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ルカ、初めての市場へ

家々がまばらになってきた頃だった。

さっきまで続いていた低い石造りの家並みは、いつの間にか途切れ途切れになり、代わりに乾いた土の道と、ところどころに背の低い草が目立つようになっている。風もさっきよりよく通り、少しだけ匂いが混じりやすくなっていた。


遠くのほうから、ざわざわとした音が流れてくる。

最初はただの風の音かと思ったそれは、耳を澄ませるほどに輪郭を持ちはじめる。


人の声。呼び込みの声。何かを叩くような、規則的な音。

金属が触れ合うような高い音と、木を打つような低い音が混じり合い、妙に賑やかな響きを作っていた。

それに混じって、焼けた匂いや、甘い香りが風に乗って届いてくる。


焦げた肉のような香ばしさ。

砂糖を溶かしたような甘ったるい匂い。

香辛料の刺激的な香りが、鼻先をくすぐる。


「……?」


ルカは顔を上げる。

歩きながらも足を止めかけ、少しだけ目を細めて前方を見た。


視界の先。道の向こうに、ひときわ広がる影が見えた。

建物が、密集している。

それもただ並んでいるのではなく、折り重なるように、ぎゅっと詰まっているように見える。


けれど、それは町というより――


屋根の高さも形もばらばらで、整然とした街並みとは違う。布を張った簡易な屋根や、木組みだけの仮設のような建物が入り混じっているのが遠目にも分かる。


「……あれって」


思わず足が少しだけ速くなる。

無意識のうちに歩幅が広がり、靴が土を軽く蹴った。

横を歩いていたルドルフは、その変化に気づいてちらりと視線をやる。


「お、見えてきた、見えてきた、あそこが市場だな」


あっさりと言ったその声は、どこか慣れた響きを持っていた。


「やっぱり……!」


ルカの声が、少しだけ明るくなる。

ぱっと表情がほどけ、目がはっきりと輝いた。


「話には聞いてたんですけど……こんなに大きいんですね」


思わず立ち止まりそうになりながらも、視線は前へ前へと引き寄せられていく。

近づくほどに、その規模がはっきりしてくる。

通りがいくつも重なって、奥が見えない。人の流れが幾重にも分かれ、また合流しているのが分かる。


「あれ、道……一本道じゃないんですね」

「そりゃな。でかい市場はだいたい迷路みたいになってる」


ルドルフは軽く笑いながら言う。


「俺ほかの人たちから、小さい町ひとつ分くらいあるって聞いたことあります」

「俺も前そうやって聞いた。かなり広いよなここ」


肩をすくめながら、ルドルフは視線を市場へと向けた。

彼自身も何度か来たことはあるものの、その広さには毎回少しだけ圧倒される。


風がまたひとつ吹き抜ける。今度はさっきよりもはっきりとした匂いが届いた。

焼き立てのパンの香り。果物の熟した甘い匂い。

どこかで煮込まれているスープのような、温かい匂い。


ルカの喉が小さく鳴る。


「……いい匂い……」


ぽつりと漏れた言葉に、ルドルフはくっと笑った。


「腹減ってきたか?」

「いや、だって……これのにおいはずるいですよ」


ルカは少し照れたように言いながらも、視線は完全に市場に釘付けになっている。


「……ルカ?絶対に迷うなよ」

「えっ?」


不意にかけられた言葉に、ルカは一瞬固まる。それから、慌てて背筋を伸ばした。まるで見られていたのがばれた子どものように、ぴしっと姿勢を正す。


「だ、大丈夫ですよ!俺もう16歳なんですから!」


胸を張って言い切る。けれどその声には、ほんのわずかに浮ついた調子が混じっていた。


そう言って胸を張るものの、その視線はすでに左右へ忙しなく動いている。

市場の外縁に並び始めた露店が、次々と目に入ってきていた。


色とりどりの布。風に揺れて、光を受けてきらきらと輝く。

鮮やかな赤や青、深い緑に金の刺繍。見たことのない模様が織り込まれているものもある。風が吹くたびに、布同士が擦れてさらさらと小さな音を立てた。


「うわ……あれ、すごいですね……」

「目立つだろ。ああいうのは遠くからでも客引けるからな」


ルドルフはちらりと横目で見ながら、特に感動した様子もなく答える。


山のように積まれた果物。

丸くて黄色いもの、細長くて紫色のもの。皮にまだ土がついているものもあれば、艶やかに磨かれているものもある。名前も知らない果実が無造作に並べられている。


「これ……食べられるんですかね」

「売ってるんだから食えるだろ」

「いや、そうですけど……なんか毒ありそうなのも混じってません?」

「見分けつかないなら手ぇ出すなよ」


軽く言われて、ルカは「ですよね……」と小さくうなずいたが、興味はまったく薄れていない。


見たことのない道具。

金属でできた奇妙な形の器具や、用途の分からない木製の道具が所狭しと置かれていた。歯車のようなものが付いた箱、やけに長い柄のついた刃物、用途がまるで想像できない曲がった金属。


