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ルカ、迷子になる

人の流れが、急に変わった。


「……っ」


肩に、思いがけない強さの衝撃が走る。

横から無理に割り込んできた誰かの体が、ぐいと押し付けられた。

踏みとどまろうとした足が、わずかにずれる。

その拍子に、視界が一瞬だけ遮られた。

目の前を、色の濃い布と、見知らぬ腕が横切る。


ほんの、瞬きほどの時間。


――そのはずだった。


前を歩いていたはずの背中が――見えなくなった。


「……え?」


思わず、足が止まる。

さっきまで、確かにそこにあった。

視線を少し上げればすぐ見える位置に、迷いようのない目印のように。

手を伸ばせば、触れられる距離。

少し歩幅を合わせれば、追いつける程度の差しかなかったはずだ。


それが、ない。


「ルドルフさん?」


呼んでみる。

自分でも驚くほど、声が小さく出た。

慌てて、もう一度口を開く。


「ルドルフさん!」


今度は、少し強く。

けれど――


声は、人のざわめきにあっけなく飲み込まれた。

あちこちから飛び交う呼び声や、値を叫ぶ声、笑い声に紛れて、形を失っていく。


耳に返ってくるのは、自分の声ではなく、無数の他人の音だけだった。

周囲を見渡す。

そこにあるのは、知らない顔ばかりだ。

すぐ隣をすり抜けていく人。

肩が触れそうな距離で言葉を交わす誰かたち。

目の前を横切る背中、背中、背中。


似たような服。似たような色合い。

動きも、速さも、どこか似通っていて、ひとつひとつを追おうとしても視線が定まらない。

誰が誰なのか、分からない。

さっきまで目印にしていた背中だけが、きれいに消えている。


「……あれ?」


小さく、声が漏れた。

胸の奥で、何かがずれる。


ほんの少し前まで、当たり前にそこにあったはずのものが、

今はどこにも見当たらない――そんな感覚。


視線を動かすたびに、人影が増えていく。

なのに、探しているものだけが見つからない。

その事実だけが、じわじわと浮かび上がってきた。

胸の奥が、少しだけざわつく。

もう一度、周囲を見渡す。


――いない。


さっきまでいた場所も、どの方向だったのか分からなくなっていた。

それでも、ルカは小さく首を振る。


「……いや、大丈夫なはず」


自分に言い聞かせるように呟く。


「ちょっと人が多いだけ……すぐ見つかる」


自分に言い聞かせるように、小さく呟く。

ルドルフは、特別に背が高いわけじゃない。

人混みの中にいれば、埋もれてしまうこともあるくらいだ。


それでも――


ルカにとっては、少し見上げるくらいの高さで。

前を歩くその背中は、自然と目に入る、分かりやすい目印だった。


だから、少し進めば見つかるはずだと、そう思えた。


そう考えて、一歩踏み出す。

人の流れに逆らわないように、肩をすぼめて前へ出る。

視線を上げて、背の高い影を探す。


けれど。


進んでも、進んでも、見えるのは知らない人ばかりだった。


すれ違う顔。横切る背中。

立ち止まって何かを選んでいる人影。

どれも一瞬だけ視界に入り、すぐに流れていく。


似たような屋台。似たような布の色。

吊るされた品物の形も、どこかで見た気がするものばかりだ。


さっき見たはずの景色と、どこか似ているのに――決定的に違う。


「……あれ?」


足が、止まる。

今、自分はどこを歩いているのか。それが、急に曖昧になる。

さっき通った場所に戻ろうと、なんとなくの感覚で方向を選ぶ。

あのときは右だった気がする、いや、左だったかもしれない――そんな曖昧な記憶を頼りに、一歩を踏み出す。


けれど。


目に入るのは、初めて見る店ばかりだった。

並べられている品も、聞こえてくる声も、さっきまでとは違う。


「え……?」


思わず、立ち尽くす。

一瞬、頭の中が空白になる。


何も考えられない、というより――

考えようとしても、うまく形にならない。

方向が、分からない。


右か、左か。

来た道がどこか、それすら曖昧だった。

確かに歩いてきたはずなのに、振り返っても、その痕跡がどこにも見えない。

人の流れが、容赦なく押してくる。


立ち止まっているだけで、肩がぶつかる。

腕が触れる。背中に軽く押される。


「あ、あの、ちょっと……」


思わず声が漏れる。

けれど、誰も気に留めない。

流れは止まらず、むしろその場にいること自体が間違いのように、体が押し出されていく。


足元がわずかに浮くような感覚に、思わず踏ん張る。

流されそうになる体をどうにか支えながら、周囲を見回す。

なんとか端へ――人の流れの外へ出ようと、半ば押し出されるようにして横へ寄る。

ようやく、人と人の隙間に体を滑り込ませる。


「……はぁ」


短く息が漏れる。

さっきよりも、音が大きい。


すぐ近くで叫ばれている呼び声。

値段を競うような怒鳴り声。

笑い声や、言い争う声。


全部が、やけに近い。

すぐ耳元で鳴っているはずなのに――

逆に、何も聞き取れない。

言葉が、意味を持たない音の塊になって押し寄せてくる。


「……っ」


胸の奥がざわつく。

理由ははっきりしないのに、落ち着かない。

呼吸が、少しだけ浅くなる。

吸っているはずなのに、うまく空気が入ってこないような感覚。

吐こうとしても、どこか引っかかる。


周囲の音と、人の気配に押されて、

