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キッシュの香りと笑い声

焼きたての香りが、テーブルの辺りまでふわりと流れてくる。

ショーケースの中には色とりどりのキッシュが並び、こんがり焼けた表面が午後の日差しを受けてつやつやと光っていた。


「おや、決まりみたいだねぇ」


おばあさんは楽しそうに目を細めると、ショーケースの前へゆっくり歩いていった。。


「好きなの選びな。決まったら温め直してあげるね」


その言葉に、ルドルフの目がさらに輝く。


「うわぁ……どうしよう……」


ルカは目を輝かせながら並んだキッシュを見比べる。


「これも美味しそうですし、こっちも……」

「ルカお前、完全に迷ってるな」


ルドルフが苦笑する。


「だって種類多いんですよ!」

「まあ分かるけど」


言いながら、ルドルフ自身も真剣な顔でショーケースを見つめていた。


きのことベーコンのキッシュ。

香草入りの肉がごろごろ入ったもの。

魚と白いソースを合わせたもの。

赤や黄色の野菜が綺麗に並んだ彩り豊かなキッシュ。

玉ねぎを飴色になるまで炒めた、甘い香りの漂うもの。


どれも香りが違って、見ているだけで腹が減ってくる。


「……これ、全部うまそうなのが悪い」


ルドルフがぼそっと呟く。

おばあさんはその様子を見て、またくすりと笑った。


「迷うなら半分こにしたっていいんだよ」

「!」


ルカがぱっと顔を上げる。


「その手がありました!」

「お、いいなそれ」


一気に選択肢が広がった。


ルカは改めてショーケースを覗き込みながら、「じゃあこれと……あとこっちも気になります」と指を差す。


「きのこのと、野菜のやつかい?」

「はい!」


ルドルフも腕を組みながら唸る。


「俺は肉のやつ気になるんだよなぁ……」

「香草入りのかい? 今日は出来がいいよ」

「じゃあそれください」


即決だった。


「はやっ」

「食い物で迷いすぎると腹減るだろ」


もっともらしい顔で言う。

だが実際は、香りに完全に負けていた。


おばあさんは慣れた手つきでキッシュを切り分ける。

さく、と軽やかな音がして、焼けた生地が綺麗に割れた。


その瞬間――


ふわっ、と湯気と香りが一気に広がる。


バター。

チーズ。

炒めた玉ねぎの甘い匂い。

香草の爽やかな香り。


「うわ……」


ルカが思わず声を漏らす。

ルドルフも完全に目を奪われていた。


「これは反則級に絶対美味しいやつだろ……」


おばあさんは笑いながら皿へ盛りつけていく。


「飲み物はどうする? スープもあるよ」

「ここスープもあるんすか!?」


またしてもルドルフが勢いよく反応した。


「ルドルフさん反応早いですね…」

「いやだって絶対合うだろこれ!」


ルカもこくこく頷く。


「合います……!」


二人の反応があまりにも素直で、おばあさんはとうとう声を立てて笑った。


「じゃあ、今日はサービスしとこうかねぇ」

「えっ」

「いいんですか?」

「若い子が美味しそうに食べてくれるの見るの、好きなんだよ」


穏やかなその言葉に、ルカは少しだけ目を丸くした。

市場の喧騒は、変わらず暖簾の向こうから聞こえてくる。

けれどこの店の中だけは、時間がゆっくり流れているみたいだった。


おばあさんが温め直したキッシュを皿に並べる。

こんがり焼けた表面から、再び香ばしい湯気が立ち上った。


「はい、お待ちどうさま」


テーブルへ置かれた瞬間、ルドルフの腹がぐぅ、と鳴った。

今度はルカが吹き出す番だった。


「あははっ」

「……笑うなよ」

「さっき散々笑ったじゃないですか」


言い返しながらも、ルカの表情はさっきよりずっと明るい。


「……いただきますか」

「はい、いただきます!」


二人の声が重なる。


その瞬間、店の中にはまた焼きたての香りと、小さな笑い声がふわりと広がった。


「熱いから気をつけなねぇ」


焼き直されたキッシュは、さっきショーケースで見た時よりさらに美味しそうだった。


こんがり焼けた表面。

