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迷子の休憩

人の流れから外れたその場所は、さっきまでいた通りと比べて、嘘みたいに静かだった。

すぐ隣では相変わらず人が行き交っているのに、ほんの少し位置が違うだけで、空気がやわらぐ。

押し合う気配が薄れ、ざわめきもどこか遠くに感じられる。


「……君、ちょっといいかい?」


不意に、穏やかな声がかかった。

びくりと肩がわずかに揺れる。


反射的に顔を上げると、すぐ横に小さな出店があった。


木の台の上に、籠がいくつも並べられている。

その中には、焼き色のついた菓子がぎっしりと詰められていた。

丸いもの、細長いもの、ねじれた形のもの――どれも素朴で、どこか手作りらしい温かみがある。


ほんのりと甘い匂いが、ゆるやかに漂っていた。

その奥に立っていたのは、年配の女性だった。

白に近い髪を後ろでまとめ、小さく背を丸めながらも、しっかりとした立ち姿。

皺の刻まれた顔には、どこかやわらかな笑みが浮かんでいる。


視線が合うと、その目がふっと細められた。


「大丈夫かい? 連れの人と逸れたか?」


ゆっくりとした口調で、そう問いかけられる。

まるで最初から分かっていたかのような言い方だった。


「無理して歩き回ると、余計しんどいよ。少し休んでいきな」


急かすでもなく、押しつけるでもない。

ただそこに場所を用意してくれるような、そんな言い方だった。


ルカは一瞬、言葉を失う。


さっきまで感じていた、人の波に押されるような感覚とはまるで違う。

この場所だけ、時間の流れがゆるやかになったみたいだった。


「あ……」


口を開いて、すぐには言葉が出てこない。

胸の奥に残っていた緊張が、少しずつほどけていくのを感じる。


「……ありがとうございます」


ようやく、そう言って頭を下げる。

自分でも驚くくらい、声がやわらかくなっていた。

おばあちゃんは、うんうんと小さく頷いた。


「いいんだよ。顔見りゃ分かるさ」


くすっと笑いながら、優しく言う。


その声に、押しつけがましさは一切ない。

ただ自然に、そこにいていいと言われているようだった。


「ほら、そのへん空いてるから。座ってな」


そう言って、店の端に置かれた木の台を軽く叩く。

簡素なものだけれど、今のルカには、それがひどくありがたく感じられた。

ほんの少し迷ってから、ゆっくりとその場所へ足を向ける。


さっきまでのざわめきが、また一歩遠ざかった気がした。

すすめられるまま、店の端に腰を下ろす。

簡単に置かれた木の台だが、立ち続けていた足にはそれだけでもありがたかった。


「なんか飲み物、いるかい?」


やわらかな声が、間を埋めるように差し込まれる。


「い、いえ……大丈夫です」


少しだけ慌てて答える。

けれど、断ったあとも不思議と気まずさは残らなかった。

むしろ、言葉を交わしたことで、胸の奥に溜まっていたざわつきが、少しずつほどけていくのを感じる。

呼吸が、さっきよりも深くなる。


「顔色に出てたよ。人酔いだろ」


くすり、と軽く笑いながら言われて、思わず肩の力が抜けた。


「あ……」


自覚がなかったわけじゃない。

けれど、こうして言葉にされると、どこか可笑しくもなる。


「……俺、そんなに分かりやすかったですか?」


少しだけ照れたように問い返すと、


「ああ。さっきまでのとこは人がとびきり多くてねぇ。初めて来た人だと、あれはきついよ」


おばあちゃんは、当たり前のことのように頷いた。

責めるでもなく、からかうでもなく、ただ「そういうもんだよ」と言ってくれる口調だった。

その言い方に、また少しだけ安心する。

おばあちゃんはそのまま、手元の籠に視線を落とし、慣れた手つきで中を探る。

指先が、いくつかの焼き菓子の間を迷いなく動いて――


「ほら、これでも食べな。甘いもんは落ち着くよ」


ひとつをつまみ上げ、差し出してきた。

ほんのりと温もりが残っているように見えるそれに、ルカは一瞬だけ視線を落とす。

香ばしい匂いが、ふわりと鼻先をかすめた。


「……あの、お金――」


思わず口にする。

けれど、


「いいからいいから。顔色戻ってからでいい」


軽く手を振って、あっさりと遮られる。

まるで大したことじゃない、とでも言うように。

その気軽さに、かえって強く言い返すこともできず。


「……ありがとうございます」


小さく礼を言って、両手でそれを受け取る。

少しだけ温かい。

指先に伝わるその温度が、不思議と心まで緩めてくる。


ゆっくりと、一口かじる。


外側はさくり、と軽い音を立てて割れた。