自分の感覚だけが、少しずつずれていくようだった。


――もうちょい、落ち着け。


ふと、頭の中にその言葉が浮かぶ。


少し前。人の多さに目を輝かせて、あちこちに視線を飛ばしていたとき。

呆れたように、けれどどこか落ち着いた声で言われた一言。

その声音まで、妙にはっきりと思い出せた。


「……そうだ」


小さく呟く。

さっきまで胸の中を占めていたざわつきが、ほんのわずかに形を変える。


「こういうとき……なんか、ないのかな。ファミリアだけの……探知能力、とか……」


半分は冗談みたいな発想だった。

けれど、頭の中で何かを探そうとするだけでも、さっきまでの何も考えられない状態よりはましだった。

周囲を見渡す。


人の流れ。行き交う足。

揺れる布と、並べられた品々。


当然、急に何かが分かるわけじゃない。

それでも、ただ立ち尽くしているよりはいい。


「……とにかく、落ち着こう」


自分に言い聞かせるように言って、ルカはゆっくりと視線を動かす。

流れの端。人の密度が、ほんの少しだけ薄くなる場所を探す。

屋台と屋台の間。布と木の柱のあいだにできた、わずかな隙間。

人の動きが途切れる瞬間を見て、そこへ体を滑り込ませる。

肩に当たっていた圧が、少しだけ軽くなる。


「……っ」


無意識に詰めていた息を、ようやく吐き出す。

壁に背を預ける。

固い感触が、背中越しに伝わってくる。それだけで、自分がちゃんと立っていることを実感できた。


「……はぁ」


ゆっくりと息を吐く。

胸の奥に溜まっていた空気を、少しずつ外に出すように。

もう一度、吸って――吐く。

さっきよりも、ほんのわずかに深く吸える。

ざわめきは消えない。

すぐ近くで交わされる声も、遠くから響く呼び込みも、そのままだ。


けれど。


その中に埋もれていたはずの、自分の呼吸の音が、少しだけ分かるようになる。

吸って、吐いて。その繰り返しに、意識を向ける。


「……大丈夫」


小さく、自分に言い聞かせる。

声に出すことで、ようやく実感が追いついてくる。


「焦らなければ……たぶん、なんとかなる」


さっきよりも、視界がはっきりする。

目に入るものが、ただの塊じゃなく、一つひとつとして認識できる。


人の流れの向き。立ち止まっている人の位置。屋台の並び方。

周囲を見る余裕が、少しずつ戻ってくる。

さっきまでとは違う形で、世界が見え始めていた。





―――――――一方その頃。


「……あれ、ルカ?」


ふと、足が止まった。ほんの些細な違和感だった。

さっきまで背後にあったはずの気配が、すっと途切れている。


振り返る。


人の流れが、途切れなく続いている。

肩を寄せ合うように行き交う人影、その向こうに――見慣れた姿はない。


「……いないな」


短く呟く。


ついさっきまで、確かに後ろにいたはずだ。

少し目を離した程度で、見失う距離じゃない。

もう一度、周囲を見渡す。

だが、目に入るのは知らない顔ばかりだった。


「……まじか、はぐれたか」


小さく息を吐く。

驚きは、ほとんどなかった。


――まあ、こうなる気はしてた。


人の多さに、あれだけ目を輝かせていたのを思い出す。

あっちこっちに気を取られて、視線が定まっていなかった。


そのたびに、少し距離が開きかけていたのも気づいていた。


だからこそ、前を歩きながら何度か速度を落としていたし、

完全に見失わないように、さりげなく位置を確認していた。


それでも――この人混みだ。

一瞬の遮りで、簡単に途切れる。


「……ったく」


低く呟く。呆れたような響き。

けれど、その奥にはわずかな気遣いが混じっている。


「だから言っただろ、も~」


思い出すのは、少し前のやり取り。

浮き足立った様子に、釘を刺すようにかけた言葉。


――もうちょい、落ち着け。


結局、その通りになった形だ。


「……まあ、いっか」


小さく息をつく。焦る必要はない、と自分に言い聞かせるように。


完全に見失ってから、まだ時間は経っていない。

遠くまで行っている可能性は低い。


それに――あいつは、極端に無茶をするタイプでもないはず。


どこかで足を止めている可能性のほうが高い。

そう判断すると同時に、足はすでに動き出していた。


来た道を引き返すように、人混みの中へ踏み込んでいく。


人の流れを正面から受ける形になるが、足取りに迷いはない。

ぶつかりそうな位置を瞬時に読み、無駄のない動きですり抜けていく。


視線が鋭く細められる。

ただ漫然と探しているわけじゃない。

人の流れの偏り。立ち止まっている影の位置。

周囲からわずかに浮いている動き。


そういった“違和感”だけを拾い上げるように、視線を走らせる。


「……この辺りかな…?」


小さく呟く。はぐれた位置。

そこから人の流れに押された場合の動き。


無意識に計算しながら、範囲を絞っていく。

ルカがいる可能性の高い場所を、順に潰していくように。

その動きは、どこか手慣れていた。


まるで――


こういう状況を、何度か経験してきたかのように。


「……ったく、手間かけさせんなよ」


ぼそりと零す。

文句の形をしていながら、その足取りは速い。

探すこと自体に、迷いはなかった。

次回は5月3日に「迷子の休憩」を投稿します。

お楽しみに(^▽^)

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