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 決戦の土曜日の朝。


 俺は愛用している枕の心地よい感触からゆっくりと頭を上げ、完璧な目覚めとともにベッドから身を起こした。


 無重力のような極上の睡眠のおかげで、コンディションは最高潮。今日の合コン、俺が一人勝ちするための運命の歯車はすでに回り始めている。

 俺は洗面所に向かい、まずは寝癖のついた頭をシャワーで念入りに洗い流し、完全にリセットした。


 タオルドライでしっかりと水分を拭き取った後、いよいよ本番のベース作りに入る。ドライヤーの温風を根元から当てて、トップのボリュームをふんわりと立ち上げる。サイドのボリュームは熱風でタイトに抑え込み、バックは俺のコンプレックスである絶壁をカバーするように丸みを持たせる。


(ヘアセットはベースのドライヤーが8割を決める。ここでの妥協は死を意味する……)


 完全に髪が乾ききり、ベースのシルエットが完成したところで、お気に入りのハードワックスを指の第一関節ほどの量だけすくい取る。

 手のひら全体に擦り合わせ、ワックスが透明になるまでしっかりと体温で伸ばしきる。

 まずは後頭部から。根元からワシャワシャと空気を含ませるように揉み込み、そのままサイド、トップへと順に馴染ませていく。全体にワックスが行き渡ったところで、最後に指先に残ったわずかな量で前髪の毛先を整える。


(ここからが勝負だ……!)


 俺は息を詰め、親指と人差し指で毛束をミリ単位で細かくつまみ、ねじり、散らしていく。トップからサイドにかけての完璧な『ひし形のシルエット』と、計算し尽くされた無造作な束感。


「……よし。完璧だ」


 プロのピアニストである母のコンサートに帯同した際、待ち時間の暇を持て余していた俺に、母の専属スタイリストが直伝してくれた技術である。伊達じゃない。


 鏡の中の自分にニヤリと笑いかけ、俺は自室に戻って勝負服に袖を通した。

 初夏に近い気温だというのに、あえて選んだ分厚いフェイクレザーの黒いライダースジャケット。だが、これでいい。俺の愛車である漆黒のCBR250RRを駆る男には、このワイルドさと孤独を知る大人の色気こそが相応しい。

 俺はポケットに忍ばせたココアシガレットを取り出し、鏡の前で『エアタバコ』からのウインクを三回ほど反復練習した。


(勝った。今日の主役は間違いなくこの俺だ。あいつらも今頃、クソダサファッションを着込んでウキウキしてるんだろうな。フハハッ……)


 余裕の笑みを浮かべて、ふと壁の時計を見た瞬間。

 俺の心臓がヒュッと縮み上がった。


「……や、やべぇ!! 時間が!!!」


 ワックスの束感作りに異常なまでのこだわりを見せすぎたせいで、完全に遅刻ギリギリ、いや、むしろアウト寄りの時間になっていた。

 俺は慌ててココアシガレットをポケットにねじ込み、財布とスマホを掴んで玄関を飛び出した。


「やべぇ!! 時間が!!!」


 バンッ! と俺の家の隣のドアが開き、全く同じセリフを叫びながら幼馴染の結衣が飛び出してきた。

 そして、そのまま勢いよく俺と鉢合わせる。


「あっ……」

「おっ……」


 俺は一瞬、足を止めて結衣の姿を凝視してしまった。

 今日は少し大人びた淡いオフショルのトップスに、ふわりとしたシルエットのスカート姿。普段の飾り気のない制服や、家でのダボダボのスウェット姿しか見ていない俺にとって、それは強烈なギャップだった。


 結衣は俺の視線に気づくと、顔を赤くしてスカートの裾をギュッと握り、少し上目遣いで睨んできた。


「な、なによ……。じろじろ見て。……なんか、ないの?」

「なんか、って……」

「ほら、女の子が待ち合わせでオシャレしてきた時の、定番のセリフとか……」


 もごもごと口ごもる結衣。普段はツン10割のくせに、こういう時だけ妙に乙女な反応をしてくるからタチが悪い。


「あ、いや……普通に、可愛いじゃん」


 俺が少し照れ隠しにそう言うと、結衣の顔がさらにボンッと赤く染まった。


「ふ、ふんっ。あんたはまぁ……いつも通りね。髪だけはカッコいいじゃん! ……って、そんなこと言ってる場合じゃない!! 遅刻する!!」

「そうだった!! おい結衣、俺のバイクの後ろに乗せてやるから来い! 電車じゃ間に合わねぇ、裏道使ってぶっ飛ばすぞ!」

「えっ、ちょ、ちょっと! バイクなんて乗ったら私、髪ぐちゃぐちゃになるし、化粧とかあるんだけど!!」


 文句を言う結衣に俺が普段使っている高いフルフェイスヘルメットを強引に被せ、自分は予備の安物を被ってCBR250RRのエンジンに火を入れた。せめてもの俺なりの気遣いである。


