見失いそうな背中
人の流れに押されるようにしながら、二人は市場の中を進んでいく。
行き交う人々の肩がぶつかり、布と布が擦れる音が絶えない。
呼び込みの声、値段を張り上げる声、笑い声に怒鳴り声――それらが混ざり合って、ひとつの大きなざわめきになっていた。
「ルドルフさん、あれ見てください!」
早速、ルカの声が弾む。
ぐい、と袖を引かれ、ルドルフはわずかに視線だけを向けた。
指差した先には、ずらりと並べられた串焼きの屋台。
肉が炭火の上でじゅうじゅうと音を立て、脂が落ちるたびに小さく火が跳ねる。焦げ目のついた表面が照り、煙と一緒に香ばしい匂いが風に乗って流れてきた。
「ほらほら、焼きたてだ!安くしとくぞ!」
店主が声を張り上げ、串を掲げる。
ルカの足がぴたりと止まりかけた。
「……あれは後だ」
「えへへ、ですよね……」
分かってはいる。分かってはいるが――
視線だけはどうしても離れない。
肉がひっくり返されるたびに音が変わるのが面白くて、店主の手つきまでじっと見てしまう。
「……食う気満々だな」
「ち、違いますよ!ちょっと見てただけです!」
否定しながらも、名残惜しそうにもう一度だけ振り返る。
「ほら、行くぞ」
「は、はい!」
慌ててルドルフの背中を追いかける。
人の流れに紛れないように、少しだけ距離を詰める。
それでも、気を抜くとすぐに誰かに割り込まれそうになる。
少し進むと、今度はパンを並べた店が目に入った。
木の台の上に並べられた丸いパン。焼き立てらしいそれらは、まだほんのりと湯気を立てている。表面はきつね色に焼け、軽く割れた部分から白い中身が覗いていた。
「うわ……これもいい匂い……」
思わず呟くと、鼻をくすぐる甘い香りがさらに強く感じられる。
「焼きたてだよ!今なら一つおまけするよ!」
店の女が笑顔で声をかけてきた。
「え、ほんとですか!?」
「乗るな乗るな」
即座にルドルフが割り込む。
「全部に反応してたら進まないぞ」
「うぅ、分かってますけど……!」
そう言いながらも、ルカの足取りは明らかに遅くなっていた。
視線だけがパンの山を追いかけている。
「後で一緒に戻ろう。な、約束」
「……はい」
渋々と頷きながらも、どこかほっとしたような顔になる。
さらに進めば、空気が少し変わった。
金属の擦れる音が、耳に届く。
武器屋だった。
壁にずらりと剣や槍が並び、陽の光を受けて鈍く光っている。刃はよく手入れされているのか、どれも無駄な曇りがない。
足元には短剣や革の防具、手袋などが無造作に置かれていた。
「……すごい……」
ルカは思わず立ち止まる。
先ほどまでの賑やかな色合いとは違い、ここにはどこか張り詰めた空気があった。
「これ、本物ですよね?」
「当たり前だろ。飾りでこんな重いもん置くか」
ルドルフはそう言いながら、壁にかけられていた短剣の一本を手に取る。
軽く振って、重さとバランスを確かめる動きに無駄がない。
「……ほら」
差し出され、ルカは戸惑いながらも受け取った。
「え、いいんですか?」
手に乗せた瞬間、ずしりとした重みが伝わってくる。
「うわ……重い……」
思っていたよりもずっと現実的な重さだった。
見た目の“かっこよさ”とは違う、道具としての存在感がある。
「振り回すもんじゃないからな。それくらいはある」
「これで戦うんですか……」
ルカはおそるおそる刃の部分を眺める。
光を反射するそれは綺麗で、同時に少しだけ怖かった。
「指切るなよ」
「や、やめてくださいよ!」
慌てて持ち直し、慎重に元の場所へ戻す。
その様子を、店の奥にいた男がじっと見ていた。
「気に入ったか?」
低い声がかかる。
「い、いえ!見るだけで……すみません!」
「壊さなきゃ問題ねえよ」
男は短くそう言うと、再び別の客へ視線を移した。
ルカは小さく息を吐く。
「……なんか、ちょっと緊張しますね」
「武器屋はそんなもんだ」
ルドルフは興味を失ったように背を向ける。
「ほら、行くぞ」
「はい」
再び人の流れへと戻る。
さっきまでよりも、少しだけ音が大きく感じた。
笑い声も、呼び声も、どこか遠くと近くが混ざったように響いている。
ルカは一度だけ後ろを振り返り、並んだ剣をもう一度見た。
――すごい場所だ。
胸の奥でそう呟きながら、再びルドルフの背中を追いかけた。
ルドルフは気にした様子もなく歩き出す。
その背を追いながら、さらに奥へと進んでいくと――ふと、空気が変わった。
さっきまでの喧騒が、ほんの少しだけ遠のく。
人通りが減ったわけではないのに、声の響き方が違う。どこか押し殺したような、くぐもったざわめきに変わっていた。
並ぶ店も、先ほどまでとは様子が違う。
布で半分覆われ、奥が見えない店。
暗い色の瓶が整然と並ぶ棚。中身は濁っていたり、逆に不自然なほど透き通っていたりする。
奇妙な形の仮面や、背表紙の擦り切れた古びた本が、無造作に積み上げられていた。
鼻をつく匂いも変わる。
甘さや香ばしさに混じって、どこか薬品のような、あるいは焦げた草のような匂いが漂っていた。
「……ここ、ちょっと雰囲気違いますね」
ルカは思わず声を潜める。
理由は分からないが、大きな声を出してはいけない気がした。
「まあな。こういうとこは表よりクセが強い」
ルドルフは足を止めることもなく、ちらりと横目で店を覗き込む。
視線は鋭いが、警戒というよりは“見慣れている”それだった。
「クセって……」
「怪しいって意味だ」
