迷子の次に旅支度
店の中に満ちていた焼きたての香りも、食べ終わる頃にはどこか落ち着いた匂いへ変わっていた。
こんがり焼けた生地の香ばしさ。
溶けたチーズのまろやかな匂い。
スープに溶け込んだ野菜の甘い香り。
温かな空気が、静かな店内にゆっくりと漂っている。
テーブルの上には、空になった皿と木のカップ。
ついさっきまで湯気を立てていたキッシュは綺麗になくなっていて、食べ終えた満足感だけがほわりと残っていた。
市場を歩き回ってこわばっていた体も、今ではすっかり温まっている。
ルカは椅子へ座ったまま、小さく息を吐いた。
「……美味しかったです」
自然と零れた声だった。
頬はまだ少し緩んだままで、名残惜しそうに空の皿を見ている。
「だな。めちゃくちゃ当たりの店だった」
ルドルフも満足げに背もたれへ寄りかかった。
肩の力が抜けたその姿は、さっき市場を走り回っていた時よりずっと穏やかだ。
おばあさんはカウンター越しにそんな二人を見て、嬉しそうに目を細める。
「綺麗に食べてくれてありがとねぇ」
優しい声だった。
ルカははっとしたように顔を上げると、慌てて椅子から立ち上がった。
「こちらこそ、ごちそうさまでした!」
ぺこり、と深く頭を下げる。
その様子に、おばあさんはくすりと笑った。
ルドルフも財布を取り出しながら、少し苦笑混じりに肩をすくめる。
「スープまでサービスしてもらっちゃってすんません」
「いいんだよ。若い子にはちゃんと食べてもらわなきゃねぇ」
おばあさんはそう言いながら、使い終わった皿をゆっくり重ねていく。
からん、と食器の触れ合う小さな音が静かな店内に響いた。
その穏やかなやり取りを聞きながら、ルカはまた少しだけ照れくさそうに笑う。
知らない場所の、初めて入った店。
それなのに、不思議なくらい居心地がよかった。
会計を済ませ、椅子を引いて立ち上がる。
店を出る準備をする頃には、暖簾の向こうから聞こえる市場の喧騒が、再び近く感じられるようになっていた。
人々の話し声。
荷車の軋む音。
呼び込みの声。
店の外には、相変わらず賑やかな市場の時間が流れている。
「じゃあ、気をつけて行きな」
おばあさんが、柔らかく笑いながら手を振った。
「はい!」
「ありがとうございました」
二人が頭を下げる。
からん、と扉のベルが鳴った。
暖かな店の空気が背中から離れていき、代わりに市場のざわめきと夕方前の風が二人を包み込む。
それでも、焼きたての香りと優しい笑い声の余韻は、まだ胸の奥にほんのり残っていた。
店の外へ出た瞬間、途端に市場の賑わいが耳へ飛び込んできた。
夕方が近づき始めた市場は、昼とはまた違う活気で満ちている。
店を出た途端、静かだった空気は一変した。
市場の通りには相変わらず人が溢れている。
呼び込みの声。
荷車の車輪が石畳を軋ませる音。
行き交う人々の話し声。
どこかの屋台から漂う香辛料の匂い。
夕方が近づき始めた市場は、昼間とは少し違う賑わいを見せていた。
買い物を終えた人々が行き交い、袋を抱えた旅人や商人たちが慌ただしく通りを横切っていく。
人の流れは絶えず動いていて、ぼんやりしていればすぐ誰かに押し流されそうだった。
「さて、と」
ルドルフが軽く背を伸ばす。
さっき食べた温かい食事のおかげか、どこか機嫌の良さそうな声だった。
「さっきまではいろいろあって買えなかったから、次は旅用品だな。服とか靴とか、必要なもん見に行くぞ」
「はい!」
ルカも素直に頷く。
けれど返事をした直後だった。
人混みのざわめきが耳に入った瞬間、脳裏にさっきの光景がよみがえる。
似たような通り。
どこを向いても知らない景色。
気づけばルドルフの姿を見失って、一人でおろおろ歩き回った時間。
あの時の不安が、胸の奥をちくりと掠めた。
その結果――
ルカの手が、そっとルドルフの服の裾を掴む。
ぎゅ、というほど強くではない。
離れないように、控えめに摘まむくらいの力だった。
「……ん?」
歩き出しかけていたルドルフが振り返る。
ルカははっとしたように肩を揺らした。
視線がふらふらと泳ぐ。
掴んだ裾を離すべきか迷っているのが、見ていて分かるくらい分かりやすかった。
「えっと……」
「……お前」
数秒沈黙。
ルドルフの視線が、自分の服の裾へ落ちる。
それからルカの顔へ戻った。
気まずそうに目を逸らすルカ。
その反応があまりにも正直で、ルドルフの口元がじわじわ緩んでいく。
「また迷う気満々だな?」
「ち、違います!」
即座に否定する。
だが説得力は薄かった。
