旅立てなかった旅立ちの日
店員が手際よく品物をまとめ終える頃には、店の外から差し込む光も、昼間の明るさから少しずつ夕暮れの色へと変わり始めていた。
入口近くの窓から差し込む橙色の光が木の床へ長く伸び、店内の革製品を柔らかく照らしている。
カウンターの上には、今日選んだ品々がきれいに並べられていた。
革鞄。着替えの服。
丈夫な外套。革張りの水筒。
そして、新しい旅靴。
ほんの数時間前までは少ししか持っていなかった旅道具だ。
店員は慣れた手つきで品物をまとめながら、一つ一つ確認していく。
服を丁寧に畳み、外套を整え、鞄の金具や紐も軽く確かめる。
革の擦れる音と布の重なる音が静かな店内に小さく響いた。
ルカはその様子を少し緊張した面持ちで見守っている。
自分のために揃えた旅道具。
こうしてまとめられていく様子を見ているだけで、不思議と胸がそわそわした。
やがて店員は最後の確認を終えると、顔を上げた。
「坊主、忘れ物はないな?」
低く落ち着いた声だった。
「だ、大丈夫です」
ルカは慌てて答えると、カウンターの上を改めて見回した。
旅靴。鞄。服。
外套。水筒。
本当に全部あるか確認するように視線を動かす。
その様子を見ていたルドルフが、横から口を挟んだ。
「旅に出る前から荷物なくすなよ?」
からかうような声だった。
「なくしません!」
即座に返事が飛ぶ。
けれどその勢いとは裏腹に、つい数時間前、市場の人混みで見事に迷子になっていたことを思い出してしまう。
ルカの表情がわずかに固まった。
ルドルフの口元がにやりと上がる。
店員も事情を察したらしく、とうとう吹き出した。
「ははは」
低い笑い声が店内に響く。
「まあ最初はそんなもんだ」
「本当に気を付けます」
ルカは少しだけ頬を膨らませながら言った。
どこか拗ねたような声音だったが、その表情には照れくささも混じっている。
「その意気だ」
店員は満足そうに頷いた。
それから会計を済ませ、まとめられた荷物を受け取る。
ルカは新しい旅鞄を背負ってみた。
肩紐を掛ける。
背中へ重みが乗る。
まだ少しだけ慣れない感覚だった。
今まで使っていた荷物よりも大きい。
背中にぴたりと収まる感触も新鮮だった。
けれど、不思議と嫌な重さではない。
むしろその重みは、自分が選んだ旅道具の重みだった。
これから旅へ出るための準備が、本当に形になったのだと実感できる重さだった。
ルカは無意識のうちに鞄の肩紐へ触れる。
新しい旅靴。
新しい鞄。
旅のための服と外套。
ほんの少し前まで想像もしていなかったものが、今は全部自分のものになっていた。
「じゃあ行くか」
ルドルフが声を掛ける。
「はい」
ルカは小さく頷いた。
二人は荷物を整え、店の入口へ向かう。
入口まで見送りに来た店員へ、ルカは足を止めて深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
今日一日で何度も助けてもらった。
靴選びも。
鞄選びも。服や外套も。
旅のことを何も知らない自分に、丁寧に教えてくれた。
自然と頭が下がる。
ルドルフも軽く片手を上げた。
「お世話になりました」
店員はそんな二人を見て笑う。
「おう。また何か必要になったら来い」
「はい!」
ルカは元気よく返事をした。
その声に店員は満足そうに頷く。
そして――
からん。
扉のベルが軽やかに鳴った。
夕暮れの光が差し込む入口を抜けて、二人は旅装具店を後にする。
背中には新しい旅鞄。足元には新しい旅靴。
旅の準備を詰め込んだ荷物とともに、ルカは店の外へ一歩踏み出した。
外へ出ると、市場は昼間とは少し違う顔を見せていた。
西へ傾き始めた太陽が建物の壁や石畳を橙色に染めている。
昼間は頭上から降り注いでいた光も、今は長い影を通りへ落としていた。
行き交う人の数はまだ多い。
けれど、昼過ぎの慌ただしさとは少し違う。
買い物を終えた人々が家路につき、荷車を引く商人たちが店の前を行き交う。
軒先では商品を片付け始める店もあれば、夕方の客を呼び込もうと声を張り上げる店もある。
市場全体が、一日の終わりへ向かって少しずつ動き始めているようだった。
旅鞄を背負ったルカは、その光景を見渡しながらふと空を見上げる。
高い空は夕焼けに染まり始めていた。
「……あ」
思わず小さな声が漏れる。
「もうこんな時間なんですね」
しみじみとした声だった。
ルドルフもつられるように空を見上げる。
「だな」
短く答えながら、目を細めた。
本来なら――
今頃は列車に乗っていたはずだった。
昼過ぎに出る便へ乗り込み、北東の『虹のはしの王国』へ向かっている頃だったはずだ。
けれど実際には、二人はまだ市場の中を歩いている。
ルドルフは苦笑混じりに肩をすくめた。
「まあ、予定は盛大に狂ったな」
その言葉に、ルカがぴたりと固まる。
「うぅ……」
心当たりがありすぎる反応だった。
「誰のせいだろうなぁ?」
「すみませんでした……」
しゅん、と肩が下がる。
今日一日の出来事が脳裏によみがえったらしい。
市場へ来て、あちこち見て回って、気づけば予想外の遠回りをしていた。
ルドルフはそんな様子を見て小さく笑う。
「別に責めてねぇよ」
「でも結果的に予定がずれたのは事実ですし……」
申し訳なさそうに視線を落とす。
