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「一生の親友」という熱苦しい誓いを交わした、あの河原でのサバイバルから数日後。
放課後の1年A組の教室は、オレンジ色の夕陽に照らされていた。
いつもなら放課後は教室に残ってから連れ立ってどこかしらへ行く俺たち「はみだしカルテット」だが、今日は勝手が違った。
真須と氷室は「ちょっと今日、バイトの面接があって!」とそそくさと下校してしまい、篠山に至っては行き先すら告げずに消えた。
(真須と氷室の奴ら……「女なんていらねぇ!」と叫んだ舌の根も乾かないうちに、ちゃっかり自分のコミュニティ広げようとしやがって……! 篠山は何も言ってなかったから、どうせまた幼女の尻の追っかけでもしてるんだろ、あのロリコン。ほんと救えねぇな)
完全に風評被害である。
俺は誰もいなくなった自分の席で一人、黄昏れていた。
まあ、俺も人のことは言えない。実は週末、親の紹介で結婚式場で歓談中にピアノのBGMを弾くバイトを入れている。3時間ぐらいの拘束で日給1万円近くもらえる、結構割のいい仕事だ。
俺は別に親と仲が悪いわけでも、ピアノ自体が嫌いになったわけでもない。ただ、自分のプレッシャーへの弱さに耐えきれず、コンクールの第一線から逃げ出しただけだ。それでもピアノは弾きたいから、腕を鈍らせないためにもこのバイトを続けている。
しかし、今日に限っては完全に暇だった。
教室の前方には、まだ数人の女子グループが残って、スマホを見ながら楽しそうに談笑している。
(……いや、待てよ。これは逆にチャンスなんじゃないか?)
俺の脳内に、都合のいい悪魔の囁きが響いた。
確かに俺は自己紹介で特大の自爆をかました。だが、あれは極度の緊張で痛いセリフが出ただけで、その後は女子との接点が一切ないから誤解されたままなのだ。
冷静に考えれば、あの河原で鳩や虫を食うサバイバル野郎や、ロリコンカメラマン、マザコンデスメタルバカという気狂いみたいな友人たちさえ隣にいなければ、俺のルックスもスタイルも、あの中では一番マシ(どんぐりの背比べ)なはず。俺はあの気狂い達と違って唯一まともだし、やり方次第では絶対にいける。
親友たちがいなくて寂しいのは事実だが、逆に考えれば、今なら『孤高のハードボイルドな男』を完璧に演出できる。群れから離れ、夕暮れの教室で一人、愛車に思いを馳せる物憂げな男……。完璧なシチュエーションだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、窓際に歩み寄った。
下を見下ろせば、駐輪場の隅に停められた俺の漆黒の愛車、CBR250RRが夕陽を反射して鈍く光っている。
俺は前髪を気怠げにかき上げ、窓ガラスに額をコツンと当てて、後ろの女子たちに「偶然」聞こえる程度の絶妙なボリュームで、ポツリと呟いた。
「……待たせたな。俺の『子猫』が、外で早く走らせろって泣いてやがるぜ……」
低く、甘く、危険な香りのする声色。
決まった。我ながら惚れ惚れするようなハードボイルドな独り言だ。何かいい感じに「えっ、結城くんって意外と大人っぽい……」みたいな話のきっかけになるに違いない。
しかし。
俺の背後から聞こえてきたのは、黄色い歓声ではなく、空気が急速冷凍されるようなドン引きのヒソヒソ声だった。
「……ねえ、今の聞いた? 子猫が泣いてるって……」
「ウソ。あいつらこの前、河原で鳩とか蜂の子食べてたヤバい集団でしょ? もしかして野良猫捕まえて……食べる気!?」
「うわっ、キモッ! 動物虐待じゃん!!」
「いや、もしかしてあのロリコン野郎と同じで、女子のこと子猫って呼んでるんじゃない? それはそれで普通にキモいんだけど……」
「どっちにしても最悪。マジで関わっちゃダメな奴じゃん」
「早く帰ろ、目つけられたらヤバいって!」
バタバタバタッ! と、逃げるような足音が遠ざかっていく。
――ブワァッ!!
俺の目から、滝のような涙が噴き出した。
(違う!! 動物虐待でもないし、キモいナンパ師でもない!! 俺の言う『子猫』は、俺のバイクのことだ!!!)
