46 章節:モユルの笑顔
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カゲローさんが戻ってきた!
カグチの窮地を救ってくれたカゲローさんの登場に喜んだのも束の間、私の視線は血に汚れてぐったりと動かないシロガネに釘付けになった。
「生きてる。でもかなり危険な状態だ」
カゲローさんはすぐに察してくれて、いつもの無表情でそう言った。
治療を急がなくてはならない。シロガネを抱いたままのカゲローさんに目配せして、カグチが棍を受け取った。
同時に、マミカ導師が首の位置を戻しながら、ゆらりと起き上がる。
「何ダコノ力ハ……オノレ、モウ少シデ憎キ血族ノ」
みなまで言わせず、カグチが激しい連続突きを繰り出した。二打、三打。四打目の引きと同時に印を結んで術式法陣を展開、練火の追撃。
その火球は防ごうとした腕をすり抜け、気刃を吐こうとしていたらしいマミカ導師の口の中に命中した。
くぐもった悲鳴を上げ、マミカ導師が板敷きの廊下まで後退する。よく見ると左肘から先が、どういうわけか消失している。先程の練火がすり抜けたのは、このせいだろう。
「ヤハリ足リヌ……力ガ足リヌ」
口の中を焼かれて閉じたままなのに、声が聞こえる。シロガネと同じ思念波だろうか。
低く唸ったマミカ導師が、左の袖を捲って上腕を掴み、一気に引きちぎった。そのまま無造作に投げ捨て、横手の台所に駆け込む。すぐに聞こえてくる、何かを壊す音。
「しまった、勝手口か!」
「待ちなカグチ!」
追おうとしたカグチを、ユラさんが止めた。
「景郎、あんたも追わなくていい。この家には監視がついてたはずだ。……分かるだろ」
「……はい」
既にシロガネを横たえていたカゲローさんが、少しの間をおいて答えた。シロガネを挟んで私の前に膝をつく。
「まだ息があるのが不思議なくらいなんだ」
ためらいがちに呟いたカゲローさんは、次の言葉を呑み込んだようだった。
私は改めて見るシロガネのあまりの惨状に、息を呑んだ。
気絶したシロガネの体は、あちこちが焼け焦げ、全身を骨折してひどく腫れ上がっていた。いくつかの裂傷のまわりでは、乾いてこびりついた血がタマヒに分解されつつある。
私は思わず叫び出したくなる衝動を抑えて、懐からありったけの治療符を取り出した。慎重にシロガネの全身に貼り付け、あらん限りの力でタマヒを注ぐ。必要量の何十倍ものタマヒを、連続的に注ぎ込む。
以前カゲローさんに説明した通り、治療術式は魔法のように回復させるものではない。あくまで自然治癒力の補助にしかならないものだ。
しかし血がタマヒ分解されていることから解るように、龍の魂の欠片を付与されたシロガネは、カゲローさんと同じく神や魔に近い存在になっている。肉体が高密度のタマヒで構成されているなら、過剰にタマヒを注ぐことにも意味があるかも知れない。
どれだけ根拠に乏しくても、いまはそのわずかな可能性にすがるより他なかった。そしてそれはタマヒ許容量だけが唯一の取り得の、龍の巫女の私にしか出来ないことなのだ。
重苦しい沈黙の中、シロガネの浅い呼吸音だけが狭い土間に堆積していく。私は胸が締めつけられる思いでシロガネを見つめた。
「蛇どもが離れていくよ。マミカに追従してるのか」
外を警戒していたユラさんが、疑問を口にした。
「それより景郎。あれは本当にマミカなのかい? 聞いていた姿とはずいぶん違っていたが」
「それはおれも気になってました。南の神域で会ったマミカ導師とは、何もかも違う」
最後に見たマミカ導師は、蛇に似た黒い鱗、黒い皮膜の羽、紅い目をしていた。しかし今日の姿は碧玉の艶を持つ魚鱗と目、そして頭部には角のような突起があった。
「やっぱりそうなのかい。あの姿は、まるで」
