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空腹と焼きたての香り

焼き菓子の甘い香りが、静かな店の中にふわりと漂っていた。

暖簾の向こうでは、相変わらず市場の喧騒が遠く響いている。


ルカとルドルフが小さく笑い合っていると――


「……話は終わったのかい?」


穏やかな声が、静かな店内にゆっくり響いた。


ルカがはっとして振り向く。


店の奥では、店主のおばあさんがカウンター越しにこちらを見ていた。

白髪を後ろでゆるくまとめた、小柄な女性だ。

細い指で磨き終えたカップを布巾から離し、からん、と静かな音を立てながら棚へ戻している。


お店の焼き菓子の甘い香りに混ざって、焼きたてのキッシュの香ばしい匂いが漂う。

暖簾の向こうからは、市場を行き交う人々のざわめきが遠く聞こえていた。


「あ……はい」


ルカは慌てて背筋を伸ばす。

さっきまでコリンの背中を見つめていたせいか、少し反応が遅れてしまった。


おばあさんはそんなルカを見て、優しく目を細める。

それから、暖簾のほうへちらりと視線を向けた。


「さっきの坊や、行っちまったねぇ」


ぽつり、と静かな声。

その言葉に、ルカの胸がまた少しだけきゅっとなる。


「……はい」


小さく頷く。

自分でも分かるくらい、声が少し寂しそうになってしまった。


おばあさんは何も追及しなかった。


「あの子も難しい顔してたけど、根は悪くなさそうな子だったねぇ」


独り言みたいに呟く。

ルカは思わず目を瞬かせた。


(……分かるんだ)


