世界を救う男
佐倉美咲は、二十八歳になった。
去年の失恋から、もう半年が経っていた。
あのときの先輩の言葉は、今でも忘れられない。
「妻がいるんだ。月にね」
あれ以来、美咲は月を見るのが少し嫌いになった。
満月の夜など、特にそうだった。
あそこに奥さんがいる。
そう思うと、なんだか腹が立った。
しかし、いつまでも失恋を引きずっているわけにはいかない。
美咲は新しい恋を始めた。
相手は大学時代の同級生、三浦健太。
二十九歳。システムエンジニア。
真面目で、優しくて、少し無口。
月に妻はいない。
これは確認した。
それどころか、地球にも妻はいない。
独身。
彼女なし。
趣味は読書と散歩。
ごく普通の男性だった。
少なくとも、美咲はそう思っていた。
「健太くん」
土曜日の午後。
二人は新宿のカフェにいた。
「うん?」
「私たち、もう何回も会ってるよね」
「そうだね」
「今日で六回目」
「よく覚えてるね」
美咲はコーヒーカップを置いた。
心臓が少し速くなっていた。
「私、健太くんのことが好き」
健太は黙った。
「よかったら、付き合ってほしい」
窓の外をバスが通り過ぎた。
健太は美咲を見つめた。
そして、静かに言った。
「ありがとう」
美咲の胸が高鳴った。
「君は美人だし、魅力的だと思う」
「……うん」
「一緒にいて楽しいし、僕も君のことが好きだ」
来た。
これは来た。
美咲は思った。
ようやく普通の恋愛ができる。
「でも、ごめん」
来なかった。
「……え?」
「僕は、君とは付き合えない」
美咲の笑顔が消えた。
「どうして?」
健太は少しうつむいた。
「僕には、やらなきゃいけないことがあるんだ」
「仕事?」
「いや」
「家族のこと?」
「違う」
「じゃあ、何?」
健太は真剣な顔で答えた。
「世界を救わないといけない」
美咲は瞬きをした。
「……世界?」
「うん」
「世界って?」
「この世界」
健太は窓の外を指さした。
「地球を含む、人類の文明全体だ」
美咲は黙った。
まただ。
また始まった。
「ちょっと待って」
美咲は手を上げた。
「世界を救うって、どういうこと?」
「説明するのは難しいんだけど」
「説明して」
「僕が欲望に負けると、世界が滅びるんだ」
美咲は健太を見つめた。
健太は真剣だった。
恐ろしいほど真剣だった。
「……欲望?」
「うん」
「食欲とか?」
「それは大丈夫」
「睡眠欲?」
「それも大丈夫」
美咲は嫌な予感がした。
「じゃあ、何の欲?」
健太は少し顔を赤らめた。
「……異性に対する欲だよ」
美咲は天井を見上げた。
「なるほど」
なるほどではなかった。
何一つ理解していなかった。
「つまり、健太くんが女性と付き合うと?」
「世界が危険にさらされる」
「キスしたら?」
「かなり危ない」
「手をつなぐのは?」
「それくらいなら、まだ大丈夫だと思う」
「思う?」
「試したことがないから」
美咲は両手で顔を覆った。
「……なんで?」
「何が?」
「なんで私が好きになる男は、みんなそうなの?」
「みんな?」
「こっちの話!」
健太は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめん」
「いや、謝られても……」
「僕だって、普通に恋愛したいよ」
その言葉に、美咲は少しだけ冷静になった。
健太の表情は悲しそうだった。
「でも、僕一人の幸せのために、何十億人もの命を危険にさらすわけにはいかない」
美咲は黙った。
そう言われると、反論しにくい。
「……でもさ」
「うん」
「世界を救うって、具体的に何してるの?」
「我慢してる」
「……」
「毎日」
「……」
「ずっと」
美咲はコーヒーを飲んだ。
もう冷めていた。
「いつから?」
「高校二年生のときから」
「何かあったの?」
健太はしばらく黙った。
「初めて女の子と付き合ったんだ」
「うん」
「ある日、彼女とキスをした」
「うん」
「その瞬間、東京で震度五の地震が起きた」
美咲は眉をひそめた。
「偶然じゃない?」
「僕もそう思った」
「でしょ?」
「でも、二回目のキスでは、南米で火山が噴火した」
「……」
「三回目は、大規模な停電」
美咲は腕を組んだ。
「ちょっと待って。キスするたびに世界のニュース確認してたの?」
「最初はしてなかった」
「じゃあどうして気づいたの?」
「彼女に言われたんだ」
「何て?」
健太は静かに答えた。
「『あなたとキスすると、いつも何か起こるね』って」
美咲は目を閉じた。
その元カノも相当なものだった。
「それで別れたの?」
「うん」
「それからずっと恋人いないの?」
「いない」
「十二年間?」
「そうだね」