「しっかり掴まってろよ! 振り落とされるなよ!」

「もーっ! なんで私がこんな目に……っ!」


 俺たちは遅刻の危機に焦りながらも、少しだけ心臓の音を速くして、決戦の地である駅前へと走り出したのだった。

 初夏の風を切り裂きながら、俺の愛車である漆黒のCBR250RRが幹線道路を疾走する。


 ――バイクで女性との二人乗り。

 それは、ラブコメというジャンルにおいて『背中に押し付けられる柔らかい感触(胸)』にドギマギし、主人公が自身の理性を総動員して煩悩と戦うという、王道にして至高の神イベントであるはずだった。


(……さあ来い。俺の背中に、その柔らかく温かい命の鼓動を……!)


 俺は風の抵抗を和らげるフリをして少し前傾姿勢になり、背中の感覚に全神経を集中させていた。

 結衣は振り落とされないように、俺の腰にしっかりと腕を回し、背中を完全に密着させているはずである。それなのに。


(……あれ?)


 いくら神経を研ぎ澄ませても、俺の背中には一切の『起伏』が感じられなかった。


(……幸せな感触が、皆無だぞ?)


 まるで、背中に硬いまな板、あるいは最新型の薄型テレビでも背負わされているかのような、圧倒的なまでの平面フラット


(……いや、絶壁とは知っていたが、まさかここまでとは……。これ絶対、真須の大胸筋の方がデカいし丸みがあるだろ……)

「痛っっ!!!」


 次の瞬間。

 幹線道路を時速ウン十キロで走行中にもかかわらず、俺のフルフェイスヘルメットが後ろからボコボコッ! と連続で激しく殴打された。


「ちょっと! 今、背中でものすごく失礼なこと考えたでしょ!!」

「な、なんで分かんだよ!? 超能力者かお前は! ていうか運転中に殴るな! 事故って死ぬ!!」


 ヘルメット越しに響く幼馴染の理不尽なテレパシー暴力にガチの命の危機を感じながら、俺たちはなんとか集合場所である駅前の駐輪場へと滑り込んだ。


「ぜぇ、ぜぇ……ま、間に合った……。途中でガチで死ぬかと思ったぞ……」


 駅の格安駐輪場にバイクを停め、俺はスポッとフルフェイスヘルメットを脱ぎ捨てた。

 爆走による冷や汗と、初夏の気温+分厚いライダースジャケットという地獄のコンボのせいで、俺の頭皮は完全にサウナ状態だった。


「ふぅ、死ぬかと思った……って、結衣?」


 隣を見ると、ヘルメットを脱いだ結衣が、俺の顔を見るなり両手で口を覆い、肩を小刻みに震わせていた。


「ぷっ……くくっ……あはははははっ!!」

「な、なんだよ!」

「ちょっとあんた、ライダースとか着て一人でイキってる割に……ヘルメットと汗のせいで、髪型が完全に『カッパ』になってるわよ! ダサすぎ!!」

「はぁ!?」


 慌ててバイクのバックミラーを覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。

 ワックスでガチガチに固めて作った完璧な『ひし形のシルエット』が、ヘルメットの圧力によって完全に押し潰されている。しかも、汗の水分とワックスの油分が変に混ざり合い、前髪だけがペリカンやくちばしのように前方に飛び出した、信じられないほど無惨な『カッパもどき』の男の姿があったのだ。


「う、嘘だろ……! 俺の朝の一時間が……!」

「あーあ。ワイルドな大人の男が台無しね。ぷぷっ」

「う、うるせぇ! 誰のせいで遅刻しそうになってぶっ飛ばしてきたと思ってんだ!」


 俺が涙目で抗議すると、結衣は笑いすぎた目尻の涙を指で拭い、呆れたように小さくため息をついた。


「はいはい、わかったわよ。恩に着るわ。……しょうがないなぁ。ちょっとそこの縁石に座りなさい」

「えっ?」

「ほら、早く。直してあげるから。じっとして」


 結衣は俺を花壇の縁石に座らせると、俺の前に立ち、その細い指先を俺の髪に差し込んできた。


「ちょ、お前……」

「動かないでよ。変になっても知らないからね」


 結衣の手が、ペチャンコになった俺のトップの髪を根本から優しくほぐし、空気を入れていく。

 至近距離に結衣の顔があり、フワリとシャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐった。真剣な眼差しで俺の髪をセットする結衣の顔が近すぎる。

