満月になると尾骨が痛む男
佐倉美咲は、二十八歳にして、恋愛というものがよくわからなくなっていた。
一人目の男には、月に妻がいた。
二人目の男は、女性と交際すると世界が滅びる可能性があった。
どちらも、いい人だった。
仕事もできたし、優しかったし、会話も楽しかった。
ただ、付き合えなかった。
「……普通の男って、どこにいるんだろう」
美咲はつぶやいた。
そんな彼女に、三度目の恋が訪れた。
相手は大野修平。
三十一歳。
出版社勤務。
趣味は料理と映画鑑賞。
休日は近所の公園を散歩するという。
美咲が出会ったのは、友人の真由が開いた食事会だった。
「大野さんって、彼女いるんですか?」
「いませんよ」
「結婚は?」
「してません」
「月にも?」
「……月?」
大野は不思議そうな顔をした。
「月って、あの月ですか?」
「はい」
「いないですよ」
美咲は安心した。
「世界を救う使命とかは?」
「ないですね」
「本当に?」
「ええ」
大野は少し笑った。
「僕、そんなに変わった人間に見えます?」
「いえ!」
美咲は首を振った。
「むしろ普通です!」
「……ありがとうございます」
褒め言葉として受け取っていいのかわからない顔だった。
しかし、美咲にとっては最高の褒め言葉だった。
普通。
なんと美しい響きだろう。
二人は何度か食事をした。
大野は本当に普通の男性だった。
休日にはスーパーで買い物をする。
洗濯物を干す。
たまに映画を観る。
好きな食べ物はカレー。
嫌いな食べ物はパクチー。
美咲は感動した。
「大野さんって、普通ですね」
「それ、前も言ってましたよね」
「すみません」
「そんなに普通ですか?」
「はい」
「……そうですか」
大野は苦笑した。
二人の距離は少しずつ縮まっていった。
そして、出会って二か月が経ったある夜。
美咲は三度目の告白を決意した。
「大野さん」
金曜日の夜。
二人は川沿いの遊歩道を歩いていた。
「はい」
「私、大野さんのことが好きです」
大野は立ち止まった。
美咲も立ち止まった。
「よかったら、付き合ってください」
風が吹いた。
川面に街灯の光が揺れている。
大野はしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「ありがとうございます」
美咲は息をのんだ。
「僕も、佐倉さんのことが好きです」
来た。
ついに来た。
美咲は思った。
長かった。
本当に長かった。
「でも、ごめんなさい」
美咲は目を閉じた。
またか。
「……どうしてですか?」
大野は苦しそうな表情を浮かべた。
「君を危険にさらすわけにはいかないんです」
美咲は目を開けた。
「……危険?」
「はい」
「何の危険ですか?」
大野は答えなかった。
「大野さん?」
「実は……」
彼は夜空を見上げた。
雲の間から、丸い月が顔を出していた。
「満月になると、尾骨が痛み出すんです」
美咲は黙った。
「……尾骨?」
「はい」
「びこつ?」
「お尻の骨です」
「知ってます」
美咲は深呼吸した。
「それで?」
「それだけです」
「……それだけ?」
「はい」
「……」
「……」
美咲は腕を組んだ。
「病院に行ってください」
「いや、病院には行ったんです」
大野は真剣だった。
「整形外科にも、大学病院にも」
「それで?」
「原因不明でした」
「満月のときだけ痛むんですか?」
「そうなんです」
「じゃあ、満月の日は安静にしてればいいじゃないですか」
「それが、そういう問題じゃないんです」
美咲は嫌な予感がした。
「……どういう問題ですか?」
大野は周囲を見渡した。
誰もいない。
彼は声を落とした。
「満月の夜、尾骨が痛み始めると、僕の体に変化が起こるんです」
「変化?」
「はい」
「どんな?」
大野は再び周囲を確認した。
そして、ゆっくり言った。