そのあとすぐに、中のやわらかさが歯に触れる。


噛むほどに、じんわりと甘さが広がった。

強すぎない、やさしい甘さ。

さっきまで張り詰めていた感覚に、静かに染み込んでいく。


「……おいしい」


気づけば、ぽつりと声に出ていた。

自分でも驚くくらい、素直な声だった。

おばあちゃんは、その言葉を聞いて、満足そうに目を細める。


「だろう?」


誇らしげというよりも、どこか嬉しそうに。

その一言が、また少しだけ、この場所を居心地のいいものにした。


そのやり取りだけで、少しだけ肩の力が抜ける。


無意識に入っていた力が、するりとほどけていくようだった。


もう一口、かじる。


さくり、と軽い音。

それに続く、やわらかな食感。


噛むたびに、ほんのりとした甘さがじわりと広がっていく。


さっきまで胸の奥に溜まっていた、ざわざわとした不安が、少しずつ遠のいていくのが分かる。


人の気配も、音も、完全に消えたわけじゃない。

けれど、もうそれに押されるような感覚はなかった。


ただ、遠くで流れているだけのものになる。


呼吸も、自然と深くなる。


吸って、吐いて。


その一つ一つが、ちゃんと身体に戻ってくる。


――大丈夫。


さっき、自分に言い聞かせるように浮かべた言葉。


それが今は、無理に押し込めたものじゃなくて、

静かに、内側に落ちていく。


ちゃんと、自分のものになっていく感覚だった。


「……あとで、ちゃんと買います」


ふと、そんな言葉が口をついて出る。


義務感というよりも、ここにいたいと思ったから。

この場所に、少しでも応えたいと思ったからだった。


おばあちゃんは、その言葉にふっと笑う。


「ふふ、好きなのを好きなだけ選びな」


やわらかく、包むような声だった。


急かすことも、気を遣わせることもない。

ただ、そこにいていいと肯定してくれる響き。

その一言で、胸の奥に残っていたわずかな緊張まで、ほどけていく。


ルカは小さく息を吐いた。


さっきまでのものとは違う、ゆるやかな吐息。

身体の芯に残っていた固さが、ようやく抜けていく。


――ここなら、大丈夫だ。


そう思えた、そのときだった。


「――ちょっと、そこの人」


不意に、声が差し込んだ。

それまでやわらかく流れていた空気を、わずかに切り裂くような響きだった。

びくり、と反射的に肩が揺れる。


ルカは顔を上げる。


すぐ近くに、見知らぬ青年が立っていた。

距離は近い。けれど、その立ち方はどこか落ち着かない。


肩で息をしているわけではないが、呼吸がわずかに速い。

額にうっすらと汗がにじんでいるのが見えた。

視線は定まらない。ルカに向けたかと思えば、すぐに横へ、後ろへと流れていく。


まるで、何かを気にしているように。


あるいは――誰かを。


その様子に、胸の奥がわずかにざわつく。

さっきまで遠のいていた不安が、形を変えて戻ってくる。


「んぇ? あ、ごめんなさい。お邪魔でした……」


思わず、そう口にしてしまう。

声をかけられた理由も分からないまま、反射的に距離を取ろうとする言葉だった。

けれど、


「頼む、少しだけでいい」


被せるように、低い声が落ちてくる。

迷いを断ち切るような言い方だった。

ルカの動きが、ぴたりと止まる。青年は一歩、踏み出す。


その距離は近すぎるわけではないが、確実に踏み込んできたと分かる距離だった。

その顔には、はっきりとした焦りが浮かんでいる。


ただの急ぎではない。

何かに追われているような、余裕のなさ。


もう一度、周囲に視線を走らせる。


人の流れ。通りの向こう。

誰かを探すように――あるいは、避けるように。


そして、ぐっと視線を戻す。


「隠し…いや、そのままでいい。ちょっと匿って」


低く押し殺した声だった。


頼み込むというより、状況を急いで飲み込ませようとするような言い方。

余計な説明をする余裕すらない、そんな切迫がにじんでいる。


ルカの動きが、そこで止まる。その言葉の意味を理解するより先に、空気の変化が伝わってきた。

さっきまでの穏やかさの中に、ひとつだけ異質な緊張が混ざる。

青年の視線は、もう一度だけ周囲をなぞる。

誰かを警戒しているのは、はっきりしていた。


そして、そのまま――ルカの返事を待つように、わずかに息を潜める。


甘い香りも、やわらかな空気も、そのままなのに。

その場にだけ、張り詰めた糸のようなものが、ぴんと引かれていた。

次回は5月6日に「休んでいたはずなのに」を投稿します。お楽しみに(^▽^)

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