 ただ、俺が座って結衣が立っているため、目線がちょうど結衣の胸元にきてしまう。


(……こういう時、壁なのは本当に助かるな)

「……殺すぞ」

「心を読むなぁ!!!」


 さっきまでは「絶壁」だの「まな板」だのと内心でディスっていたくせに、こうして優しく世話を焼かれると、なんだかんだ言って心臓の音がうるさくなってしまうのが男の悲しい性だ。


「……よし、こんなもんね。カッパからは無事に人間に戻れたわよ」

「お、おう。サンキュ……」


 少しだけ気まずく、しかし悪くない空気のまま、俺たちは駅前の集合場所へと向かった。


「おーい、悠馬! こっちだ!」


 待ち合わせ場所には、すでに『はみだしカルテット』の残り3人が陣取っていた。

 合流するなり、首からご丁寧にも一眼レフカメラを下げた篠山が、ジト目で俺と結衣を交互に見た。


「おい悠馬。なんでお前、高梨さんと一緒に来てんだ? まさか……」


(やばい、鋭い! ここで「幼馴染だ」なんてバレたら、学校では他人のフリをしろと命令している結衣にガチで殺される!)


「あ、いや! 地元の駅の近くで偶然会ったんだよ! な、結衣! お前ら家遠いから知らないだろうけど、俺たち最寄り駅一緒だし!」

「……結衣?」


 篠山の無機質な目が、スッと細められた。


「あっ」

「……ええ。そうよ。たまたま会ったから、一緒に歩いてきただけ」


 俺の失言をカバーするように、結衣がすかさず冷ややかなトーンで話を合わせてくれる。


「ああ、なるほど」


 篠山はあっさりと頷いたものの、その目は明らかに『幹事だからって勝ち誇った顔しやがって。合コンに誘えるくらいだから仲いいんだろうけど、マジでムカつく』と雄弁に語っていた。


「そういや、お前結構遠いもんな。てことは、高梨さんも遠いのか。わざわざこんな遠くまでご苦労なこった」


(よし、なんとかロリコンの腐った目は誤魔化せた!!)


 安堵の息を吐き、俺は改めて3人のファッションを見渡した。


「……ッ!!」


 そこには、ファミレスでの醜悪な騙し合いを見事に反映させた、大惨事と奇跡が入り混じるカオスな光景が広がっていたのだった――。

 ロリコンカメラマンの鋭い追及を誤魔化し、俺は改めて3人の親友ライバルたちのファッションを見渡した。


「……ッ!!」


 俺は思わず二度見した。

 そこには、あのファミレスでの醜悪な騙し合いを見事に反映させた大惨事と、予想外の奇跡が存在したのだ。


「フッ……遅かったな」


 真須である。

 彼は上半身にパンパンに張った大胸筋を強調するピチピチの迷彩タンクトップを着て、首からはダサいくらいデカい十字架のネックレスをぶら下げている。前に話していた麻布十番で飲んでいるIT系社長を本気で意識したらしい。


 しかし一番ヤバいのは下半身だった。自分でハサミを入れてワイルドさを演出した結果、『右足だけが半ズボンで、左足は長ズボンのまま』という、前衛的すぎるアシンメトリーな自作ダメージジーンズを履いていたのだ。


(……か、完全に迷走してやがる!!!)


 俺と篠山の嘘のアドバイスを全力で真に受けた結果、真須は『世紀末のヒャッハー系モヒカンザコ』へと見事なクラスチェンジを果たしていた。

 だが、驚くのはそれだけではない。


「おいおい、篠山。お前、あのフィッシングベストはどうしたんだよ」


 俺がツッコミを入れると、首から一眼レフカメラを下げた篠山はフンと鼻を鳴らした。


「あんな休日のフナ釣りしてるおじいみたいな服着てくるわけないだろ。俺はシンプルイズベストだからな」

「ちっ……」


 そう言い放つ篠山は、ボウリング場に向かうというのに、ガチガチのテーラードジャケットに細身のスラックス(ジャケパン)という、完全に『休日のお見合いパーティー(婚活)』みたいな出で立ちだった。