あっさりと言われて、ルカは思わず一歩後ずさる。
その動きに合わせたように、どこかの店の奥で何かが小さく音を立てた。
視線を向けると、誰かがこちらを見ている気がして、慌てて逸らす。
――見られている。
そんな感覚だけが、背中に残った。
そのときだった。
「おい、そこの坊主」
低く、よく通る声がかかる。
「はい?」
反射的に振り向く。薄暗い店の奥。
布の影に隠れるようにして、一人の男が立っていた。顔の半分が影に沈み、目元だけがかろうじて光を拾っている。
こちらを値踏みするような視線だった。
「それ、気になるのか?」
男の顎が、わずかに動く。
つられるように視線を辿ると、小さな瓶が棚の上に置かれていた。
中には、淡く光る液体。ゆらゆらと揺れているようにも見えるが、風はない。
「え、あ……」
ただ見ていただけなのに、声をかけられたことで急に“選ばされた”ような気分になる。
何と答えればいいのか分からず、ルカは言葉を濁した。
「それは珍しい代物だぞ、ここじゃなかなか手に入りにくい」
男は一歩、わずかに前へ出る。
影が揺れ、顔の輪郭が少しだけはっきりする。
「今なら安く――」
「やめとけ」
短く、低い声。
男の言葉を途中で断ち切るように、ルドルフが割って入った。
同時に、ルカの肩を軽く引く。
ぐい、と引かれる感覚に、ルカは半歩後ろへ下がる。
「……何だ、冷たいな」
店主らしき男は、わずかに目を細めた。
口元が歪むが、それが笑いなのか不機嫌なのかは分からない。
「客に勧めただけだろう」
「そういうのに手出すと後々に面倒事になる」
ルドルフは視線を外さずに答える。
その声音は平坦だが、わずかに硬い。
「で、でもちょっと気になります……」
ルカは小さく口を挟む。
瓶の中の光が、どうしても気になってしまう。
「今は気になるだけにしとけ」
ぴしゃり、と言い切られる。
それ以上言わせない、という響きだった。
「……はい、わかりました」
ルカは素直に口を閉じる。
男はしばらく二人を見ていたが、やがて興味を失ったように肩をすくめると、奥の影へと引っ込んだ。
ふっと、視線の圧が消える。
「ほらルカ、行くぞ」
「は、はい」
ルドルフに促され、ルカは急いでその場を離れる。
背を向けたあとも、しばらくは誰かに見られている気がして、無意識に肩に力が入った。
人の流れへ戻ると、先ほどまでの喧騒が少しだけ安心に感じる。
「……なんか、怖かったです」
「だろうな」
ルドルフは短く答える。
「だからさっき言っただろ。ああいうとこはクセが強いって」
ルカは小さく頷きながら、もう一度だけ振り返る。
さっきの店は、他の店と同じようにそこにあるはずなのに――
どこか、さっきよりも暗く見えた気がした。
どん、と横から強くぶつかられる。
「うわっ!」
視界がぐらりと揺れた。
肩に衝撃が走り、ルカは思わず足をもつらせる。踏みとどまったものの、体が一瞬、人の流れに飲まれかけた。
「――っ」
誰かの腕がかすめ、布が擦れる感触が残る。
バランスを崩しながらもどうにか体勢を立て直し、慌てて振り向いた。
けれど、そこにはもう誰もいない。
同じような背丈の人影、似た色の服、似たような動き。
ぶつかってきたはずの人物は、最初からいなかったかのように人混みの中へ溶けていた。
「……え?」
思わず声が漏れる。
「大丈夫か?」
すぐ後ろから、ルドルフの声。
「あ、はい……びっくりしました」
胸を押さえながら、浅く息を吸う。
鼓動が少し早い。ぶつかられただけなのに、それ以上の何かがあったような感覚が残っていた。
「……混んでるとこういうのもある」
ルドルフはそう言いながら、周囲に視線を巡らせる。
ただの確認――のようでいて、その目つきはわずかに鋭かった。
「ちゃんと周り見とけよ」
「すみません……」
小さく謝りながら、ルカもあらためて周囲を見渡す。
さっきと同じ市場のはずなのに、景色が少し違って見えた。
人の流れが速い。
さっきよりも、押される力が強い気がする。
肩がぶつかるたびに、体が持っていかれそうになる。
誰かの声がすぐ耳元で聞こえたかと思えば、次の瞬間には遠ざかる。
「安いよ安いよ!」
「どけよ、邪魔だ!」
「こっちだ、早くしろ!」
いくつもの声が重なり合い、方向感覚を曖昧にしていく。
音が近い。
いや、近いというより――囲まれているような感覚だった。
「……?」
違和感に、ルカはわずかに眉をひそめる。
さっきまで楽しかったはずの喧騒が、少しだけ息苦しく感じる。
無意識に、ルドルフの背中を探す。
「……あ」
すぐ前にいるはずのその姿を確認して、ほんの少しだけ安心する。
けれど同時に、気づく。
――今、見失ったら。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
「行くぞ。道端は長居する場所じゃないぞ」
ルドルフが短く言い、再び歩き出す。
「はい」
慌ててその背中を追う。
離れないように、さっきよりも少しだけ距離を詰める。
それでも――
人の流れは容赦なく、二人の間に入り込んできていた。
今気が付きました。3日に1回投稿すると言いましたが1日ズレてました…すみませんでしたm(*_ _)m
次回は4月30日に「ルカ、迷子になる」を投稿します。
お楽しみに(^▽^)
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