短い時間しか話していないはずなのに。

それでも、おばあさんには伝わっていたらしい。


すると今度は、おばあさんの視線がルドルフへ向いた。


店に飛び込んできた時ほどではないが、まだ少し髪は乱れている。

服の裾にも薄く土埃がついたままだ。


そんな姿を上から下まで眺めてから、おばあさんはくすっと笑った。


「で、こっちが逸れて迷子になってた連れの子かい?」

「逸れて迷子になった連れの子!?」


ルドルフが思わず聞き返す。


「いや待ってくれ、俺は探してた側――」

「逸れたことに関しては、まあ間違ってないですけど……!」

「ルカ、せめて俺が迷子の点だけは否定してれ!?」


ルカが苦笑しながら割って入り、ルドルフはと抗議する。


「だって実際、俺も市場で完全に方向分からなくなってましたし……」

「うっ」


図星だった。


ルドルフが言葉に詰まる。

さっきまで勢いよく喋っていた姿との落差が妙におかしくて、ルカは思わず肩を震わせた。


おばあさんはそんな二人を見て、くすくすと肩を揺らした。

細く刻まれた皺まで柔らかく緩んでいる。


「仲良いんだねぇ」

「えっ」

「どこを見てそう判断したんすか!?」


ルドルフが思わず素っ頓狂な声を上げる。


「いや、俺さっきからこいつ探して市場走り回ってただけ――」

「それがもう仲良しってことさ」


おばあさんは楽しそうに笑った。


「無事に再会できたみたいでよかったよ。さっきまで、この子ずいぶん心配してたからねぇ」


その言葉に、ルドルフがぱちぱちと瞬きをする。


「えっ」


思わずルカを見る。

おばあさんはカウンターへ肘をつきながら、懐かしいものでも思い出すみたいに目を細めた。


「店の外で休んでた時もねぇ、何回も通りのほう見てたんだよ」


からん、と小さくカップが触れ合う音。


「“まだ来ないかな”って顔して」


そう言われた瞬間、ルカの肩がぴくっと揺れた。


「……う」


図星だった。

自覚はあったけれど、人に言われると急に恥ずかしくなる。


ルカはそわそわと視線を彷徨わせた。

落ち着かないまま、指先が服の裾をぎゅっと掴む。


「ほら見ろ、やっぱ不安になってたじゃないか」


すかさずルドルフが言う。

少し得意げですらある声音に、ルカは慌てて顔を上げた。


「うぅ……だ、だって、本当に迷っちゃいましたし……」


しゅん、と肩が落ちる。


市場の人混み。

似たような通り。

どこを見ても初めての景色。


気づいた時には、完全に方向が分からなくなっていたのだ。


「“迷った”って自覚はあるんだな」

「あります……」


小さく答える声は、すっかりしょんぼりしていた。


ルドルフはそんなルカを見て、「なら次から気をつけろよ」と呆れ半分に息を吐く。

けれど、その口調はどこか安心したようでもあった。


おばあさんは、そんな二人を見ながらまた優しく笑う。


「でも、無事だったんだから何よりさ」


穏やかな声だった。


焼き立てのお菓子みたいに温かくて。

聞いているだけで、胸の奥がほっと緩むような声音だった。


ルドルフはふと、店の奥へ視線を向けた。


さっきまでは気づかなかったが、焼き菓子の並ぶ棚のさらに奥には、小さなショーケースが置かれている。


そこに並んでいたのは、色とりどりのキッシュだった。


こんがり焼けた生地。

表面に浮かぶ、とろりとしたチーズ。

湯気の残る具材から、香草やバターの香りがふわりと漂ってくる。


窓から差し込む午後の日差しを受けて、焼き色がつやつやと光っていた。


「……あれ、全部この店のですか?」


ルドルフが思わず目を丸くする。


おばあさんは「そうだよ」と穏やかに頷いた。


「昼時過ぎると少し安くするんだ。売れ残っちゃうともったいないからねぇ」

「え、最高じゃないですか」


即答だった。

ルドルフの目が、完全に“宝箱を見つけた顔”になっている。


「焼き菓子屋かと思ったらキッシュまであるのか……」

「軽食目当てのお客さんも多いからねぇ」


おばあさんはゆっくりショーケースの布を整えながら笑う。

ルカもつられるように奥を覗き込んだ。


「わぁ……」


思わず声が漏れる。


きのことチーズのキッシュ。

香草入りの肉がごろごろ入ったもの。

赤や黄色の野菜が綺麗に並んだ彩り豊かなもの。


形も香りもそれぞれ違っていて、見ているだけで楽しくなる。


焼きたての匂いが鼻をくすぐって、胸の奥までじんわり温かくなるようだった。


「これ絶対うまいやつだろ……」


ルドルフが真剣な顔で呟く。


「ルドルフさん、顔」

「腹減ってる時にこの匂いは反則だぞ」


そう言いながら、ショーケースを覗き込む目はきらきらしていた。


ルカも小さく笑う。


けれどその瞬間、不意に自分の体が空腹を思い出した。


市場を歩き回って、迷子になって。

コリンと出会って、話をして。


気づけば、ちゃんと食事らしい食事をまだしていない。


その事実を思い出した途端――


ぐぅ……。


静かな店の中に、小さな音が響いた。


「あ」


ルカがぴたりと固まる。

数秒の沈黙。

そして次の瞬間、ルドルフがぶっと吹き出した。


「ははっ、めちゃくちゃいいタイミングだな!」

「うぅ……」


ルカは一気に耳まで赤くなる。


「ち、違うんです、今のはその……!」

「いや腹の音だろ」

「そうですけど……!」


恥ずかしさで視線が泳ぐ。

おばあさんはそんなルカを見て、声を立てずにくすくす笑った。


「若い子はちゃんと食べなきゃねぇ」


その言い方があまりにも優しくて、ルカは余計に気恥ずかしくなる。


「腹減ってたんだろ」


ルドルフがまだ笑いを堪えながら言う。


「……はい」


観念したみたいに小さく頷くと、ルドルフは「素直でよろしい」と満足そうに笑った。

おばあさんはショーケースの奥を振り返る。


「よかったら食べていきな。今日はまだたくさん残ってるよ」

「ほんとですか!」


ルカがぱっと顔を上げる。

その反応があまりにも分かりやすくて、ルドルフがまた吹き出しそうになる。


「お前ほんと顔に出るな」

「だ、だって美味しそうですし……!」


ルカは慌てて言い返した。

ルドルフは腕を組みながら、並んだキッシュを改めて眺める。


「ちょうどいいな。せっかくだし、ここで何か買っていくか」

「はい!」


今度は迷いなく返事が返る。

その声は、さっきまでの少し寂しそうな空気を忘れさせるくらい明るかった。


店の中には、焼き立ての香りと穏やかな笑い声が静かに広がっていた。

さっきまで胸の奥に残っていた寂しさが、少しだけ和らぐ。


焼きたての匂いと、穏やかな空気。

市場の喧騒から少し離れたこの店は、不思議と落ち着く場所だった。

次回は6月5日に「キッシュの香りと笑い声」を投稿します。

お楽しみに(^▽^)

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