「……あれ、何に使うんでしょう」

「さあな。農具かもしれないし、ただのガラクタかもしれん」

「ガラクタ売るんですか?」

「売れるなら売るんじゃないのか?」


あっさりとした返答に、ルカは「そんなものなんですか……」と呟きながらも、やはり目を離せないでいる。


足が、自然と前に出る。気づけば、さっきよりも半歩、さらに半歩と、ルドルフより前へ出ていた。

人の流れも少しずつ濃くなり、肩と肩が軽く触れ合う距離になってくる。気を抜けば、そのまま流されてしまいそうだった。


「……おい、おーい、ルカ! 勝手にどこに行くんだよ」


背後から呼ばれて、ようやく我に返る。

はっとして振り向くと、少し後ろでルドルフが手を上げている。


「え、あ、はいっ!」

「はい、じゃない。もうちょい落ち着け」


ルドルフが呆れたように言う。

けれどその口調は、完全に叱っているわけではなく、半分は面白がっているようでもあった。


「ほら、今ので二歩くらい前出てたぞ」

「え、そんなにですか?」

「そのままあと十歩も行けば普通に俺見失うからな」

「うっ……気をつけます」


そう言いながらも、ルカの視線はまたすぐに横へ流れる。


「いや、でも……!」


ルカは言い返そうとして、言葉を探す。

視線はまた市場へと吸い寄せられ、口だけが遅れて動いた。


「ちょっとだけ、楽しみで……」


そう言って、小さく笑った。

その笑みは、どこか隠しきれない期待に満ちていて、普段よりもずっと無防備だった。

その表情は、いつもより少しだけ子どもっぽい。


「ほら見ろ、気になりますって顔に出てる」

「えっ、そんなにですか?」

「完全にお前観光客の顔だな」

「観光じゃないですけどね!?」


慌てて言い返すルカに、ルドルフは肩をすくめて笑う。

ルドルフはそれを見て、ほんの一瞬だけ目を細める。

それから、わざと軽い調子で肩をすくめた。


「……まあ、テンション上がって俺から逸れて迷子にならなければいいけどな」

「なりませんって! 俺もう16歳になってるんですから!」


即座に返ってきた言葉は勢いだけは十分だったが、その直後、ルカの視線はまた別の屋台へと飛んでいく。


串に刺さった肉がじゅうじゅうと音を立てて焼かれている。

脂が落ちるたびに火がぱちっと弾け、小さな炎が揺れた。香ばしい煙がゆらりと立ち上り、鼻を強く刺激する。


「うわ……あれ絶対美味しいやつですよね……」

「見りゃ分かる。 俺もすごい美味しそうに見える」

「……食べに行ってもいいですか?」

「入ってすぐに止まるな」


ぴしゃりと言われて、ルカは「ですよね……」と肩を落とす。

だが足は、ほんの少しだけそちらへ寄ってしまう。


ルカの足が、また少しだけそちらへ寄る。


「……こらこら、宣言しているそばから離れていくんじゃない」

「い、いや今のは匂いが!」

「匂いで歩くな」

「無理ですよこれは!」


半分本気で抗議するルカに、ルドルフは呆れたように息をつく。


言い訳をしながらも、目は完全にそちらを追っている。

店主が串をひっくり返す手つきや、肉の焼け色までじっと見てしまっている。


ルドルフはため息をつきつつ、軽くルカの肩を叩いた。


「とりあえず、中入るぞ。立ち止まってると人の迷惑にもなるし余計流される」

「はい!」


返事だけはやけに素直で元気だ。


「あと、どうしても気になるなら後で戻ればいい」

「……戻れるんですか?」

「迷わなければな」

