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すみれはまだ遠い

焼き菓子の甘い匂いが、静かな店の中にゆっくり漂っていた。

暖簾の向こうからは、市場の喧騒が遠く聞こえてくる。

ルドルフは椅子に浅く腰掛けながら、相変わらず興味津々といった様子でコリンを見ていた。


対するコリンは、そんな視線を少し鬱陶しそうに受け流している。

深い紫色の瞳が、ちらりとルドルフへ向いた。


「……あんた、ずっと喋ってんな」


ぼそり、と落ちる声。


「ん?」


ルドルフはきょとんとしたあと、すぐに笑った。


「そりゃ喋るだろ。面白い話が多すぎる」

「面白いか……?」

「面白い」


即答だった。


「空の上に浮かぶ国だぞ? 飛行艇が行き交って、巨大市場があって、雲から水晶が採れるんだろ?」


ルドルフはわくわくした顔のまま身を乗り出す。


「小説家志望からしたら、そんなの宝の山みたいなもんだって」

「ルドルフさん、またネタ集めの話してる……」


ルカが苦笑する。


「だって重要だぞ? 世界観ってやつは!」


ルドルフは力説し始めた。


「例えば、“空の上の港町で暮らす少年”とか絶対いいじゃないか。飛行艇乗りに憧れてたりさ」

「わあ、もう考えてる……」

「あと巨大市場でスリやって生きてる孤児とか」

「…ちょっと治安悪くなったんだけど」

「でも絶対映えるだろ!」


熱弁するルドルフに、コリンは半目になる。


「……ほんと騒がしいな、あんた」

「創作者はだいたいこういう生き物だ」

「嫌な分類」


ぼそっと返す声に、ルカは思わず吹き出しそうになる。


店の奥では、店主のおばあちゃんが静かにカップを磨いていた。

からん、と食器の触れ合う音が小さく響く。


暖簾が揺れるたび、外の賑やかな声が少しだけ流れ込んできた。

その穏やかな空気の中で、ルドルフはふと「んー」と考え込むように顎へ手を当てる。


「いやぁでも、ほんと不思議だよな」


独り言みたいに呟く。


「〔雲の上の島国〕みたいな大国のやつって、もっとこう……」


視線が、何気なくコリンへ向く。


「偉そうでキラキラしてる御曹司タイプばっかりかと思ってた」


その瞬間だった。空気が、ぴたりと止まる。

ルカは一瞬、何が起きたのか分からなかった。


けれど――


コリンの表情を見て、すぐに気づく。

深い紫色の瞳から、すっと温度が消えていた。

さっきまでわずかに残っていた柔らかさが、音もなく引いていく。


ルドルフはまだ気づいていない。


「ほら、いるだろ?」


軽い調子のまま続ける。


「やたら高そうな服着て、“庶民の気持ちなんて分からないね”みたいな顔してるやつ」


ルカの肩がぴくりと揺れた。


「る、ルドルフさん……」


止めようとする。

けれどルドルフは話しながら考え込んでいた。


「そういうやつが実は裏で――」


そこでようやく、妙な静けさに気づいたらしい。

言葉が止まる。

コリンは静かに視線を逸らした。


「……もういい」


ぼそり、と落ちる声。

それだけだった。

なのに。


さっきまで少しずつ近づいていた距離が、また急に遠くなった気がした。

ルドルフがようやく眉をひそめる。


「……え?」


コリンは答えなかった。


ただ、深い紫色の瞳をわずかに伏せる。

その横顔からは、さっきまでの柔らかさが少しずつ消えていくみたいだった。


店の奥で、かたん、と小さく食器の触れ合う音が鳴る。

甘い焼き菓子の香り。

暖簾の向こうから聞こえる市場の喧騒。


そんな穏やかな空気の中で、コリンだけが静かにそこから距離を取っていくようだった。


やがて、小さく息を吐く。


「……もう、あいつら来なさそうだし」


ぽつり、と独り言みたいに落ちる声。


「俺、行く」


淡々としていた。

感情を押し込めるみたいに、必要以上のものを全部削ぎ落とした声。


そう言って、コリンはそのまま踵を返す。


「あ、ちょ……コリン!」


ルカが反射的に呼び止める。


けれど、コリンの足は止まらない。

床板を踏む足音だけが静かに響く。


長い前髪の隙間から見える横顔は、もうこちらを見ようとしていなかった。


(……待って)


