まだ見ぬ世界の話
夕焼け色に染まった通りを、二人はゆっくり歩いていた。
市場で買った夕食の包みを片手に、ルカは焼きたての串焼きを口へ運ぶ。
「串焼きおいしい……」
思わず零れた声に、ルドルフが笑った。
「ルカ、お前さっきからそれしか言ってないぞ」
「だって本当に美味しいんですよ」
ルカはそう言いながらもう一口食べる。
炭火の香りがしっかり付いた肉は柔らかく、噛むたびに旨味が広がった。
表面は香ばしく焼けているのに、中は驚くほどジューシーだ。
市場には色々な料理があったが、結局どれも当たりだった気がする。
「キッシュも美味しかったですけど、これも美味しいですね」
「食いもんの話ばっかりだな」
「だって美味しいので」
即答だった。
ルドルフは呆れたように肩をすくめる。
「旅先でもその調子で楽しめそうだな」
「旅先のご飯ってどんな感じなんですかね」
ルカは少し目を輝かせた。
まだ見ぬ土地。
『虹のはしの王国』
どんな人がいて、どんな景色があって、どんな料理があるのか。
考えるだけで少しわくわくする。
「行った先の国や土地にもよるな」
ルドルフはパンを一口かじった。
「同じ国でも土地が違えば食いもんも変わる」
「へぇ」
「例えば『雲の上の島国』には鮮やかな桃色の人参がある」
「桃色の人参!?」
ルカが思わず声を上げる。
夕暮れの静かな通りに声が少し響いた。
「ちゃんと人参なんですか?」
「人参らしい」
ルドルフは笑った。
「味も人参だって。ただ色だけやたら派手らしい。俺は食べたことはないけど」
「すごい……」
ルカの頭の中には、鮮やかな桃色の人参がずらりと畑に並んでいる光景が浮かんでいた。
人参といえば橙色。
そう思っていた常識が、あっさりひっくり返される。
「それ、煮込んだらどうなるんですかね」
「さあな」
ルドルフは肩をすくめた。
「俺も実物を見たことあるわけじゃない」
「じゃあ切ったら中も桃色なんですかね」
「どうだろうな」
少し考えてから続ける。
「外だけだったら面白いけどな」
「それはそれで不思議です」
ルカは想像してみる。
桃色の人参。
切ったら中だけ普通の橙色。
なんだか変な気分だった。
「気になるなぁ……」
ぽつりと呟く。
するとルドルフは何でもないことのように言った。
「だったらいつか見に行けばいい」
何気ない一言だった。
けれどルカは思わず足元を見た。
いつか。
旅を続けていれば、そういう場所へ行くこともあるのだろうか。
見たことのない景色。
聞いたことのない話。
そんなことを考えるだけで少し胸が高鳴った。
「他にも変わったものはあるんですか?」
ルカが尋ねると、ルドルフは少し考える。
「そうだな……」
視線を空へ向けたあと、思い出したように言った。
「泉の中に水晶みたいに育つ塩がある土地もある」
「塩って育つんですか?」
今度はさらに驚いた声だった。
「俺も最初に聞いた時は同じこと思った」
ルドルフは苦笑する。
「水辺の岩場に少しずつ結晶ができるらしい」
「へぇぇ……」
ルカの目がきらきらと輝く。
「しかもな、その塩は食べるたびに味が少し変わる」
「味が変わる?」
ルカは思わず聞き返した。
「甘く感じたり、少し辛く感じたり。たまに果物みたいな風味がすることもあるらしい」
「そんな塩、本当にあるんですか?」
信じられないという顔になる。
「それがあるんだよ」
ルドルフは笑った。
「昔、旅商人が持ってきたのを一度だけ食わせてもらったんだ」
「どうでした?」
ルドルフは少し考える。
「正直、俺もよく分からなかった」
「え?」
ルカが目を丸くする。
「一口目は普通の塩だったんだよ」
ルドルフは肩をすくめた。
「でも二口目は少し甘く感じた」
「本当ですか?」
「本当だ」
そう言って笑う。
「気のせいかと思ったけどな」
ルカはますます不思議そうな顔をした。
塩といえば塩だ。
しょっぱいものだと思っていた。
それが甘かったり、果物のような風味になったりするなんて想像もつかない。
「料理に使ったらどうなるんでしょうね」
ルカが首を傾げる。
「さあな」
ルドルフは少し考えた。
「でも、あんまり料理向きじゃないと思うんだよな」
「そうなんですか?」
「だって味が変わるんだろ?」
そう言って串焼きを一口かじる。
「同じ鍋に入れたのに、食うたび味が違ったら料理人は困ることになるだろ」
「ああ、そっか……」
ルカは納得したように声を漏らした。
確かにそうだ。
一口目は甘くて、次は果物みたいな味。
その次は普通にしょっぱい。
そんな料理になったら落ち着いて食べられないかもしれない。
「それはそれで面白そうですけど」
「客としてはな」
ルドルフが笑う。
「作る側からしたら、たまったもんじゃない」
「確かにそうですね」
ルカもつられて笑った。
「じゃあ、やっぱりそのまま食べるものなんですかね」
