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「ただいま」と「おかえり」

木の扉がゆっくりと開く。

夕暮れの冷え始めた空気を背に、二人は家の中へ足を踏み入れた。

外のひんやりとした空気とは違う、もう懐かしく感じる家の匂いがふわりと流れてくる。


木の床の香り。

夕食の支度をしていた頃の名残のような、かすかな生活の匂い。


慣れ親しんだはずの空気なのに、朝とは少し違って感じられた。

ルカは背負っていた旅鞄を軽く押さえながら、一歩、玄関へ足を踏み入れる。

足元の新しい旅靴が、石のたたきを小さく鳴らした。


背中には今日選んだ旅道具。

手には市場で買った夕食の包み。


朝、家を出た時にはなかった重みが、今は肩に心地よく馴染んでいた。

その隣で、ルドルフが何気ない調子で口を開く。


「ただいま」


あまりにも自然な声だった。

まるで何度もこの家へ帰ってきたことがあるかのような、気負いのない一言。

ルカは靴を脱ごうとしていた手を止めた。


「……え?」


思わず顔を上げる。

視線の先では、ルドルフがいつも通りの表情で立っていた。


ルカはぱちぱちと瞬きを繰り返す。


今、確かに聞こえた。

聞き間違いではない。


「ただいま」と、そう言ったのだ。


ルカは思わずルドルフの顔を見上げた。

ルドルフは不思議そうに首を傾げる。


「どうした?」


ルカはぽかんとしたまま言葉を探す。

何がおかしいのか、自分でもうまくルドルフに説明できない。

けれど、どうしても気になってしまった。


「いや、その……」


視線をさまよわせながら、少し遠慮がちに口を開く。


『ただいま』


その言葉は、ルカにとって特別な響きを持っていた。

家へ帰ってきた時に口にする言葉。

そして、家の中で待っている誰かに向けて伝える言葉。


だからこそ、これまでこの家で「ただいま」を言うのは、いつだって自分だけで返事が返ってくることもなかった。

家族以外の誰かが、この玄関で同じ言葉を口にする姿を想像したことなど、一度もない。


もちろん、嫌だと思ったわけではない。

勝手に踏み込まれたような気持ちにもならなかった。

ただ、驚いたのだ。


あまりにも自然に、まるでずっと前からそうしていたかのようにルドルフが「ただいま」と言ったから。

そのたった一言だけで、見慣れたはずの玄関が少し違って見えた。


いつもと同じ家。

いつもと同じ景色。


なのに、なぜだか今日は少しだけ空気が違う気がする。

その不思議な感覚の正体が分からなくて、ルカは戸惑いながらルドルフを見上げた。

視線をさまよわせながら、少し遠慮がちに口を開く。


「ルドルフさん、自分の家じゃないのに『ただいま』って言うんですね」


その言葉に、ルドルフは一瞬だけ目を丸くした。

まるで、そんなことを考えたこともなかったとでも言うように。

けれど次の瞬間には、ふっと表情を緩める。


優しく、どこか楽しそうに笑った。


「なんだ、そんなことか」


ルドルフは可笑しそうに目を細めると、軽く手を伸ばしてルカの頭を小突いた。

こつり、と優しい衝撃が額のあたりに伝わる。


「お前は挨拶しないのか?」

「え?」

「だって、ここはルカの家だぞ」


ルカはきょとんと目を瞬かせた。

言われるままに振り返る。

そこにあるのは、見慣れた玄関だった。


毎日目にしてきた壁。

出掛ける時も帰ってきた時も、何度も見上げてきた天井。

隅に置かれた履き慣れた靴。


いつもと変わらない、自分の家。

けれど、なぜだろう。

今日の帰宅は、いつもとは少しだけ違って感じられた。


朝、この扉を開けた時は、もうしばらく帰ってこないつもりだった。

期待と不安を抱えて、旅へ出るのだと思っていた。

それなのに、気づけば夕方にはまたここへ戻ってきている。


不思議な一日だった。


ルカはもう一度、隣に立つルドルフを見上げる。


「でも……なんでルドルフさんがこの家に『ただいま』って言うんですか?」


素直な疑問だった。

出会ってまだ日は浅い。

一緒に旅へ出ることになったとはいえ、つい先日まで知らなかった相手だ。


ルドルフは少しだけ視線を上げる。


まるで言葉を選ぶように、短く息を吐いた。