「うっ……」


一瞬で弱気になるルカに、ルドルフは小さく笑った。


「だから離れるなって言ってるだろ?」

「はい、ちゃんとルドルフさんについていきます!」


返事だけは元気よく、ルカはうなずく。

そう言って、ルカはルドルフのすぐ横へと歩幅を合わせた。


「ほんとに離れるなよ」

「分かってますって」

「今の時点で信用は半分くらいだけどな」

「えっ、そんなに低いんですか!?」


軽口を叩き合いながらも、ルドルフはさりげなく歩く速度を少しだけ落とす。ルカが遅れないように、そして不用意に前へ出すぎないように。


二人はそのまま、人の流れの中へと足を踏み入れる。

途端に、空気が変わった。

ざわめきが一気に近づく。

それまで遠くに聞こえていた音が、四方八方から押し寄せてくるようだった。

人の声が重なり合い、笑い声や呼び声が絶え間なく響く。


「安いよ!」「こっち見ていけ!」「今朝取れたばかりだ!」


威勢のいい声が飛び交い、どこからともなく値段のやり取りをする声も混じる。

肩が軽くぶつかり、誰かの足音がすぐ横を通り過ぎる。

荷物を抱えた人、急ぎ足の人、立ち止まって商品を見ている人――人の流れは一様ではなく、気を抜けばすぐにぶつかりそうになる。


「うわ……人、多いですね」

「だから言っただろ。立ち止まるなって」


ルドルフは前を見たまま言い、軽く手で進む方向を示す。ルカは「はい」と頷きながら、慌ててその後ろに続いた。


視界は一気に色で埋め尽くされた。

布、果物、金属、木、煙。

あらゆるものが混ざり合い、目が追いつかないほどだった。


頭上には布が張られ、日差しを柔らかく遮っている。その隙間から差し込む光が、色とりどりの品に反射して、きらきらと揺れていた。

足元には木箱や樽が並び、通路は思ったよりも狭い。


「ルカ、右側にもうちょっと寄れ」

「あ、はいっ」


言われるままに身を寄せると、大きな荷物を担いだ男がすぐ横を通り過ぎていく。風と一緒に、干した魚のような匂いが一瞬漂った。


「……すごい……」


ルカが小さく呟く。

その声は、ざわめきにほとんどかき消されながらも、確かに驚きと高揚を含んでいた。


「全部が動いてるみたいだ……」

「まあ、実際ほぼ動いてるからな」


ルドルフはそんなルカを横目で見ながら、苦笑する。


「だから言っただろ。広いって」

「はい……これは、思ってたより……」


言いかけて、言葉が続かない。

視線は次々と移り変わり、ひとつのものに集中する暇もない。


焼き菓子を並べる店。

細かい細工のされた装飾品。

何かの皮をなめしているらしい職人の手元。


「ちょっと待ってください、あれ……」

「待てない、待たない」

「ですよね……」


即答されて、ルカはしょんぼりとしつつも、足は止めない。

代わりに、また新しい光景に目を奪われる。


「あ! ルドルフさん、あっちに――」

「見るだけなら歩きながらにしろ」

「は、はい……!」


少し忙しないやり取りを繰り返しながら、二人は進んでいく。

人の流れに押されるように、けれど確かに自分たちの足で。


ときどき肩がぶつかり、足を止めそうになりながらも、ルドルフがさりげなく進路を選び、ルカがそれに必死でついていく。


ざわめきの中へ。

次回は4月27日に「見失いそうな背中」を投稿します。お楽しみに(^▽^)

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