縁はさくさくに色づいていて、中央にはとろりとした具材が詰まっている。

湯気と一緒に、バターとチーズの香りがふわりと広がった。


「うわぁ……」


ルカが思わず声を漏らす。

目の前に置かれたキッシュを、きらきらした目で見つめていた。


ルドルフも香りを吸い込むように鼻をひくつかせる。


「これ絶対うまい」

「まだ食べてないですよ?」

「匂いで分かる」


妙に真剣な顔だった。


おばあさんは小さく笑いながら、木のカップに入った温かいスープも置いていく。


「冷める前に食べな」

「はい、いただきます!」


今度は二人とも迷わなかった。


ルドルフは香草肉のキッシュを手に取る。

焼きたての熱が指先へじんわり伝わってきた。


「お、ちゃんと持てるタイプなんだな」

「外で食べ歩きする人もいるからねぇ」


おばあさんが答える。


ルカもきのこのキッシュをそっと持ち上げた。

生地はしっかりしているのに、持つとほんの少し柔らかい。


一口かじる。


さくっ。


まず最初に、香ばしい生地の音がした。


そのあとすぐ、中の熱々の具材とチーズの旨味が口いっぱいに広がる。


「……っ!」


ルカの目がぱっと開く。


きのこの香り。

バターのコク。

とろりとした卵の優しい味。


噛むたびにじゅわっと旨味が広がって、思わず頬が緩んだ。


「おいしいです……!」


思わず声が漏れる。


ルドルフも香草肉のキッシュへかぶりついた。


さくっと焼けた生地のあとに、肉汁と香草の香りが一気に広がる。


「……うっま」


低く呟いたあと、もう一口食べる。


「肉めちゃくちゃ入ってるぞこれ」

「ほんとですか?」

「ほら見ろ」


断面を見せると、胡椒と香草で味付けされた肉がごろごろ詰まっていた。


「わ、すごい……!」

「そっちはどうなんだ?」


聞かれて、ルカは慌てて自分のキッシュを見る。


「えっと、きのこがすごく香り良くて……あとチーズがとろとろで……」

「つまり?」

「えっと、すごく美味しいです!」


結局そこに戻る。

ルドルフが吹き出した。


「語彙なくなるくらいうまいってことか」

「だってほんとに美味しいんですよ!」


ルカはむっとしながらもう一口食べる。

その瞬間、熱々のチーズが伸びた。


「あっつ……!」

「ははっ、言ったそばから慌てて食うからだ」


笑いながら、ルドルフはスープを口に運ぶ。


野菜の甘みが溶けた優しい味だった。

歩き回って冷えていた体に、じんわり染み込んでいく。


「……落ち着く味するな」


ぽつりと呟く。


ルカも頷いた。


市場の喧騒は相変わらず暖簾の向こうにある。

けれど、この店の中だけは静かで温かかった。


二人は自然と食べる手を止めずにいた。


「その野菜のやつ、一口交換するか?」

「えっ、いいんですか?」

「半分こするって言ってただろ」


ルドルフは自分のキッシュを少し差し出す。

ルカも慌てて持っていたキッシュを差し出した。


「じゃ、じゃあ交換で……!」


お互いに別の味を一口かじる。


「……あ、美味しい」

「だろ?」


ルドルフは少し得意げだった。


「肉の旨味すごいですね……香草も合ってる……」

「そっちもいいな。野菜甘い」


彩り野菜のキッシュには、じっくり焼かれた玉ねぎの甘さが詰まっていた。

チーズの塩気との相性もいい。


「これ何個でも食えるな……」

「分かります……」


二人とも、完全に食事へ集中し始めていた。

おばあさんはそんな様子をカウンター越しに眺めながら、満足そうに微笑む。


「いい食べっぷりだねぇ」


その声に、ルカは少し照れくさそうに笑った。

けれど次の瞬間。


ぐぅ。


今度はルドルフの腹が、はっきり鳴いた。

数秒の沈黙。

そしてルカが吹き出す。


「あははっ!」

「……笑うなって」

「俺のお腹が鳴るたびに笑うからそのお返しです!」


店の中に、二人の笑い声がまた温かく広がった。

次回は6月8日に「迷子の次に旅支度」を投稿します。

お楽しみに(^▽^)

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