美咲は健太を見た。
少し気の毒になってきた。
「……大変だったね」
「ありがとう」
健太は微笑んだ。
その笑顔がまた、優しかった。
美咲は思った。
やっぱり、この人が好きだ。
そして、同時に思った。
なんで地球なんだ。
せめて関東地方くらいにしてほしかった。
「でも、証拠はあるの?」
美咲は尋ねた。
「証拠?」
「健太くんの欲望と、自然災害が関係してるって証拠」
「ないよ」
「ないの!?」
「科学的に証明するのは難しいからね」
「じゃあ偶然かもしれないじゃん!」
「そうかもしれない」
「だったら!」
「でも」
健太は静かに首を振った。
「もし本当だったら?」
美咲は口を閉じた。
「僕が君と付き合うことで、何万人もの人が死ぬかもしれない」
「……」
「そんな可能性がある以上、僕にはできない」
美咲は考えた。
確かに、そう言われると難しい。
しかし。
「健太くん」
「うん?」
「ひとつ聞いていい?」
「何?」
「私のこと、好きなんだよね?」
「うん」
「美人で魅力的だと思ってるんだよね?」
「もちろん」
「じゃあ今、欲望を感じてる?」
健太は固まった。
「……え?」
「今、この瞬間」
「いや、それは……」
「正直に言って」
健太は顔を赤くした。
「……少しは」
美咲は身を乗り出した。
「でも世界、滅びてないよ?」
「……」
「ね?」
「……そうだね」
「じゃあ大丈夫なんじゃない?」
健太は黙った。
美咲は勝利を確信した。
論理的に考えれば、当然の結論だった。
健太はゆっくり顔を上げた。
「……佐倉さん」
「うん?」
「実は、今朝からずっと頭痛がするんだ」
「え?」
「それに、昨日から鳥が変な方向に飛んでる」
美咲は窓の外を見た。
ハトが一羽、歩いていた。
普通に歩いていた。
「……関係ないと思うけど」
そのときだった。
カタカタカタ。
テーブルの上のスプーンが震えた。
美咲は動きを止めた。
照明がわずかに揺れる。
店内の誰かが言った。
「あれ、地震?」
揺れは数秒で収まった。
スマホが一斉に鳴り始めた。
美咲は画面を見た。
東京湾を震源とする地震。
最大震度三。
「……」
健太は青ざめていた。
「だから言ったんだ」
美咲はゆっくり顔を上げた。
「……健太くん」
「うん」
「今、何考えてた?」
健太は答えなかった。
「ねえ」
「……」
「何考えてたの?」
健太は小さな声で言った。
「……君と手をつなぎたいなって」
美咲は頭を抱えた。
「手をつないでないじゃん!!」
その夜。
美咲は親友の真由に電話した。
「また振られた」
『えっ、健太くんに?』
「うん」
『なんで!? いい感じだったじゃん!』
「世界を救うためだって」
『……は?』
「私と付き合うと、世界が滅びるかもしれないんだって」
電話の向こうが静かになった。
『……美咲』
「何?」
『あんた、男を見る目がないんじゃない?』
「私も最近そう思ってる」
『普通の男を探しなよ』
「普通の男だと思ってたの!」
美咲はベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめる。
月に妻がいる男。
欲望を抑えて世界を救う男。
二人とも、優しくて、真面目で、仕事もできた。
なのに。
「……私、そんなに高望みしてる?」
『してないと思うけど』
「普通に付き合いたいだけなのに」
『うん』
「一緒にご飯食べて、映画見て、たまに旅行して」
『うん』
「それだけでいいのに」
『うん』
美咲はため息をついた。
「……世界って、そんなに簡単に滅びるものなの?」
真由は答えられなかった。
一方、その頃。
三浦健太は自宅のパソコンを開いていた。
画面には、世界各地の地震情報が表示されている。
健太は東京湾の震源地を確認した。
そして、小さくつぶやいた。
「……危なかった」
机の引き出しを開ける。
中には一冊の古いノートがあった。
表紙には、こう書かれていた。
『欲望と災害の相関記録』
健太は新しいページを開いた。
日付を書く。
そして、今日の出来事を記録した。
「佐倉美咲。二十八歳。非常に魅力的」
少し考えて、続きを書く。
「手をつなぎたいと想像しただけで、震度三」
ペンが止まった。
健太は長いため息をついた。
「……相性が良すぎる」
窓の外には、静かな東京の夜景が広がっていた。
彼は知らなかった。
この日、美咲が彼のことを考えながら眠りについた瞬間。
遠く離れた太平洋の海底で、巨大なプレートがわずかに動いたことを。
そしてそれが、彼の欲望とは何の関係もない、ごく普通の地殻変動だったことを。
世界は今日も平和だった。
健太のおかげかどうかは、誰にもわからない。