「尻尾が生えるんです」
美咲は空を見上げた。
月が出ていた。
きれいな満月だった。
「……尻尾」
「はい」
「犬みたいな?」
「もう少し太いです」
「猫?」
「もう少し長いです」
「じゃあ何?」
大野は困った顔をした。
「自分でも、何の尻尾なのかわからないんです」
美咲は考えた。
今までの男たちと比べれば、まだましだった。
月に妻がいるわけではない。
世界が滅びるわけでもない。
ただ、尻尾が生える。
尻尾くらいなら。
「……別にいいですよ」
「え?」
「尻尾があっても」
大野は目を見開いた。
「本当ですか?」
「はい」
「怖くないんですか?」
「怖いですけど、付き合えない理由にはならないと思います」
大野の目に涙が浮かんだ。
「佐倉さん……」
「はい」
「あなたは、なんて優しい人なんだ」
美咲は少し照れた。
初めてだった。
自分の恋愛が、相手の秘密を受け入れることで前進している。
ところが。
「でも、ダメなんです」
美咲の笑顔が消えた。
「……なんで?」
「尻尾だけじゃないんです」
「……」
「満月が近づくと、だんだん自分を抑えられなくなるんです」
美咲は身構えた。
「自分を抑えられない?」
「はい」
「どうなるんですか?」
大野はうつむいた。
「……走りたくなるんです」
「……走る?」
「はい」
「どこを?」
「山とか」
「……」
「森とか」
美咲はしばらく考えた。
「ジョギングじゃダメなんですか?」
「ダメなんです」
「なんで?」
「四つん這いで走りたくなるんです」
美咲は黙った。
想像してしまった。
三十一歳の出版社勤務の男性が、満月の夜、四つん這いで森を走っている。
「……それで私が危険になるんですか?」
「はい」
「どうして?」
大野は少し考えた。
「……巻き込んでしまうかもしれません」
「何に?」
「走ることに」
美咲は額を押さえた。
「私は走りません」
「でも、追いかけたくなるかもしれませんよ」
「なりません!」
「……大野さん」
「はい」
「ひとつ聞いていいですか?」
「もちろん」
「それ、いつからなんですか?」
「二十歳の頃からです」
「きっかけは?」
「大学の夏休みに、山でキャンプをしたんです」
「はい」
「夜中に、何かに噛まれました」
美咲は目を見開いた。
「何に?」
「わかりません」
「犬?」
「違うと思います」
「狼?」
「日本の山ですからね」
「じゃあ熊?」
「熊だったら、もっと大変なことになってます」
確かに。
大野は続けた。
「それ以来、満月になると尾骨が痛み始めるようになったんです」
「……なるほど」
美咲はようやく理解した。
この人は、いわゆる狼人間なのだ。
映画で見たことがある。
満月になると狼に変身する男。
ただし、大野の場合は少し違う。
「……でも、大野さん」
「はい」
「狼になるんですか?」
「いえ」
「ならないんですか?」
「はい」
「尻尾だけ?」
「はい」
「……」
「……」
美咲は少し考えた。
「それ、狼人間としては中途半端じゃないですか?」
大野は傷ついたような顔をした。
「僕もそう思ってます」
そのときだった。
大野が突然、顔をしかめた。
「……うっ」
「大野さん?」
「……始まった」
「何が?」
「尾骨が……」
彼は腰に手を当てた。
「痛い……!」
美咲は夜空を見上げた。
満月だった。
「えっ、今日なんですか!?」
「……そうみたいです」
「そうみたいって!」
大野は苦しそうにうずくまった。
「離れてください……!」
「救急車呼びます?」
「ダメです!」
「でも!」
「見られたくないんです!」
美咲は慌てて周囲を見回した。
幸い、人通りはなかった。
大野の背中が小さく震えた。
そして。
ビリッ。
ズボンの後ろから、何かが突き出した。
美咲は息をのんだ。
「……!」
長い。
茶色い。