振り返って弁解しようとしたが、教室はすでにもぬけの殻だった。
残されたのは、絶対零度の静寂と、自分の痛すぎる独り言の残響だけ。
(……あれ? なんかむなしくなってきた……)
「……あーあ。今日も俺の青春は、見事に燃えカスになっちまったな」
ポツリと呟いた後、急に怒りが湧いてきた。
(これも全部、あいつらみたいなやべー三人が悪いに違いない。あいつら救いようないもんなー!! 俺の評判まで地の底だ!)
自暴自棄になった俺は、カバンを掴んで逃げるように教室を飛び出した。
特進クラス専用の特別棟を歩き、昇降口へ向かおうとした時。ふと、廊下の奥からピアノの旋律が聴こえてきた。
(……およよよー? 特別棟に、音楽室なんてあったのか)
音源は、突き当たりにある古い音楽室からだった。
曲目は、ベートーヴェンの『悲愴』第二楽章。ゆったりとした美しいメロディだが、表現力が如実に試される曲だ。
俺は無意識のうちに、ふらふらーっと歩きながら吸い寄せられるように音楽室のドアに近づき、そっと小さな窓から中を覗き込んだ。
「……っ」
そこにいた人物の、あまりにも凛とした横顔に、俺は思わず息を呑み、見惚れてしまった。
グランドピアノの前に座り、真剣な眼差しで鍵盤に向かっていたのは、同じ1年A組の女子、白雪 凛だった。
透き通るような白い肌に、艶やかな黒髪。入試もトップの成績で入学してきたらしく、誰に対しても冷たく、クラスの女子とも一切群れない。
以前、あの筋肉バカの真須が思い切って話しかけた時も、他の女子なら悲鳴を上げて逃げ出すところを、彼女は一瞥して「……そう」とだけ冷たい声で言い放ち、真須の心を一瞬でへし折ったという、ガチの『氷の女王』だ。
その彼女が、誰もいない音楽室で、こんなにも情熱的にピアノを弾いているなんて。
(感情がこもってて、いい音だ。……でも、少し硬いな。たぶん、ちゃんとした指導者についてない、我流の弾き方だ。響きが濁ってる)
俺が食い入るように彼女を見つめていると、不意に、ピタッと演奏が止まった。
「……覗き見なんて、趣味が悪いわね」
冷たい、文字通り氷のような声。
白雪は鍵盤から手を離し、肩越しに鋭い視線をこちらへ向けてきた。
「あ、いや……へへへ……」
俺は気まずさに頭を掻きながら、今さら逃げるのも不審者っぽいので、音楽室のドアを開けて中に入った。
「……なんで入ってくるのかしら?」
「わ、悪かったな。でも、廊下まで音が聴こえてきたから、つい。……すごい上手いな。感情が乗ってて、すごくいい演奏だった」
俺が素直に称賛したつもりだったが、白雪はツンとした表情を崩さなかった。だが、その口からは思いがけない言葉が出た。
「お世辞は結構よ。あなたみたいな、おも……変な人が、まともにピアノの評価をできるとは思えないわ」
(おも……? 今、面白いって言いかけたか? いや、それともキモいの聞き間違いか? それはそれで普通に辛いんだが!!!)
