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4/4

人の気持ちがわかりすぎる男

佐倉美咲は、二十八歳にして、三度の失恋を経験した。


一人目の男には、月に妻がいた。


二人目の男は、恋愛すると世界が滅びる可能性があった。


三人目の男は、満月になると尻尾が生えた。


いずれも、悪い男ではなかった。


むしろ、みんな優しかった。


ただ、付き合えなかった。


「……次こそ普通の人がいい」


美咲は心からそう願っていた。


そして四度目の恋が訪れた。


相手は藤原直樹。


三十二歳。


広告代理店勤務。


美咲が彼と出会ったのは、取引先との合同プロジェクトだった。


藤原は、とにかく気が利く男だった。


会議中、美咲が水を飲もうとすると、さりげなくペットボトルを手渡してくれる。


資料を探そうとすると、何も言わずに該当ページを開いてくれる。


残業で疲れていると、温かい飲み物を買ってきてくれる。


「藤原さんって、すごいですね」


ある日、美咲が言った。


「何がですか?」


「人の気持ちがわかるというか」


藤原は少し笑った。


「……そうですね」


「私、こういう人、初めてです」


「そうですか」


「はい」


美咲は思った。


この人なら。


この人となら、普通の恋愛ができるかもしれない。


二人は仕事帰りに食事をするようになった。


藤原は会話も上手だった。


美咲が話したいときは聞き役に回り、黙っていたいときは無理に話しかけない。


一緒にいて、驚くほど楽だった。


しかし、一つだけ気になることがあった。


藤原は、ときどき妙な顔をする。


例えば、ある日のこと。


「藤原さん、今日のパスタおいしいですね」


「そうですね」


「また来たいです」


「……はい」


藤原は少し悲しそうな顔をした。


「どうしました?」


「いえ、何でもありません」


美咲には理由がわからなかった。


別の日。


「藤原さんって、本当に優しいですよね」


「ありがとうございます」


「きっとモテるでしょう?」


「……」


藤原はまた、悲しそうな顔をした。


「どうしたんですか?」


「いえ」


彼は小さく首を振った。


「ちょっと、疲れただけです」


それから一か月後。


美咲は告白することにした。


場所は、駅前の小さなレストラン。


金曜日の夜だった。


「藤原さん」


「はい」


「私、藤原さんのことが好きです」


藤原は静かに美咲を見た。


「よかったら、付き合ってください」


沈黙。


藤原は目を伏せた。


「ありがとうございます」


美咲は緊張した。


その言葉には、もう慣れていた。


問題は次に何が来るかだ。


「僕も、佐倉さんのことを大切に思っています」


「……はい」


「でも、ごめんなさい」


美咲は天井を見上げた。


四度目だった。


「……理由を聞いてもいいですか?」


「はい」


藤原は少し迷った。


そして言った。


「僕は、人の気持ちがわかってしまうんです」


美咲は首をかしげた。


「……え?」


「人の気持ちが、わかるんです」


「それって、いいことじゃないですか?」


「普通なら、そうでしょうね」


「私、そういう男性、素敵だと思います」


「ありがとうございます」


「だから、私は大丈夫ですよ」


藤原はゆっくり首を振った。


「いや、僕の場合は……」


少し間を置いた。


「わかりすぎてしまうんですよ」


「……わかりすぎる?」


「はい」


「どういうことですか?」


藤原は水を一口飲んだ。


「例えば、今、佐倉さんは僕のことをどう思っていますか?」


「好きです」


「それはわかっています」


「……」


「でも、同時に、少し腹を立てていますよね」


美咲は固まった。


「……え?」


「また変な理由で振られた、と思っている」


「……」


「どうして私が好きになる男は、みんな普通じゃないんだろう、と」


美咲は目を見開いた。


「……なんでわかるんですか?」


「そういう体質なんです」


「心が読めるってことですか?」


「心を読む、とは少し違います」


「違う?」


「相手が感じている感情を、僕もそのまま感じてしまうんです」


「……」


「嬉しければ嬉しい。悲しければ悲しい。怒っていれば怒りを感じる」


美咲は考えた。


「それって、共感力が高いってことですよね?」


「そうです」


「いいことじゃないですか」


藤原は首を振った。


「普通の共感とは違うんです」


「どこが?」


「相手の感情だけでなく、その奥にある感情までわかってしまう」


「……奥?」


「例えば、今の佐倉さん」


藤原は静かに言った。


「僕を好きだと言ってくれましたね」


「はい」


