった。
ルカは目を瞬かせる。
「謝る?」
「ああ」
ルドルフは少し困ったように笑った。
「最後、余計なこと言っちまった気がしてさ」
昼間のやり取りを思い出しているのだろう。
視線を落とし、後ろ頭をかく。
「俺、あいつが〔雲の上の島国〕の出身だって聞いた時、勝手なこと言っただろ」
ルカは、あの時の会話を思い返した。
――『〔雲の上の島国〕みたいな大国のやつって、もっとこう……』
――『偉そうでキラキラしてる御曹司タイプばっかりかと思ってた』
――『やたら高そうな服着て、“庶民の気持ちなんて分からないね”みたいな顔してるやつ』
冗談めかした口調ではあった。
けれど、あの時のコリンは、少しだけ寂しそうな顔をしていた気がする。
ルドルフも同じことを思い出したのか、小さく息を吐いた。
「別に悪気があったわけじゃねぇんだ」
ぽつりと続ける。
「ただ、俺の勝手なイメージを、そのままあいつにぶつけちまった」
自嘲するように笑った。
「コリンがどんなやつかなんて、まだほとんど知らねぇのにな」
ルカは何も言わず、静かに耳を傾ける。
ルドルフは言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「絶対コリンのこと傷つけたと思う、だからちゃんと謝りたい」
その言葉は真っ直ぐだった。
言い訳をするつもりも、誤魔化すつもりもない。
ただ、自分が悪かったと思ったから、謝りたい。
それだけだった。
ルカは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
自分だけじゃない。
ルドルフもまた、コリンのことを気にかけている。
それが、なんだか嬉しかった。
そう思うと、胸の中に引っかかっていた言葉が、少しずつ大きくなっていった。
「あの……」
口を開く。
けれど、その先が続かない。
「ん?」
ルドルフが顔を上げる。
「いえ、その……」
ルカは慌てて茶杯に視線を落とした。
言おうと思えば言えるはずなのに、言葉が喉につかえて出てこない。
明日の出発前に、コリンに会いに行きたい。
もう一度会って、ちゃんと話がしたい。
そして――。
できることなら、花の加護を呪いだといったコリンを改めてファミリアに誘いたい。
その力は呪いなんかじゃないと。とても素敵な力なんだということを伝えたい。
けれど。
また行くはずだった予定を変えることになる。
迷惑だと思われたらどうしよう。
嫌な顔をされたら。
断られたら。
そんな考えばかりが頭を巡る。
「……」
指先で茶杯の縁をなぞる。
落ち着かない。
自分でも分かるくらい、そわそわしていた。
ルドルフはそんなルカの様子を見つめていた。
何か言いたそうにしている。
けれど、遠慮して言えない。
その姿は、実家にいる幼い弟たちによく似ていた。
頼みごとをしたい時。
相談したいことがある時。
言葉が出てこなくて、何度も視線をさまよわせていた。
今のルカは、まさにそんな顔をしている。
ルドルフは小さく笑った。
「ルカ」
優しく名前を呼ぶ。
ルカが顔を上げた。
「なんか言いたいことあるなら、ちゃんと言えよ。俺待ってるから」
責めるような声ではなかった。
急かすわけでもない。
ただ、ちゃんと聞くつもりだと伝える穏やかな声。
その言葉に、ルカの胸が少しだけ軽くなる。
今日、交わしたばかりの言葉を思い出した。
『ただいま』も『おかえり』も家族が帰る場所で言うんだと。
家族が帰る場所は同じだと、ルドルフは言ってくれた。
だったら――。
頼ってもいいのだろうか。
ルカは小さく息を吸い込んだ。
そして、意を決したようにルドルフを見つめた。
次回は6月29日に「胸に咲いた思い」を投稿します。
お楽しみに(^▽^)
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