65 大庭景郎(二)
……気を失っていたのは、そう長い時間ではなかったと思う。祭壇に埋もれていたお陰で、致命的なダメージは受けずにすんだようだ。
意識のはっきりしないまま目を開くと、倒壊した板間と、崖の方まで吹き飛ばされたカガの巨体が見えた。
気絶しているらしいカガは、体長の半分ほどを崖に垂らしているが、そのまま滑り落ちていくこともなく、すんでのところで引っ掛かっている。
止めを、刺さなくては。なかなか焦点を定めてくれない思考にもどかしさを感じながらも、そう思う。
そうだ、カガを崖下の淵へ落とすんだ。そうすれば、後はモユルさんが龍脈の力を乗せた解術で、この戦いに終止符を打ってくれる。
俺は祭壇の中から這い出そうとして、鼻から妙な息を漏らした。
起き上がるどころか、指一本として動かない。自分の状態も把握できない。
俺は今、どうなっているんだろう。
伸ばしたままの左腕を見ると、肌が露出していた左手が、原型を留めていなかった。
それを見て初めて、身体のどこにも痛みを感じていないことに気付いた。全ての感覚が失われている。目の前にある自分の腕すら、まるで作り物のようだ。
身体が動かない。動けない。何も……できない。
そう理解したとたんに、何も感じないはずの身体が重くなった気がした。
ここまで……なのか?
そんな言葉が心に浮かぶ。
決して考えてはいけなかったその言葉が、たちまちのうちに俺の視界を暗くする。
闇の中には、絶望と諦観と虚無が蠢いていた。空から、地面から、この身体から滲み出すそれらが、甘やかに囁く。
もう諦めてしまえ、ここまでやれただけでも充分じゃないか。
そう……かも知れない。
圧倒的に不利な、綱渡りのような戦いだった。何もかもが紛い物の俺には、そもそも荷が勝ちすぎていたんだ。
それでもカガを行動不能にまで追い込んだ。引き分けには持ち込めたのだ。むしろ出来すぎなくらいじゃないか。
瞼が落ちていく。
風景が意味を失っていく。
このまま眠ってしまおうか。
ぼやけた視界の中で、何かが、かすかに震えた。
あれは――あれは――
カガだ!
俺は急激に覚醒した。
動いたのはカガだ。まさか、もう気絶から覚めようとしているのか。
さっきまでの自分を呪う。こんなところで終わるなんて、冗談じゃない。この体は生身ではない。俺はまだタマヒに分解されていない。まだ動けるはずなんだ。
爆心地で直撃をくらい満身創痍ながらも、カガの方にも分解される気配はない。神と呼ばれる名と、その巨躯に相応しい生命力を備えているのだ。あるいは爆発の衝撃でただ朦朧としているだけなのかも知れない。
苛立ちと焦燥が俺を襲う。
これでは爆発を起こす前と、何も状況は変わっていないじゃないか。何が引き分けには持ち込めただ。カガが目覚めた時、それは俺とモユルさんの命が終わる時だ。
だが今なら。今なら逆転できる。カガは崖の縁にいる。あと少し、ほんの一押しで崖下に落とせるんだ。
俺は起き上がろうとする。身体が言うことを聞かない。痛みすら戻ってこない。自分の身体がどこにあるのか分からない。
カガが再び痙攣した。低い唸り声。やはり目覚めようとしている。時間がない。
なのに、なのに。
動かない。身体が動かない!
「ああ、あああ、っあ……」
弱々しいうめき声にしかならない、絶叫。
必死に願う。
俺の身体よ、あともう少しだけ動いてくれ。このままだとモユルさんまで。モユルさんだけは。
リュウノスよ、お願いだ。リュウノスは人の想いを反映するんじゃなかったのか。あと少し、あと少しだけ、力を与えてくれ!
どんなに願っても、俺の身体は動かない。
当然――なのかも知れない。リュウノスが人の想いを反映するのなら、今の俺に対する龍の都の人々のもっとも強い想いは、滅び。破滅なのだから。
南向き街道ですれ違った少年を思い出す。あれは、間違いなく誰かを埋葬してきた様子だった。年端もいかぬ少年が、たった一人で。
あの少年の目が忘れられない。現代で両親に守られ、ぬくぬくと生きてきた俺には、とうてい目の当たりにすることなどなかった増悪。
頭では、都の住民たちの憎悪に晒される役割を課せられたことは理解していた。でも実際にあの目に見つめられたときには身がすくんだ。憎まれるとは、こういうことなのかと思った。
だから。何となく、覚悟はしていた。俺はいずれ消え行く運命なのかも知れないと。
だがそれは今ではない。まだ諦めるわけにはいかない。
モユルさんが待っている。俺を信じて待っている。
集中しろ。自分の身体を探せ。感覚を取り戻せ。
あと一撃。一撃でいいんだ。立ち上がれ!
強く念じる。渾身の力を振り絞る。
ほんの少しだけ、腕が震えた。
微かな力の流れを感じる。
そのとき、声が――。
声が、聞こえた。
――あの子は……。
不明瞭にだが、聞きなれた声だった。
これは――ユラさん?
ユラさんが、こんな場所にいるはずはない。幻聴だろうか。だけどその幻聴が、力を与えてくれた気がした。
――龍戦士…………だけどあの子は……。
いや、やはり聞こえる。必死に何かを訴えている。
――通して…………僕は…………通して下さい!