そう言いたいのに、うまく声にならない。

さっきまで普通に話していた。少し笑ってくれていた。

あんなに警戒していたのに、小さな声だったけれど名前を呼んでくれた。


なのに今は、また遠くへ戻ってしまうみたいだった。

コリンは暖簾の前まで行って、そこでほんの少しだけ立ち止まる。


外から流れ込む市場のざわめき。

行き交う人々の声。

遠くで鳴る鐘の音。


その背中は、今にも人混みへ溶けて消えてしまいそうだった。

ルカは無意識に一歩踏み出しかける。

その時だった。


「……さっきは」


低い声が、静かに落ちた。

ルカがはっと顔を上げる。


コリンは振り返らない。

けれど、確かに言葉を続けた。


「ひどいことして悪かった」


ぶっきらぼうでも、投げやりでもない。

むしろ、不器用なくらい真っ直ぐだった。

ルカは目を瞬かせる。


コリンの指先が、暖簾の端を軽く握る。

その横顔は見えない。


でも、ほんの少しだけ。

声が掠れて聞こえた気がした。


「匿ってくれて……感謝してる」


最後は、囁きみたいに小さかった。

その瞬間だけ、コリンの肩から力が抜けたように見えた。

誰かに礼を言うことに慣れていないみたいな。

誰かに助けられること自体、きっとあまり知らないみたいな。

そんな、不器用な声だった。


ルカの胸が、きゅっと締まる。


「コリン――」


呼びかけるより先に、暖簾が揺れた。


外の光が、ふっと店の中へ差し込む。

市場のざわめきが一瞬だけ近づいて、それからまた遠ざかる。


コリンの背中は、そのまま人混みの中へ消えていった。

紫色の姿は、すぐに雑踏へ紛れて見えなくなる。


静寂が落ちた。


さっきまで確かにそこにいた気配だけが、店の中に薄く残っている。

ルカはしばらく、暖簾の向こうを見つめたままだった。


もう姿なんて見えない。

それでも、どうしても目を離せなかった。


(……行っちゃった)