「じゃあなんで掴んでるんだよ」
「……逸れないようにです」
最後のほうは、しゅんと小さな声になる。
市場の人波は相変わらず多い。
さっき実際に迷子になったばかりのルカにとっては、かなり切実な問題だった。
ルドルフは一瞬ぽかんとしたあと、とうとう吹き出した。
「ははっ、学習してるだけ偉い偉い」
「笑わないでください……」
ルカは少し頬を膨らませる。
けれど、掴んだ裾は離さない。
むしろ人の流れが横を通るたび、指先に少し力が入っていた。
ルドルフはそんな様子を見下ろして、呆れたように息を吐く。
「まあ、その方が安心か」
完全に子ども扱いするような声音だったが、振り払うつもりはないらしい。
むしろ歩幅を少しだけ緩める。
ルカがついて来やすいように。
「行くぞ」
「はい」
今度の返事は、さっきより少し安心した声だった。
ルドルフが歩き出す。
ルカもそのすぐ後ろをぴったりついていく。
人混みの中でも見失わないように。
今度は逸れてしまわないように。
服の裾を掴んだ小さな手だけが、二人の距離をしっかり繋いでいた。
市場通りには、旅人向けの店がいくつも並んでいる。
天幕付きの露店。
軒先に商品を吊るした小さな店。
旅商人向けの道具を専門に扱っているらしい、大きな店舗。
通りを歩くだけでも、目に入るものはどれも“旅”を感じさせる品ばかりだった。
丈夫そうな革鞄。
紐で束ねられた携帯食。
使い込まれた旅靴。
厚手の外套。
革の水筒。
小さなナイフや火打ち石。
店先には地図まで並んでいて、遠方の街の名前が細かく書き込まれている。
旅へ出る人間が集まる通りなのだと、一目で分かる光景だった。
ルカはきょろきょろと辺りを見回す。
知らない道具。
見たことのない形の鞄。
頑丈そうな革製品。
どれも新鮮で、つい目を奪われてしまう。
そのたびに人の流れへ気を取られそうになり、慌ててまたルドルフの裾を掴み直した。
「そういや、お前ちゃんと旅用の服持ってんのか?」
前を歩きながら、ルドルフが何気なく聞く。
「えっと……最低限だけです」
少しだけ声が小さくなる。
旅に必要な物をきちんと揃える余裕なんて、正直ほとんどなかった。
着替えも多くはない。
荷物も必要最低限。
今ある物をどうにか使っている状態だ。
「絶対足りてない顔してるな」
「うっ」
図星だった。
ルカの肩がぴくりと揺れる。
ルドルフは振り返りもせず、呆れたように息を吐いた。
「まあ予想通りだけど」
「そんな分かりやすいですか……」
「分かりやすい」
即答だった。
ルカはしょんぼり肩を落とす。
そんな反応を見ながら、ルドルフは通り沿いの店を軽く眺めた。
「まずは靴だな。その靴だと、長旅したらすぐ足やるぞ」
「そんなにですか?」
「そんなにだ」
迷いのない返事だった。
ルカは思わず自分の靴を見下ろす。
今履いているのは、街歩き用の軽い靴だ。
石畳の上を歩く分には問題ない。
けれど、市場へ来る途中だけでも少し歩きづらさは感じていた。
土道。
坂道。
石の多い場所。
そういう道を何日も歩くことを考えると、確かに少し頼りない。
「旅靴はな、歩けるかどうかに直結するから大事なんだよ」
ルドルフはそう言いながら、近くの店先に並んだ革靴をちらりと見る。
「靴擦れした状態で旅とか多分地獄だぞ」
「う……」
妙に現実味のある言い方だった。
ルカはなんとなく足元を庇うように片足を引く。
その様子に、ルドルフが少し笑った。
「あと荷物入れる鞄も見たいな」
「鞄……」
「お前、そのうち荷物抱えて歩くことになるぞ」
言われて、ルカは想像してみる。
両腕いっぱいに荷物を抱えたまま、人混みの中をおろおろ歩く自分。
落としそうになって慌てて。
誰かにぶつかって。
結局また迷子になる未来。
――容易に想像できた。
「……必要ですね」
ものすごく納得した声だった。
「だろ?」
ルドルフは満足そうに頷く。
その横顔はどこか得意げですらある。
市場の喧騒は相変わらず賑やかだった。
けれど今のルカは、さっきみたいな不安よりも、これから何を見るんだろうという好奇心の方が強くなっていた。
旅用の服。
歩きやすい靴。
丈夫な鞄。
わからないもの知らないが多いけれど、それはきっと“旅をする”ための準備なのだ。
そう思うと、胸の奥が少しだけわくわくした。
次回は6月11日に「初めての旅靴」を投稿します。
お楽しみに(^▽^)
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