「俺の友達の変人扱いは否定できねぇけどさ。唯一まともなの俺ぐらいだろ?それとお前のその左手の伴奏、我流でやってるだろ? 少しペダルを踏みすぎだ」
「……え?」
白雪が、微かに眉をひそめた。
「メロディを響かせたいのは分かるけど、低音部でペダルを踏みっぱなしにしてるせいで、音が濁って潰れてる。あと、手首に力が入りすぎてるから、音が硬いんだよ」
「な……ッ」
白雪の目が、驚きと戸惑いで大きく見開かれた。
それは、素人の知ったかぶりではない。本当にピアノの構造と演奏技術を熟知している者にしか言えない、的確すぎるアドバイスだったからだ。
「もう少しペダルを浅く踏んで、手首の回転と指の独立だけでレガートを作った方が、音がずっと綺麗に響くぞ。ちょっと貸してみろよ」
俺は白雪の隣に歩み寄り、立ったまま、少し身を乗り出すようにして鍵盤に指を置いた。
白雪のシャンプーの甘い香りが、フワリと鼻腔をくすぐる。
俺はペダルをミリ単位でコントロールし、先ほど白雪が弾いていたフレーズを、立ったまま軽く弾いてみせた。
指の腹で鍵盤を撫でるように、しかし芯のある音で。
「…………ッ!!」
音楽室に、俺の弾いたクリアな旋律が響き渡り、スッと消えていく。
白雪は、信じられないものを見るような目で、俺の手元と顔を交互に見つめていた。
「あ、あなた……ただの口だけのイキリじゃなかったの……?」
その声には、先ほどまでの氷のような冷たさは消え、純粋な驚愕だけが混じっていた。
「イキリって……し、失礼な……。一応、歴だけで言えば12年だぞ。有名なコンクールで賞とか取ってたんだぞ」
「それだけの技術があるのに……どうして、あんな狂ったことばかりしているのかしら?」
「……狂ったことって言うなよ。いや、確かに俺の友達は狂ってるけど。……ゴホン。ピアノは今でも好きだよ。週末は結婚式場でピアノ弾くバイトもしてるし。暇さえあれば練習もしてる。でもさ……『プロだけがすべてじゃない』って、ある人が教えてくれてさ」
俺は少しだけ目を伏せた。
「このままプロになるために毎日毎日、プレッシャーの中で弾き続けてたら、すり減って潰れかねないって思ったんだ。だから、一旦距離を置いて、外の世界を見てみることにしたんだよ」
俺が笑いながら鍵盤から手を離すと、白雪はふいっと視線を逸らし、自らの手元に目を落とした。
「……あなたの言う通りね。私、ピアノを本格的に習ったことはないの。でも、中学の時に音楽室を貸してくれていた先生の紹介で、今度初めてのコンクールに出ることになって……正直私なんかが。って思ったし、断れないし、焦ってて、響きをコントロールできてなかったわ」
学年トップで、誰に対しても見下すような態度を崩さなかった『氷の女王』が、初めて俺の前で、素直に自分の弱音をこぼしたのだった。
その事実だけでも驚きだったが、次に彼女が発した言葉は、俺の耳をさらに疑わせた。
「……ね、ねえ。もう一回、さっきみたいに何か弾いてみてくれない?」
「え?」
「私、リストの『ラ・カンパネラ』が一番好きなの。……弾ける?」
上目遣いで、少しだけ頬を染めながらそう言った白雪の顔は、普段の冷徹な仮面が完全に剥がれ落ちていた。そこにあったのは、年相応の、純粋にピアノを愛する一人の少女の顔だった。
(……や、やばい。めっちゃ可愛いぞ、この女……!)
俺は内心の激しい動揺を隠し、あえて余裕の笑みを浮かべて前髪をかき上げた。
「フッ……いいぜ。お前のために、至高の鐘の音を響かせてやるよ。俺の指先が奏でる魔法に、酔いしれな」
少し滑った自覚はあったが、ハードボイルドな男としてはこれくらい言っておくべきだろう。俺はマントを翻すような身振りで、グランドピアノの椅子に腰を下ろした。
(ふぅ……)
深呼吸を一つ。
俺は鍵盤に指を落とし、あの有名な、そしてピアニストにとって悪夢のような鐘の音の主題を弾き始めた。
超高速で跳躍する右手。繊細さを要求されるトリル。
ブランクがあるとはいえ、長年身体に染み付いたガチ勢の動きは嘘をつかない。俺は無意識のうちに集中モードに入り、見事に弾ききってみせた。
「…………すごい。本当にすごいわ……」
白雪が目を輝かせて、パチパチと小さな拍手を送る。
「はぁーっ……疲れた。マジでリストは鬼畜だよな」