「たぶんな。珍しい塩だから味を楽しむためのもんなんだろ」
ルドルフは肩をすくめる。
「それに、かなり高いらしいぞ」
「なるほど……」
ルカは感心したように頷いた。
まだ見ぬ土地。
まだ知らない景色。
世の中には、自分の知らないものが本当にたくさんあるのかもしれない。
知らない景色を見ること。
知らない人と出会うこと。
そして知らない料理を食べること。
今日だって、市場へ行って初めて食べたキッシュに驚いた。
なら、旅の先にはもっとたくさんの驚きが待っているのだろう。
そう思うと、明日の出発がますます楽しみになった。
旅には、自分が思っていた以上に、色々な楽しみがあるのかもしれなかった。
そんな話をしながら歩いているうちに、空はさらに暗くなり始めていた
二人は市場を抜け、朝通ったことのある見慣れた通りへ入った。
賑やかな喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
人通りも次第に減り、代わりに住宅街らしい静けさが周囲を包み始めた。
夕方の風が通りを吹き抜ける。
昼間よりも少し涼しくなった空気が心地よい。
ルカは新しい旅鞄の肩紐を軽く握りながら歩いた。
背中には今日買った旅道具。
足元には新しい旅靴。
旅装具店で選んだ品々の重みが、今はどこか心地よく感じられる。
明日は、いよいよ本当に旅へ出る。
そんな実感が、夕暮れの空の下で少しずつ膨らみ始めていた。
やがて――
「あ」
ふいにルカが足を止めた。
前方に見慣れた建物が見えていた。
夕日に照らされた小さな家。
柵で囲まれた庭。
何度も何度も通った石畳の小道。
少し古びた木の玄関扉。
毎日見ていたはずの景色なのに、なぜだか今は少し違って見えた。
「ん?」
隣を歩いていたルドルフも顔を上げる。
ルカの視線の先を辿り、すぐに納得したように頷いた。
「ああ、もう着いたか」
家はもう目の前だった。
夕日を受けた壁が柔らかな橙色に染まっている。
窓ガラスには夕空が映り込み、庭の草木も長い影を地面へ落としていた。
ルカはその光景を見つめながら、ふと今朝のことを思い出す。
朝早く起きて。
荷物を確認して。
玄関の前で深呼吸をして。
今日から旅が始まるのだと、自分に言い聞かせながら家を出た。
期待もあった。
不安もあった。
胸の奥が落ち着かなくて、何度も心臓が跳ねていた。
あの時の自分を思い出して――
ルカは思わず笑ってしまった。
「ルカ?どうした?」
ルドルフが不思議そうに尋ねる。
ルカは家を見つめたまま、小さく肩をすくめた。
「え、いや……」
少し照れくさそうに頬をかく。
それから、くすりと笑った。
「俺、あんなにドキドキしながら家を出たのに」
「うん?」
「一日で家に帰ってきちゃいました」
言い終えた途端、自分でも少しおかしくなってしまう。
旅立つつもりで家を出たのに。
気づけば夕方にはまた家の前に立っているのだから。
数秒。
ルドルフはぽかんとした顔でルカを見た。
そして次の瞬間――
「確かにそうだな!」
大きな笑い声を上げた。
「旅立ち初日に帰宅とか俺は聞いたことねぇぞ!」
「俺も聞いたことないです!」
ルカも声を上げて笑う。
「出発した気満々だったんですけどね」
「あぁまあ、いろいろあったからな」
ルドルフは肩を揺らしながら笑った。
市場へ行って。
コリンと出会って。
キッシュを食べて。
旅道具を揃えて。
もちろん、全部が予定通りだったわけではない。
むしろ予定外のことの方が多かったかもしれない。
朝、家を出た時には想像もしなかった出来事だ。
けれど不思議と悪い気はしない。
知らない誰かとの出会いもまた、旅へ向かう途中で見つけた小さな縁のように思えた。
予定していたことはある程度確かに進んだ。
進んだのだが――
肝心の出発だけは明日になった。
「でも、俺の旅支度はしっかりできまた」
ルカは背中の旅鞄を軽く叩く。
新しい鞄。
新しい旅靴。
外套と水筒。
今日一日で揃えたものばかりだ。
「まあな」
ルドルフも頷く。
「無駄な一日だったわけじゃねぇ」
その言葉に、ルカは少し嬉しそうに笑った。
確かにそうだ。
予定通りではなかった。
けれど、何も進まなかったわけでもない。
むしろ朝よりずっと旅人らしい姿になっている。
二人は笑いながら家の前まで歩いていく。
夕日が背中から差し込み、二人の影を長く地面へ伸ばしていた。
そして――
ルカは玄関の扉へ手を掛ける。
木の扉がゆっくり開いた。
暖かな家の空気が迎えてくれる。
ルドルフも後に続く。
そうして二人は、夕暮れ色に染まる家の中へと入っていった。
本当の旅立ちまで――
あと一日だった。
次回は6月23日に「「ただいま」と「おかえり」」を投稿します。
お楽しみに(^▽^)
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