64 大庭景郎(一)
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カガが神殿内へ突っ込んでくる。
俺はその直前に、側面に並ぶ柱の一本に飛びついていた。
柱に沿って垂らしてある縄を掴む――と同時に、破壊された壁や桟に巻き込まれ、地面を転がる。
しかし縄は絶対に離さない。俺にとってこの縄こそが文字通りの命綱だからだ。
吹き飛ばされる俺の勢いのままに引かれた縄は、まっすぐに天井へのぼり、梁の辺りで別の縄に繋がれて二つに枝分かれしている。
ひとつは、四隅を切って展開した状態で吊り天井のように張り巡らせていた蚊帳の結びを解いた。蚊帳の上にまんべんなく敷き詰めていた粉が、いっせいに降り注ぐ。
そしてもうひとつは、さらに六つに連結分岐して周囲の柱や梁を経由して――
カガの頭部に何重にも巻き付いた。龍を捕らえるために仕掛けた罠だ。
不意に動きを封じられたカガが、めちゃくちゃに暴れる。
だが複雑に絡みついた縄は、龍が暴れるほどにますます強固に獲物を締め上げていく。
この仕掛けは、いわば蜘蛛の巣だ。一本一本は弱くとも、幾重にも巻き付き、周囲の構造物と連結することで、どうにか龍を押さえられている。
俺はカガの頭部の側面に回り込んだ。罠は急場で拵えたにしては上手く作動している。とは言え、全てが計画通りというわけではない。
この縄は、本来なら龍を捕らえた時点で柱に結んでしまう予定だった。しかし今の俺は右腕が使いものにならなくなっているために、自力で引き続けなければならなかった。
しかもカガの復活程度――巨大化とその膂力はこちらの想定を超えていた。引く手を弛めると、そこを手がかりにしてたちまちのうちに捕縛を破られてしまいそうだ。
カガが暴れ、柱がきしみをあげる。
どうにも芳しくない状況だった。
このまま柱を折られ建物が倒壊するのが早いか、縄が引きちぎれるのが早いか、はたまた俺の左腕までもが負荷の限界を越えて壊れてしまうか。膠着状態にすらさせてもらえない。
何よりも問題なのは、俺の状態だ。昨夜から進行している肉体強度の低下に加えて、いつしか身体感覚まで鈍り始め、しかもそれらの症状は加速度的に悪化していた。
それが意味するところを、考えなくもない。しかし今は、あくまで局面の一要素として捉えるべきだろう。
長期戦は不利――いや、モユルさんの指摘通り、始めから望むべくもないのは火を見るよりも明らかだ。
視界は、もうもうと立ち込める粉塵に白く煙っている。蚊帳の上に仕掛けていたのは、都を出る時にユラさんから手渡されていた粒子状の粉に薄力粉を混ぜたものだ。
かなり高い比重を持っていたその粉について、ユラさんからは混合比の指示があっただけで、成分などの具体的な説明はなかった。しかし火薬の類か、少なくとも酸化剤を添加されたものであることは間違いないだろう。
俺の狙いは――そう、粉塵爆発だ。初めてスサと手合わせしたときに試みようとしたこともあって、ユラさんには俺の考えなどお見通しだったらしい。
なんら専門的な知識を持たない俺に思いつくことが出来るのは、この粉塵爆発かテルミット反応くらいなものなので、彼女なら当然かも知れない。
――たぶんこいつなら、鈍化の結界の中でも使えるはずだよ。
ユラさんはそう言った。それで俺は、空気そのものに粘性が付与され、流動速度が大幅に減衰している鈍化の結界内での粉塵爆発が、そもそも不可能だったかもしれないことに気がついた。
対象を鈍化の結界に捕らえた上での粉塵爆発は、長らく俺にとって最後の手段、奥の手として考えていたのだが、爆発可能濃度の変動による不発の可能性までは考えていなかった。
だから、この遠い異世界の地でユラさん――いや、由良六花叔母さんと出会えたことは、本当に幸運だったと思う。
俺が産まれたその日、時を同じくして忽然と姿を消して神隠しにあったと言われる当時十九才の誕生日を迎えた六花叔母さんが、誰もが天才と認める才媛だったことは両親から繰り返し聞いていた。
いま神殿に充満している粉塵は、その天才の六花叔母さんが調合したものだ。
そしてそいつは、鈍化の結界内でも使えるほどの爆発性を備えているという。
では、結界を使用しない通常空間での威力は、いったいどれ程のものか。
俺は唾を呑み込んだ。
覚悟を、決める時が来た。
御簾で囲まれた板間に設けられた祭壇の前には、練火盤が置いてある。神殿の住施設にあった二つのうちの一つで、もう一つは祭壇の横手から奥へ続く廊下に設置している。
もっとも都合のいい展開としては、ここでカガを捕らえ、廊下の安全圏から練火盤を投げ込むことだったが、現状がこれではどうあがいても不可能だった。
そして今、次善の策を講じている時間も、怖気ついている時間もなかった。もとより分の悪い、直接戦闘に及んだ時点で下策と言うべき戦いだ。ここでカガを放してしまえば、もう打つ手はない。為す術もなく蹂躙されるだろう。
カガの情けに頼ることもできない。目を見れば判る。カガは既に理性を手放している。たぶん、敢えてそうしている――いや、そうしてくれているのだ。
カガが幾ばくかにでも理性を保ったままだったら、こんな見え透いた罠に掛かっていた訳がない。もうとっくに終わっている。
つまり、敢えて思考を放棄し獣と化したことこそが、カガの最後の情け――俺たちにくれたチャンスなのだ。
そこに一縷の望みを賭ける。選択の余地はない。
唾を呑み込み、俺は縄を離した。
同時に廊下を目掛けて駆ける。縄は絡みついたままなので、手を離したとたんにカガが解放される訳ではない……が。
自らの視界に侵入してきた俺を、カガが見逃してくれるはずもなかった。
すかさず放たれる衝撃波。
至近距離で直撃をくらい、俺は頭を抱えて意識を手放さないように耐えながら、吹き飛ばされて宙を舞う。
そのまま壁に叩きつけられ、受け身もとれずに地面に落ちた。
暗転していた視界が戻ってくる。
目の前にあったのは、練火盤。そして、壊れた祭壇の破片だった。
どうやら祭壇の中に叩きこまれたらしい。やはり都合よく廊下へ飛ばしてはくれない。だが廊下は祭壇のすぐ横だ。俺は体中を駆け巡る痛みを無視し、のしかかっている祭壇をはね飛ばそうとして――そのままくずおれた。
身体が思うように動かない。
それでも何とか起き上がろうともがく。
何かが引きちぎれた音がした。見ると、衝撃波でさらに攪拌された粉塵の中で、カガが縄の拘束から逃れようとしていた。
もう、間に合わない。
俺は賭けに負けたことを覚った。
非情な現実が、そこにあった。乾坤一擲と言えば聞こえはいいが、そうせざるを得ない状況に追い込まれた時点で、読みと状況判断が甘かったことを証明している。
カガがついに全ての縄を引きちぎった。俺は未だ祭壇の中から這い出ることもできない。
これが現実。俺は、負けたのだ。
だが、まだだ。
このまま終わらせはしない。賭けには負けたが、ただ負けただけではない。事の成否はどうあれ、一つの選択と行動が、次なる一手を生んでいた。足掻く余地を与えてくれたのだ。
覚悟はできている。
のろのろと腕を伸ばす。指先が練火盤に触れた。
点火つまみを捻る。
瞬間、空間が破裂した。