俺は肩で息をしながら、鍵盤から手を離して笑った。
「右手のあの跳躍、毎回『当たってくれ!』って神に祈りながら叩いてるもん。あの高音の一音だけ弾く人雇った方がいいと思うぜ」
「ふふっ……雇うって。演奏中に誰が横から手を出して弾くのよ」
普段の冷たい『氷の女王』からは想像もつかない、無防備で可愛らしい笑い声。
夕陽に照らされたその笑顔があまりにも綺麗で、俺は一瞬、息をするのも忘れて見惚れてしまった。
俺の視線に気づいたのか、白雪はハッとして口元を手で覆い、少し恥ずかしそうに頬を赤らめてそっぽを向いた。
(……うわ、やば。笑ってくれた。めちゃくちゃ嬉しい)
普段冷たい女の子が照れる姿の破壊力は凄まじい。俺はもっと彼女の笑顔が見たくて、彼女のツボをさらに突いてやることにした。
「だろ? しかも後半なんて、筋肉の疲れじゃなくて『絶対外す』っていう緊張との戦いだからな。俺にピアノを教えてくれた人なんか感覚派の極みでさ、あの跳躍のところで『そこはもっと月のように! 水面のように!』とか謎の指導してきて、マジで意味不明だったし」
「あははっ! 月って……!」
白雪が、とうとうお腹を押さえて声を出して笑い始めた。俺はさらに調子に乗ってピアノあるあるを続ける。
「あとさ、ショパンってペダルとルバートでいくらでも誤魔化せるけど、バッハは一切誤魔化し効かないからマジ無理」
「わかる! バッハのフーガとか、一音間違えたら全体が崩壊するから絶望するわよね」
二人で顔を見合わせて、ふふふ、と笑い合う。
クラシック漬けだった者同士にしか分からないマニアックな愚痴。それだけで、俺たちの間の見えない壁は完全に消え去っていた。
「……あなた、本当にピアノが好きなのね」
白雪が、柔らかい表情で俺を見た。
「まあな。……じゃあ、せっかくだし少し合わせてみるか。サティの『ジムノペディ』とか、モーツァルトの『きらきら星変奏曲』のテーマとか、簡単なやつならいける?」
「きらきら星変奏曲なら、弾いたことあるけど、……簡単な方よ?」
「よしきた! さ、弾こうぜ」
俺はそう言って椅子を少し右にズラし、ポンポンと隣のスペースを叩いた。
二人で座るには、ピアノの椅子は少し狭い。肩と肩が触れ合いそうな距離。隣に座った白雪のシャンプーの甘い香りがフワリと鼻腔をくすぐって、俺の心臓はさっきから信じられないくらい速いテンポで跳ねていた。
「えっ……でも、私、楽譜がないと……」
「いいから。間違えても誰も怒らねぇよ。音楽は『音を楽しむ』って書くんだぜ」
俺はそう言うと、軽快なジャズ調のウォーキングベースとコードを弾き始めた。
最初は戸惑っていた白雪だったが、俺のリズムに誘われるように、恐る恐る右手でメロディを重ねてくる。
ポロン、ポロロロン……。
最初はたどたどしかった彼女の旋律が、俺の伴奏に乗って、次第に熱を帯びていく。
ガチガチのクラシックしか弾いてこなかったであろう彼女の音が、自由なリズムの中で、まるで羽ばたくように跳ね回る。
「……あ」
白雪の指が、ミスタッチをした。
だが、俺は演奏を止めず、そのミスタッチすらもジャズの『ブルーノート(外れた音)』として拾い上げ、コードを変えて強引に曲の中へと組み込んだ。
「……ふふっ」
隣で、白雪が吹き出すように笑った。
「なにそれ、ズルい。そんなのありなの?」
「ありあり。今のミスタッチ、めっちゃジャジーでカッコよかったぜ」
「バカにしてるでしょ。……もう、なんだか調子狂うわね」
そう言いながら、白雪は俺の方を向いて、心底楽しそうに笑った。
それは、誰も見たことのない、氷の女王の『春の雪解け』のような微笑みだった。
俺たちはお互いに顔を見合わせながら、言葉を交わす代わりに、音で会話をした。
息を合わせ、テンポを揺らし、一つの音楽を二人で作っていく。ピアノを通じて、彼女の負けず嫌いな性格や、音楽に対する真摯な情熱が、指先からダイレクトに伝わってくる。
(なんだこれ……めちゃくちゃ楽しいじゃねぇか……!!)
俺が夢にまで見た、キラキラとした青春。
可愛い女の子と隣同士で座り、一つのことに没頭して笑い合う。カス達の様なモテるための薄っぺらいハリボテの趣味なんかじゃない、俺の本当の武器で。
(ふふっ……あのