月に妻がいる男
「好きです」
言ってしまった。
入社三年目の佐倉美咲は、会社の屋上で、憧れの先輩に告白した。
相手は営業部の高瀬亮介。三十四歳。
仕事ができる。穏やか。誰にでも優しい。
そして何より、独身。
これは確認済みだった。
人事部の同期にも聞いた。総務のおばちゃんにも聞いた。左手の薬指も確認した。
指輪はない。
彼女がいるという噂もない。
完璧だった。
「ありがとう」
高瀬は微笑んだ。
「でも、ごめん」
美咲の心臓が沈んだ。
「そう……ですよね」
「いや、佐倉さんが嫌いとか、そういうことじゃないんだ」
「はい」
「実は、妻がいるんだ」
美咲は顔を上げた。
「え?」
「妻がいる」
「……結婚されてたんですか?」
「うん」
おかしい。
そんなはずはない。
人事部の同期は独身だと言っていた。
総務のおばちゃんも独身だと言っていた。
去年の忘年会では、部長が「高瀬もそろそろ結婚しろよ」と言っていた。
「でも、先輩……」
「うん?」
「独身ですよね?」
「法律上はね」
法律上。
嫌な言葉が出てきた。
「事実婚……ですか?」
「まあ、そんなところかな」
「一緒に暮らしてるんですか?」
「いや」
「遠距離恋愛?」
「そうだね」
「どちらに?」
高瀬は空を見上げた。
夕暮れの東京。
ビルの向こうに、白い月が浮かんでいた。
「あそこ」
美咲も空を見た。
「……?」
「月にね」
沈黙。
屋上を風が吹き抜けた。
「月?」
「うん」
「月って、あの月ですか?」
「ほかに月がある?」
美咲は考えた。
ない。
少なくとも、自分が知る限りは。
「奥様は……宇宙飛行士?」
「いや、普通の人だよ」
「普通の人が月に住んでるんですか?」
「まあ、いろいろあってね」
高瀬は腕時計を見た。
「あ、ごめん。そろそろ帰らないと」
「えっ」
「今日は妻と話す約束があるんだ」
「電話ですか?」
「うん」
「月まで電話がつながるんですか?」
「ちょっと遅延するけどね」
高瀬は軽く手を振った。
「じゃ、お疲れさま」
屋上のドアが閉まった。
美咲は一人残された。
失恋した。
そのはずだった。
しかし。
「……ちょっと待って」
彼女はスマホを取り出した。
検索する。
『月 人間 住んでいる』
当然、そんな情報は出てこない。
続いて検索。
『月 妻 いる 男』
何も出てこない。
美咲はスマホを握りしめた。
「……嘘でしょ」
告白を断るための嘘にしては、あまりにも雑だった。
もっと普通の嘘があるだろう。
彼女がいる。
好きな人がいる。
仕事に集中したい。
なぜ月なのだ。
なぜ妻なのだ。
そして何より。
あの人は、一度も冗談を言うような顔をしなかった。
その夜。
午後十一時四十分。
高瀬亮介は自宅マンションのベランダに出た。
小さな通信機を置く。
月がよく見える。
通信機のランプが青く光った。
『……亮介?』
女性の声がした。
「うん。聞こえるよ」
『今日もお仕事お疲れさま』
「ありがとう」
『何かあった?』
高瀬は少し笑った。
「今日、会社の後輩に告白された」
数秒の沈黙。
そして。
『……え?』
「ちゃんと断ったよ」
『何て言って?』
「妻がいるって」
『それで?』
「どこにいるのか聞かれたから、月にいるって」
長い沈黙。
やがて通信機から、深いため息が聞こえた。
『亮介』
「うん?」
『だから地球では、そういうこと言っちゃダメだって何回も言ってるでしょ』
「でも本当のことだし」
『そういう問題じゃないの!』
高瀬は困ったように月を見上げた。
結婚して七年。
妻は相変わらず、地球の常識に厳しかった。