毛に覆われている。
確かに尻尾だった。
大野は立ち上がった。
「……すみません」
美咲は尻尾を見つめた。
ゆらゆらと左右に揺れている。
「……本当だったんですね」
「はい」
「……すごい」
「怖いでしょう?」
美咲は首を振った。
「いえ、むしろ……」
尻尾が揺れた。
「……かわいい」
大野は固まった。
「え?」
「かわいいですよ、それ」
「……本当ですか?」
「はい」
美咲は思わず笑った。
「ちょっと触ってもいいですか?」
「えっ」
大野は真っ赤になった。
「い、いや、それは……」
「ダメですか?」
「……その」
大野は目をそらした。
尻尾が激しく左右に動き始めた。
美咲はその様子を見て、さらに笑った。
「大野さん、尻尾、すごく動いてますよ」
「……やめてください」
「嬉しいんですか?」
「……」
尻尾がますます速くなった。
「……正直ですね」
「お願いですから、見ないでください」
その瞬間。
大野の表情が変わった。
「……まずい」
「え?」
「もう、抑えられない」
彼は川沿いの道を見つめた。
「……走りたい」
「え?」
「どうしても……走りたい」
美咲は少し迷った。
そして言った。
「……走ればいいじゃないですか」
「でも!」
「私、ここで待ってますから」
大野は目を見開いた。
「……いいんですか?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「……ありがとうございます!」
次の瞬間。
大野は四つん這いになった。
そして。
ものすごい速度で走り出した。
「えっ、速っ!」
美咲は思わず声を上げた。
大野は川沿いの遊歩道を疾走した。
四つん這いで。
尻尾をなびかせながら。
あっという間に見えなくなった。
美咲は一人、取り残された。
しばらくして、スマホを取り出した。
親友の真由にメッセージを送る。
『また振られた』
すぐに返信が来た。
『なんで?』
美咲は少し考えた。
『満月になると尾骨が痛むから』
既読。
三十秒。
一分。
ようやく返信が来た。
『美咲』
『うん』
『もう男探すのやめな』
美咲はスマホをしまった。
空には満月が浮かんでいた。
ふと、思った。
一人目の先輩の奥さんは、あそこにいる。
二人目の健太は、きっと今夜も欲望を抑えて世界を救っている。
そして三人目の大野は、今この瞬間、四つん這いでどこかを走っている。
「……」
美咲は小さくつぶやいた。
「普通の男って、本当にいないのかな」
翌朝。
美咲のスマホに大野からメッセージが届いた。
『昨日はすみませんでした』
『いえ、大丈夫ですよ』
『あのあと無事に帰宅しました』
『よかったです』
しばらくして、もう一通届いた。
『それから、佐倉さん』
『はい』
『昨日、尻尾をかわいいと言ってくれたの、嬉しかったです』
美咲は微笑んだ。
『本当にかわいかったですよ』
返信はすぐに来た。
『ありがとうございます』
続いて、もう一通。
『でも、やっぱりお付き合いはできません』
美咲はスマホを握りしめた。
『どうしてですか?』
三分後。
返信が来た。
『僕の本能が、あなたを傷つけてしまうかもしれないので』
美咲はため息をついた。
そして、こう返した。
『昨日、私を置いて一人で走って行ったじゃないですか』
既読。
返事はなかった。
美咲はスマホを机に置いた。
三度目の失恋だった。
ただ、一つだけわかったことがある。
満月の夜に男性とデートするのは、今後やめよう。
第一話では、月に妻がいた。
第三話では、月のせいで尻尾が生えた。
美咲は窓の外の青空を見上げた。
「……月って、恋愛の邪魔ばっかりするな」
その頃、大野は自宅でズボンを縫っていた。
満月の翌朝は、いつもこの作業から始まる。
「……今度から、ファスナーつけようかな」
彼にも彼なりの悩みがあった。