「でも、僕と付き合えれば、ようやく普通の恋愛ができる、という安心感もありますよね」


美咲は黙った。


図星だった。


「それから、僕が断ったことで、少しプライドが傷ついています」


「……」


「そして、僕のことを好きだという気持ちと同じくらい、なぜ自分は四回も振られなければならないのか、という疑問を抱いている」


「ちょっと待ってください」


美咲は手を上げた。


「そこまで言わなくていいです!」


「すみません」


藤原は頭を下げた。


「ほら、今も」


「え?」


「恥ずかしいと思いましたよね」


「思いました!」


「それから、少し僕を嫌いになった」


「……」


「でも、まだ好きだという気持ちもある」


「……」


「そして今、僕の能力を便利だと思い始めている」


美咲は目をそらした。


確かに。


少し思っていた。


この人が彼氏なら、何も言わなくても全部わかってくれる。


最高ではないか。


「……それが問題なんです」


藤原はつぶやいた。


「僕は以前、女性と付き合ったことがあります」


「……はい」


「とても優しい人でした」


藤原は遠くを見るような目をした。


「でも、付き合って三か月で別れました」


「どうしてですか?」


「彼女の気持ちが、全部わかってしまったからです」


美咲は黙った。


「例えば、デート中に彼女が『楽しいね』と言う」


「はい」


「もちろん楽しいと思っているんです」


「いいじゃないですか」


「でも、同時に『少し疲れたな』とも思っている」


「普通じゃないですか?」


「そうです。普通なんです」


藤原はうなずいた。


「ただ、僕には、その両方が同じ強さで伝わってくる」


「……」


「それから『そろそろ帰りたいな』という気持ちも」


「……」


「でも『帰りたいと言ったら彼が傷つくかもしれない』という気持ちも」


「……」


「そして『どうしてこの人は私の気持ちを察してくれないんだろう』という気持ちも」


美咲は眉をひそめた。


「……でも、藤原さんは察してるんですよね?」


「そうです」


「じゃあ帰ればいいじゃないですか」


「帰ろうと言うと、今度は『私といても楽しくないのかな』という寂しさが伝わってくるんです」


「……」


「だから、もう少し一緒にいようとすると『早く帰りたい』という気持ちが伝わってくる」


美咲は黙った。


「……面倒くさいですね」


「そうなんです」


藤原は深くうなずいた。


「人間の感情は、矛盾しているんです」


「でも、それって誰でも多少はそうじゃないですか?」


美咲は尋ねた。


「そうだと思います」


「私だって、好きな人と一緒にいたいけど、一人になりたいときもありますし」


「はい」


「相手のことが好きでも、腹が立つことだってあります」


「その通りです」


「じゃあ、気にしなければいいんじゃないですか?」


藤原は少し笑った。


「僕もそう思ったことがあります」


「……」


「でも、相手の悲しみが、自分の悲しみとして伝わってくるんです」


美咲は口を閉じた。


「相手が少しでも寂しいと、僕も寂しくなる」


「……」


「相手が少しでも不満を抱くと、僕も不満を感じる」


「……」


「相手が僕を嫌いになった瞬間も、わかるんです」


藤原は静かに続けた。


「そして一番つらいのは、その人自身も気づいていない感情まで、僕にはわかってしまうことです」


美咲は藤原を見つめた。


彼の表情は穏やかだった。


しかし、どこか疲れていた。


「……大変ですね」


「そうですね」


「でも、私はそんなに複雑じゃないですよ」


藤原は微笑んだ。


「佐倉さん」


「はい」


「今、僕のことを少しかわいそうだと思いましたね」


「……はい」


「それから、そんな僕を救ってあげたいとも」


「……」


「でも同時に、四度目の失恋を回避できるかもしれないという期待もあります」


美咲は両手で顔を覆った。


「もうやめてください!」


しばらく、二人は黙っていた。


やがて美咲が口を開いた。


「……藤原さん」


「はい」


「じゃあ、逆に聞いていいですか?」


「もちろん」


「私が今、何を考えているかわかりますか?」


藤原は少し考えた。


「……はい」


「じゃあ言ってみてください」


藤原は美咲を見つめた。


「……僕と付き合いたい、と思っています」


「はい」


「でも、僕の能力が少し怖い」


「……はい」


「それでも、僕を好きだと思っている」


「そうです」


「そして……」


藤原は言葉を止めた。


「……?」


「……佐倉さん」


「はい」


「僕に、何か言いたいことがありますね」


美咲はうなずいた。


「あります」


「……」


「じゃあ、言いますね」


美咲はまっすぐ藤原を見た。