胸の奥が、じんわりと寂しくなる。


もっと話したかった。

コリンのことを、もっと知りたかった。


怖がっていたのに優しくて。

不器用な性格だったけれど、ちゃんとお礼を言えて。

寂しそうなのに、ずっと一人で立ってるような人だった。


「……ルカ?」


隣から、ルドルフが少し不思議そうに声をかける。

その声で、ようやく我に返った。


ルカは小さく笑う。

けれど、その笑顔は少しだけ弱かった。


「……一緒にファミリアになろうって、誘いたかったんだけどなあ」


ぽつり、と零れる。


言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛くなった。


きっと断られたかもしれない。

それでも、言ってみたかった。


一人じゃなくていいって。

一緒に旅をしようって。


そう伝えたかったのだ。


ルドルフは何も言わなかった。

ただ、暖簾の向こうを見つめるルカを静かに見ている。

焼き菓子の甘い香りが、静かに漂っていた。


「……悪い」


ぽつり、と。

しばらく黙っていたルドルフが、小さく口を開いた。


「テンション上がりすぎて、俺……あいつになんか悪いこと言ったみたいだな」


珍しく、少しだけ歯切れの悪い声だった。

ルカは暖簾の向こうから視線を外して、隣を見る。


ルドルフは、難しい顔をしていた。

いつもの軽口混じりの表情じゃない。


「俺、別に嫌味で言ったわけじゃなかったんだけどな……」


ぼそぼそと続ける。


「ほら、なんていうか。小説とか読んでるといるだろ? 金持ちで鼻につくやつ」


苦笑混じりに頭を掻く。


「だから勝手に、そういうイメージで喋っちまった」


ルカは少しだけ目を伏せた。


コリンの顔が浮かぶ。

あの時、一瞬で冷えてしまった紫色の瞳。


たぶん。

ルドルフの言葉は、コリンがずっと抱えてきた何かに触れてしまったのだ。


でも、ルドルフに悪気がなかったことも分かる。

彼はただ、思ったことを口にしただけだった。


「……コリン、多分」


ルカはゆっくりと言葉を探す。


「“そういう人”って決めつけられるの、嫌だったんだと思います」


ルドルフが小さく眉を寄せた。


「決めつけ?」

「はい」


ルカは頷く。


「花使いの力のことも、ずっと周りに気味悪がられてたみたいだから」


あの低い声を思い出す。


『俺にとっては、ただの呪いだ』


静かなのに、ひどく寂しそうだった。


ルドルフは少し黙り込む。

やがて、小さく息を吐いた。


「……そっか」


短い一言。

けれど、その声にはちゃんと反省の色が滲んでいた。


「俺、ああいうタイプ初めて会ったけど嫌いじゃないんだけどな」


不意に、そんなことを言う。

ルカが瞬きをした。

ルドルフは苦笑する。


「優秀そうで不愛想で、そにくせ警戒心強くて口悪いのに、お礼はちゃんと言うし」


暖簾の向こうへ視線を向ける。


「しかも、ルカに直接危害は加えてなかったみたいだからな」


その言葉に、ルカは少しだけ目を丸くした。


確かに、最初のコリンなら。

あそこまで警戒していたなら、ルドルフが現れた瞬間に追い出そうとしてもおかしくなかった。


スミレを呼び出した時みたいに、使い花をけしかけることだってできたはずだ。


実際、最初に会った時のコリンは、それくらい刺々しかった。

近づくなと威嚇するみたいに、鋭い空気を纏っていた。


けれど――コリンは、ルドルフには花を向けなかった。


胡散臭いだの怪しいだの言いながらも、本気で攻撃しようとはしなかった。

ちゃんと会話をして。

最後には、ルカに不器用ながら謝ってくれた。


「……優しい人、ですよね」


ルカがぽつりと呟くと、ルドルフは「まあ、無愛想みたいだけどな」と笑った。

それから、少しだけ真面目な顔になる。


「また会えるんじゃないか?」

「え?」

「縁があるやつって、不思議とまた会うもんだぞ」


ルドルフはそう言って、軽く肩をすくめた。


「特に旅の途中ってのはな。狭いようで広いし、広いようで狭い」


ルカは暖簾の向こうを見る。


市場の喧騒。

行き交う人影。

そのどこにも、もうコリンの姿はない。


でも。


最後に聞いた声は、まだ耳に残っていた。


『匿ってくれて……感謝してる』


ルカは小さく息を吐く。


「……また会えたら、今度こそ誘ってみます」

「俺たちのファミリアに?」

「はい」


ルカは少しだけ笑った。


「今度は、ちゃんと最後まで話したいです」


ルドルフはそんなルカを見て、ふっと口元を緩める。


「なら、その時はもう少し迷子癖直しとけ」

「うっ」

「毎回市場で逸れてたら再会イベント以前の問題だからな」

「反省してます……」

「あと、ファミリアに誘うなら一回俺にも相談してくれよ。 いきなりファミリアの一員になりましたじゃ、俺もどう対応したらわからないから」

「はい、すいませんでした…」


ルドルフが声を上げて笑う。

その笑い声につられるみたいに、ルカも小さく笑った。


さっきまで胸の奥にあった寂しさは、まだ少し残っている。

けれど同時に、不思議と。

もう二度と会えない気はしなかった。

次回は6月2日に「空腹と焼きたての香り」を投稿します。

お楽しみに(^▽^)

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