「まあ、それはそうだな」
「そこは少しくらい慰めてくださいよ……」
即答だった。
ルドルフが吹き出す。
「ははっ」
ルカは恨めしそうな顔を向けるが、結局自分でも少し笑ってしまった。
事実だから反論しづらい。
二人は市場の通りを歩きながら、これからの予定について話し始める。
「このあとどうしょう?」
ルカが尋ねる。
ルドルフは夕焼け色の空をちらりと見上げた。
「どうするも何も、今日はもう出発するには無理だろ」
「そうですよね」
「今から駅行っても、乗る予定だった便はとっくに出てるし」
市場で過ごした時間は思った以上に長かった。
キッシュを食べて、旅道具を揃えて、あれこれ見て回っているうちに、気づけば夕方だ。
「だから予定変更だな」
ルドルフはあっさり言う。
「今日は戻ろう」
「戻る?」
ルカが首を傾げる。
「どこに戻るんですか?」
「お前ん家」
答えを聞いた瞬間、ルカがぱちぱちと瞬きをした。
「え、俺の家?でも、いいんですか?」
「いいも何も」
ルドルフは呆れたように笑う。
「泊まる場所あるなら、その方が楽だろ」
確かにその通りだった。
今から宿を探す必要もない。
荷物の整理もできる。
買った物の確認もできる。
そして何より――
明日の朝、改めて出発できる。
ルカは少し考えてから頷いた。
「じゃあ、明日の朝に出発ですね」
「そうだな。明日の朝改めて出発しよう」
「分かりました」
そう決まると、不思議と肩の力が抜けた。
今日出発できなかったのは少し残念だ。
けれど旅そのものがなくなったわけではない。
出発が一日延びただけ。
そう考えると気持ちも落ち着いてくる。
二人は市場の通りを歩き始めた。
夕方が近づいた市場は、昼間とは少し違う賑わいを見せている。
店じまいの準備を始める店。
最後の客を呼び込む商人。
焼き台から立ち上る煙。
あちこちから香ばしい匂いが漂ってきた。
焼かれた肉の匂い。
香草の香り。
揚げ物の油が弾ける音。
夕方の市場は、昼とはまた違う活気に包まれている。
ルカは思わず足を緩めた。
視線の先では、屋台の店主が串焼きをひっくり返している。
こんがり焼けた表面から湯気が立ち上り、食欲を誘う香りが風に乗って流れてきた。
「美味しそうですね……」
ぽつりと漏れた声に、ルドルフが笑う。
「そうだな、見てるとだんだん腹が空いてくるな」
ルカは屋台の並ぶ通りへ目を向ける。
昼に食べたキッシュは美味しかった。
けれど、気づけばもう夕方だ。
市場を歩き回り、
旅道具を選び、
あれこれ考えているうちに時間はあっという間に過ぎていた。
「そういえば、まだ夕飯食べてませんでしたね」
言われてみれば当然のことなのに、今まで気づいていなかった。
ルドルフも空を見上げる。
西へ傾いた太陽は、もう建物の屋根を橙色に染め始めている。
「せっかくだし、何か買って帰るか」
「いいんですか?」
ルカの顔がぱっと明るくなった。
「どうせ帰ったら飯の時間だろ。それにお前、旅に出るつもりだったんだから、家に食いもんもあんまり置いてないだろ?」
「それはそうですけど」
ルドルフは肩をすくめる。
「市場に来たのに、今日は旅道具ばっか見てたからな」
ルドルフは屋台の並ぶ通りへ視線を向ける。
「せっかく市場まで来たんだ。屋台の一つも見ずに帰るのはもったいないだろ」
その言葉に、ルカは納得したように頷いた。
二人は自然と屋台が並ぶ通りへ足を向けた。
夕方の市場は、昼間とはまた違う賑わいを見せている。
仕事帰りらしい人々が行き交い、屋台の前には小さな列もでき始めていた。
焼き台の上では肉が香ばしい音を立てている。
揚げ物の油がぱちぱちと弾け、湯気の立つ鍋からは食欲を誘う香りが漂っていた。
ルカは思わず辺りを見回す。
昼間も賑やかだったが、夕方には夕方の活気があるらしい。
「いろいろあるけど、ルカは何か食べたいものあるか?」
ルドルフが尋ねる。
ルカは視線を巡らせた。
焼き串。
香草をまぶした腸詰。
湯気の立つ豆の煮込み。
焼きたての平焼きパン。
どの屋台からも食欲を誘う香りが漂い、並んだ料理はどれも美味しそうに見えた。
しばらく見比べた末に、ルカは困ったように笑った。
「……決められません」
その一言に、ルドルフが吹き出す。
「だろうと思った」
ルカは少しだけ頬をかく。
「だって全部美味しそうで……」
実際、その通りだった。
香ばしい匂いがあちこちから漂ってくるせいで、見れば見るほど迷ってしまう。
結局、二人は屋台を何軒か見て回りながら夕食を選ぶことになった。
店主たちの威勢のいい声を聞きながら、少しずつ夕食を買い揃えていく。
気が付けば、空はゆっくり夕焼け色へ変わり始めていた。
市場を包む光も柔らかくなり、昼間の賑わいとは違う穏やかな空気が流れている。
ルカは買った包みを抱えながら歩いた。
背中には新しい旅鞄。
足元には新しい旅靴。
そして腕の中には、今夜の夕食。
荷物は朝よりずっと増えている。
それなのに、不思議と重くは感じなかった。
明日は本当に旅へ出る。
そんな期待が、胸の奥で少しずつ膨らんでいた。
次回は6月20日に「まだ見ぬ世界の話」を投稿します。お楽しみに(^▽^)
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