「藤原さんは、私の気持ちがわかるんですよね?」


「はい」


「だったら、私の気持ちばかり説明しないでください」


藤原は目を見開いた。


「……え?」


「私が何を思っているかは、私が言います」


「……」


「藤原さんは、藤原さんの気持ちを話してください」


沈黙。


藤原はしばらく美咲を見つめていた。


そして、小さく笑った。


「……なるほど」


「はい」


「そうですね」


彼はうつむいた。


「僕は今まで、相手の気持ちばかり考えていたのかもしれません」


「そうですよ」


「……」


「で、どうなんですか?」


「何がですか?」


「私のこと、好きなんですか?」


藤原は顔を上げた。


「……好きです」


美咲は微笑んだ。


「じゃあ、付き合いましょうよ」


「……」


「ね?」


藤原は困った顔をした。


「……でも」


美咲は身構えた。


「……でも?」


「今、佐倉さんが僕のことを好きだという気持ちが、ものすごい勢いで伝わってきて」


「はい」


「僕も、ものすごく嬉しくなってしまって」


「……はい」


「その嬉しさを感じた佐倉さんが、さらに嬉しくなって」


「……」


「それがまた僕に伝わってきて」


「……」


「ちょっと、止まらないんです」


美咲は首をかしげた。


「……何が?」


「嬉しさが」


藤原は両手で顔を覆った。


「……幸せすぎて、気持ち悪い」


「ええっ!?」


五分後。


藤原はレストランのトイレに駆け込んだ。


美咲は一人、テーブルに残された。


「……」


水を飲む。


窓の外を見る。


もう一度、水を飲む。


十分後。


藤原が戻ってきた。


「……すみません」


「大丈夫ですか?」


「はい」


「……それで」


「はい」


「付き合ってくれますか?」


藤原は申し訳なさそうに頭を下げた。


「……ごめんなさい」


美咲は目を閉じた。


「……なんで?」


「佐倉さんと一緒にいると、幸せになりすぎてしまうんです」


「……」


「僕には、耐えられません」


美咲はゆっくり息を吐いた。


「……わかりました」


「本当にごめんなさい」


「いえ」


「佐倉さんは、素敵な女性です」


「ありがとうございます」


「きっと、いい人が見つかります」


美咲は微笑んだ。


そして、静かに言った。


「藤原さん」


「はい」


「今、私が何を考えてるかわかります?」


「……はい」


「じゃあ、口に出して言ってみてください」


藤原は少し青ざめた。


「……やめておきます」


「そうしてください」


その夜。


美咲は親友の真由に電話した。


「また振られた」


『……また?』


「うん」


『今度は何?』


「人の気持ちがわかりすぎるんだって」


『……は?』


「私といると幸せになりすぎて、気持ち悪くなるらしい」


電話の向こうが静かになった。


やがて真由が言った。


『……美咲』


「何?」


『あんた、もう婚活アプリ使いなよ』


「使ってるよ」


『えっ』


「今回の人、婚活アプリでも見つけたんだよ」


『……』


「プロフィールには『人の気持ちを大切にします』って書いてあった」


『……嘘じゃないね』


「嘘じゃないんだよねえ……」


美咲はベッドに倒れ込んだ。


四人目。


またしても、悪い人ではなかった。


ただ、恋ができない男だった。


一方、その頃。


藤原直樹は、自宅のソファに座っていた。


一人。


静かな部屋だった。


誰の感情も伝わってこない。


悲しみも、怒りも、不安もない。


ようやく落ち着ける。


藤原は目を閉じた。


そして、ふと、美咲のことを思い出した。


彼女が言った言葉。


『私が何を思っているかは、私が言います』


藤原は小さく笑った。


「……変わった人だったな」


そのとき、スマホが鳴った。


美咲からだった。


『今日はありがとうございました。藤原さんと出会えてよかったです』


藤原は画面を見つめた。


不思議だった。


文字だけなのに、彼女の気持ちが少し伝わってくる。


感謝。


寂しさ。


そして、わずかな怒り。


藤原は微笑んだ。


「……やっぱり、いい人だ」


返信しようとした。


しかし、その瞬間。


彼は気づいた。


今、佐倉美咲は自分のことを考えている。


そして。


自分もまた、彼女のことを考えている。


藤原はスマホを置いた。


「……まずい」


心臓が少し速くなった。


一人なのに。


相手が目の前にいないのに。


彼女の気持ちが、まだ伝わってくる。


藤原は天井を見上げた。


「……恋って、面倒くさいな」


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