それから、少し照れくさそうに後ろ頭をかく。


「俺たち、出会ってまだそんなに経ってないだろ」

「はい」

「ファミリアとしても、まだまだこれからだ」


ルカは静かに頷いた。

ルドルフの言う通りだ。

一緒に過ごした時間は、まだ短い。

お互いに知らないことの方が、きっとずっと多い。


ルドルフはそんなルカを見ながら、穏やかな声で続けた。


「でもさ、ファミリアって家族みたいなもんだろ?」


その言葉は、夕暮れの静かな玄関にゆっくりと溶けていく。


「お前、『ファミリア=プリマヴェーラ』の意味、ちゃんと覚えてるか?」

「それはもちろん、“(プリマヴェーラ)家族”……ですよね」

「そう」


ルドルフは満足そうに頷いた。


「だったら、家族が帰る場所は同じだろ」


開いたままの扉から、夕暮れの橙色の光が差し込んでいる。

柔らかな光が玄関の床を照らし、二人の影を長く伸ばしていた。

その光の中で、ルドルフは少しだけ照れくさそうに肩をすくめる。


「少なくとも俺は、そう思ってる」


気負った様子もなく、当たり前のことを話すような口調だった。

けれど、その何気ない言葉は、不思議なくらい真っ直ぐルカの胸に届いた。


ルカは何も言えなかった。

ただ、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。


()()


頭の中で、その言葉をそっと繰り返す。

これまで何度も聞いてきたはずの言葉なのに、今はいつもより少しだけ特別に聞こえた。


まだ出会ってから日は浅い。

ファミリアになったばかりで、お互いに知らないことだってたくさんある。

それなのにルドルフは、迷うことなくそう言ってくれた。


ふと、今日一日の出来事が頭に浮かぶ。


朝、一緒に家を出て。

市場を歩いて。

キッシュを食べて。

旅道具を選んで。

知らないことをたくさん教えてもらった。

迷った時には隣にいてくれて、不安そうにしていると何気なく声をかけてくれた。


予定通りにはいかなかった一日だった。

けれど、振り返ってみれば、一人で過ごした時間よりも、ルドルフと一緒に笑っていた時間の方がずっと長いかもしれない。


不思議だった。


つい先日まで知らなかった相手のはずなのに。

気づけば隣にいることが当たり前になり始めている。


旅支度を整えている時も。

夕暮れの帰り道を歩いている時も。

ルドルフが隣にいることを、もう自然なことのように感じていた。

だからだろうか。


ルドルフの言う「家族」という言葉が、思っていたよりもすんなり胸へ落ちてきた。


()()


その響きは、ルカにとってまだ少し照れくさい。

けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


むしろ――嬉しかった。


胸の奥がくすぐったくて、でも温かくて。

うまく言葉にできない気持ちが、静かに広がっていく。

ルカは小さく息を吸い込んだ。


少しだけ緊張しながら、唇を開く。


「……あ……た、だいま」


慣れない言葉だった。

いつもなら何気なく口にしていたはずなのに、今日はなぜだか上手く言えない。

それでも、ちゃんと伝えたかった。

するとルドルフは、満足そうに目を細めた。


「おう。おかえり、ルカ。んで、俺もただいま」


照れくさそうに笑いながら、そう言う。

その言葉を聞いた途端、ルカの胸の奥がまた少し温かくなった。

思わず顔が熱くなる。


「お、おかえりな、しゃい!」


慌てて返した声は、見事なくらいに噛んでしまった。

ルドルフは目を丸くしたあと、吹き出すように笑う。


「なんでそんなにどもるんだよ」


からかうような声色だったけれど、そこに意地悪さはなかった。

ルカは恥ずかしくなって視線を逸らす。


「し、仕方ないじゃないですか……」


耳まで熱くなっているのが、自分でも分かった。

けれど、不思議と嫌な気分ではない。

夕暮れの光が差し込む玄関には、二人の笑い声が小さく響いていた。

次回は6月26日に「出発前夜の願い」を投稿します。

お楽しみに(^▽^)

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