また聞こえた。今度はカグチ。カグチの声だ。
――我が友を侮辱することは許さんぞ。
はっきりと聞こえる。スサだ。
これは幻聴じゃない。彼らの想いだ。何故かは分からないが、彼らの心が俺に届けられているんだ。そう思ったとたんに、色んな人の声がいっぺんに聞こえてきた。
――馬ッ鹿野郎、お前、知ったような口きいてんじゃねぇや! いいか、あのお人はよう!
――やっぱり僕、戻ります。戻って待ちます。
――ちょっと頼んない感じもするけど、いい子だよ。
――すまぬ……。
――あの兄ちゃんなら、やってくれるさ。
声を聞くごとに、感覚をなくしていた身体が痺れ、やがて痛みがやってきた。
全身を刺す激痛。俺は歓喜した。渇望した痛み。この痛みが、俺に最後までやり遂げる力を与えてくれる。
立ち上がる。完全に壊れた右腕は動かないままなので、少しバランスが取りにくい。
それでも、立てた。
タケハヤの効果はまだ持続している。立つことさえできたなら、身体が動きさえしてくれたなら、あとはタケハヤが補ってくれる。
やれる……やれるぞ。
俺は走り出した。龍の巨体を単純な体当たりで押し出すことは不可能だ。やり直しはきかない。一撃で決めろ!
駆ける。駆ける駆ける駆ける。右足から低く踏み込む。力を支える。体を捻る。地面からの反動を乗せる。右肩から腰にかけて、カガと接触する。
そのとき、カガと目が合った。
俺はさらに引き脚を地面に叩きつけた。同時にタケハヤの力を全解放し、全身のバネを使って、全ての運動エネルギーを斜め上へ束ね、一気に放出する!
鈍く複雑な音と共に、カガの頭部が弾け飛んだ。
俺は仰向けに倒れこみながら、崖の向こうに落ちていくカガを眺めた。
聞こえてくる、巨大なものが崖を滑落していく音。激しい水音。
そして耳が痛くなるほどの静寂が訪れて――唐突に、カガの気配が、消えた。タマヒとなって地に還ったのだ。
俺は最後の瞬間を思い出していた。カガは静かに俺を見つめていた。
「カガ……」
すまない。ありがとう。思い浮かぶ言葉はどれも陳腐で、だから俺は、友と呼んでくれた誇り高い龍の名を、ただ、呼んだ。
見上げた空は、いつの間にかずいぶんと昏くなっていた。
吐く息の白さが、昂っていた心を冷ましていく。
試しに、起き上がろうとしてみた。
辛うじて動かせたのは左腕と、左足の膝までだった。
ただでさえ身体に負担のかかる踏み込み方をした上に、タケハヤの全力まで乗せてしまったのだ。俺の身体は、砕けてしまった。
ああ、と思う。
分かっていた、ことだ。
でも、もう一度だけ。
最後にもう一度だけ、会いたいなあ。
モユルさん。
俺は――
おれは!
衝動的に跳ね起きようとして、痙攣する。
断末魔のミミズみたいにのたうち、もがいて、やっとのことでうつ伏せになる。
指が欠けた左腕と、わずかに動く左足で、這う。
ぬかるんだ地面が、おれの邪魔をする。
それでも進む。
身体が動くうちに。遠くへ。少しでも遠くへ。
龍の都の民に憎まれたり、龍と戦うまでもなく、自分が擬似的な生命であると知ったときから、いつかこんな日が来ると思っていた。
おれはもう、死ぬ。いや、消える。
だから、覚悟はしていた。全てを受け入れようと思っていた。最期のそのときに、やれることはやったよと、胸を張って言えるように。後悔を残さないように。
それなのに――おれは、また、約束を破ってしまった。
モユルさん。
あんなことを言わせて。させてしまったのに。
ごめんよ。ごめんよ。
おれ、頑張ったんだ。必死に頑張ったんだよ。
モユルさんは優しいから。自分よりも誰かを大切にしてしまう人だから。
精一杯、強い振りをした。期待に応えたかった。おれは一人でも大丈夫なんだって、そう思ってもらいたかった。安心して欲しかった。
でも、駄目だった。やっぱり駄目だった。
どれだけ強がってみても、本当のおれはどうしようもなく弱くて、恐がりで――
だからこうして、逃げている。
無駄だと知っているのに、結果は変わらないと分かっているのに、モユルさんの悲しみが恐くて、逃げている。
繁みに入る。もう動く力なんて残っていないと思っていたはずなのに、どこかに隠れたい一心だけでここまで這ってこれてしまう自分に呆れる。
それでも、まだ這う。気がつけばその場でもがくだけになっていた。
身体の感覚は、もうない。いよいよ、そのときが来たのかな。
ああ、暗い。森の中は暗くて寒いよ。
死んだら、もっと暗いところに行くんだろうか。魂すら作り物のおれは、いったいどうなるのかな。消えるって、どんな感じなんだろう。
泥にまみれた左手が、小刻みに震えているのが見える。嗚咽が漏れた。
寒い……寒いよ。
寂しいよ。こんなところで、独りぼっちで消えたくないよ。
「助けて。誰か……誰か」
掠れた声で懇願しても、応えてくれる人はどこにもいなかった。