ユラさんは、マミカ導師の腕が投げられた辺りを見た。いつの間にか完全に消滅している。
「……まさかあの娘は、蛇の魔物だけじゃなくて、自分にも」
「そうかも知れません」
再び沈黙。
「……あの娘は人であることを捨てちまってたってことか。あれはもうマミカじゃない。人に仇なすただの魔物だ」
「それなのに!」
私は思わず声を荒げた。理不尽に対するぶつけ所のない怒りが、無意味を承知で口をつく。
「それなのにシロガネは……大好きだったご主人様に戻ることを信じて……こんなに、される……まで……」
私は何を言っているのだろう。何が言いたいのだろう。分からない。ただ、めちゃくちゃに掻き乱された思いが、出口を求めて足掻いている。
――この時間を待つまで、ずいぶん長いこと暇潰しになったから、最期くらいは役に立ったかもね。早い時間から呼び寄せて正解だったわ。
――何をしても我慢するばっかりで悲鳴の一つも上げないし、馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返してさ。
あの魔物は、そう言っていた。
「悔しい……悔しい! なんでシロガネは、あんな人のために……!」
それは少し違うよ、とカゲローさんが言った。
「確かにシロガネは優しかった頃のマミカ導師を忘れられずにいた。でも、こいつはモユルさんを助けるためにマミカ導師と会ってたんだ」
「そんなのっ」
分かってる。じゃあこのやりきれない気持ちは何なんだろう。嫉妬? 私はマミカ導師に嫉妬しているんだろうか。
それでもいいと思った。私は馬鹿だから、色んなものが見えてなくて。私には懐いてくれないのにって言って、カゲローさんやユラさんや、マミカ導師に嫉妬して。シロガネには冷たくあしらわれて。そうしてずっと、みっともなく嫉妬してたっていい。
シロガネが、生きてさえいてくれるなら。
「うん、ごめん。わかってるよね。でもシロガネのために、シロガネの代わりに、言いたかったんだ。……水車小屋で見つけたとき、こいつはもう自力で立つことも出来なくなってるのに、モユルさんのことばかり心配してたよ」
諭すような声色に、私の視界が滲んだ。
「もう、馬鹿ぁ……。そんなこと言わ……言わないでよ」
「うん。ごめんねモユルさん」
違う。私が聞きたいのはそんな言葉じゃない。大丈夫だよ、きっと助かるよって、そう言って欲しいのに。どうして言ってくれないの?
私はタマヒを注ぐ。唇を噛む。
こふ、と小さく咳き込んで、シロガネが血を吐いた。浅く短かった呼吸が、だんだん弱くなってきている。
いやだ。認めたくない。認めない。覚悟なんかしたくない。いやだ。いやいやいやいやいや!
「いや……イヤや。行かんといて。死んだらあかん! あたし、まだ、ごめんねもありがとうも言うてへんやんか! シロガネ!」
もう何も見えない。全てがぼやけた世界で、必死にタマヒを注ぎ続ける。
「モユル」
……かすかな思念波が、聞こえた。私はぎゅっと目を閉じて、大きく見開く。
「モユル、ないてる?」
シロガネがこちらを見ていた。
「シロガネ! ああ……ああ」
言いたいことがたくさんあるのに、嗚咽しか出てこない。
「モユル、いたいことされた? シロガネのせい?」
自分を責めるような物言いが、悲しかった。マミカ導師だったあの魔物は、言葉でもシロガネをなぶっていたのだろう。シロガネは体だけではなく、心までも傷つけられている。
そしてそれでもシロガネは、じっと堪え続けたのだ。南の神域で見た、あの時のように。
私は喘いだ。胸が苦しくて、うまく息ができない。
シロガネの瞳が不安に揺れている。何か、何か言わなくては。私は喉の奥に力を込めて、震える声を絞り出した。
「違う……違うよシロガネ。私は平気。シロガネが、守ってくれたから。ずっと、ずっと守ってくれてたから」