 フィッシングベストは回避したし、格好いいとは思うがTPOを完全に間違えている。


 そして、俺を一番驚かせたのは氷室だった。

 大量のドクロと3連チェーン、トゲトゲのリストバンドで完全武装してくるはずだったマザコン中二病は――。


「チッ……ママンのやつ、勝手に俺のタンスの中身を『燃えるゴミ』に出しやがって。仕方なく、ママンが最近買ってきた服を適当に着てきたぜ……」


 そう言って忌々しそうに舌打ちする氷室が着ていたのは。

 淡いブルーの爽やかなオックスフォードシャツに、細身のネイビークロップドパンツ。足元は清潔感のある白のレザースニーカーという、『めちゃくちゃオシャレで清潔感のある好青年の完璧なコーディネート』だったのだ。


((ママン、すげぇ有能じゃねぇか!!!))


 俺と篠山は戦慄した。俺たちの仕掛けた騙し合いの罠を、親のママンのガチなファッションセンスで物理的に粉砕しやがったのだ。


「おいおい真須ぅ。なんだお前その半分だけ千切れたズボン。金なくて布買えなかったのか?」


 清潔感の塊となった氷室が、真須の自作ダメージジーンズを容赦なくバカにする。


「て、テメェにインテリジェンス・マッスルの何が分かる!!」

「え?語彙力あるゴリラの第二形態?」

「……第三形態見せる前に三途の川渡らせてやろうじゃねぇか。マザコン厨二病野郎」

「お前が渡るんだぞ。世紀末ゴリラ」


 俺たちが身内争いをしていると、華やかな香りと共に女子たちが到着した。

 結衣の友達である、カーディガンがはち切れそうなくらい胸の大きなたわわをもつがそれを補うほどの『天然』で有名な望月もちづき葵。

 メガネをかけた真面目そうな『委員長』の藤堂とうどう栞。

 そして最後尾に、白い清楚なワンピースを着た、俺の絶対的ヒロイン・白雪凛だ。


「や、やあ! みんな、今日は来てくれてありがとう! すごく似合ってるよ!」


 女子を前にした瞬間、俺たち底辺カルテットは一斉に尻尾を振り、媚びを売り始めた。


「今日の服、マジで可愛いね! 天使かと思ったよ!」


 俺が「俺が一番褒めるの上手いぜ」とばかりに、幹事の余裕を見せつけて一番乗りで褒めちぎる。

「いや、俺のカメラで今すぐ全員を被写体にしたいぐらい美しいよ」と篠山が続き、「俺の大胸筋も喜んでるぜ」と真須が謎のアピールをした。

 しかし、女子たちの視線は、極北のブリザードのように冷酷だった。


「……えっと、あの。そのタンクトップの人。足のズボン、ちぎれてますけど……あと、ネックレスがすごく、その……怖いです……」


 葵が真須の姿を見て、本気で怯えたように栞の後ろに隠れた。


「っ……!?」


(真須のHPがゼロになった!)


「あと、そこのカメラ下げてる人。ボウリングしに来たのにジャケパンって何よ。最初から動く気ないわけ?」


 結衣が篠山の婚活ファッションをバッサリと切り捨てる。


「ぐふっ……!」


(篠山のHPもゼロになった!)


「でも、あちらの青いシャツの方(氷室)は、すごく清潔感があって素敵ですね」


 栞が、ママンの力でオシャレ好青年になった氷室を好意的に褒めた。


「フッ……まあな。いつも通りの格好できただけだけど……(ママンが選んだんだけどな)」


 氷室がまんざらでもない顔でドヤ顔をキメる。


(くそっ、マザコンの分際で一人だけ抜け駆けしやがって……! だが、俺にはこの大人の色気を放つライダースとココアシガレットが……)


 俺が前髪をかき上げ、必死にワイルドさをアピールしていると。

 最後に、白雪が俺の分厚いフェイクレザーのライダース姿をジッと見て、小さく息を吐いた。


「結城くんは……うん。まあ、想像通りだね」

「そうね。想像してた通りの結城君が歩いてきたって感じ」


 望月さんの言葉に、白雪も隣で呆れたように相槌を打った。


「えっ」


 良くも悪くも、驚きの一切ない、ただの事実確認。


「インテリジェンス・マッスル(笑)」と「婚活ジャケパン」が爆散していく中、一番イケメンで主役になるはずだった俺の評価は、『無難(むしろ初夏なのに暑苦しい)』という、一番おいしくない着地を迎えたのだった。

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