「シロガネ。モユルさんは、シロガネに会えたのが嬉しくて泣いてるんだよ」
カゲローさんが今までで一番優しい顔をして、ゆっくりとシロガネの頭を撫でた。だから何も心配いらない、安心していいんだよと、穏やかな声が、手が、雄弁に語っている。
「ほんと? モユルうれしい?」
シロガネがもう一度私を見た。私は、私の泣き顔がシロガネを不安にさせてしまっているのだと、今ごろになって気が付いた。
――笑わ、なくちゃ。
強く念じる。強ばる頬を持ち上げる。震える唇を引き伸ばす。笑え。笑うんだ。
「うん。私は嬉しいの。ありがとうね、シロガネ」
自分がどんな顔をしているのか、分からない。私はちゃんと笑えているだろうか。シロガネを安心させられているだろうか。
「よかった。シロガネうれしい」
シロガネの尻尾が、ほんの少しだけ動く。たったそれだけしか動かせないのだ。シロガネの呼吸がいよいよ途切れがちになっている。私はタマヒを注ぎ続ける。
「だけどシロガネ、つかれちゃった。もう、ねていい?」
「うん。ゆっくりおやすみ」
私はタマヒを注ぎ続ける。微笑みながら注ぎ続ける。
シロガネが目を閉じた。どこか満足げに見えるのは、私の思い込みだろうか。
「モユル。やさしいモユル。すてられたシロガネひろってくれた。シロガネのために、いっぱいおこって、ないてくれた。でも、もう、なかないで」
シロガネの呼吸が止まる。最後の、弱々しい思念波を残して。
「モユル、すき」
そしてシロガネは眠りについた。もう二度と目を覚まさない眠りに。
私はタマヒを注ぎ続けた。私にできるのは、それしかなかったから。シロガネに返せるものは、それしかなかったから。
目がかすむ。限界は、とっくに越えていた。でもそれが何だというのだろう。私はタマヒを注ぎ続ける。
ふと意識が遠のいて、シロガネの上にくずおれかける。私は土間に片手をついた。体を支える。もう片方の手は治療符から離さない。私はタマヒを注ぎ続ける。
背中にカゲローさんの手の感触がした。
「モユルさん、それ以上はモユルさんが」
「いや」
私はタマヒを注ぎ続ける。
「モユルさん」
「いやや」
私はタマヒを注ぎ続ける。
「モユルさん」
「いやや!」
「……モユルさん!」
カゲローさんが、無理に私を起こした。シロガネ越しに私を抱く。私は手を離さない。
「シロガネはもう、眠ってしまったんだ」
低い、だけどはっきりした声。私はカゲローさんにしがみついた。
「う、あ……。ああ、あああああ」
言葉にならない思いが、とめどもなく喉から溢れてきた。
ああ、ああ、ああ。意味をなさない、ただの音の羅列。私は赤子が言葉を使わずに泣く理由を知った。
「モユルさん……」
カゲローさんが何か言いかけた、その時。
ドクン。
「あ……」
シロガネに触れたままの手のひらに、脈動を感じた。
「姉さん、シロガネが!」
カグチの叫び。
カゲローさんが私を離して、シロガネを見下ろした。
シロガネの体が痙攣する。
「モ、モユルさん!」
私たちは顔を見合せた。奇跡が、奇跡が起きたのだ。
シロガネの体が、もう一度大きく痙攣した。
「シロガネ! シロガネ、頑張って!」
私はタマヒの注入を再開しようと、治療符に両手を添えた。
「待って姉さん、今度は僕がやる」
カグチが私の隣に並んで、治療符にタマヒを注ぎ始めた。
シロガネが目を開く。
「シロガネ!」
私は嬉しさのあまり、カグチに抱きついた。
しかし同時に、何か違和感を覚えた。
――目だ。目の色が違う。
その瞳は、先ほどのマミカ導師と同じ、碧色だった。
シロガネの視線が、私たちを捉えた。その思いもよらない烈しさに、背筋が凍りつく。
そこに宿っていたのは――。
憤怒。
「許サヌ!」
とてつもない咆哮を上げて、シロガネの体が爆発したように膨張した。




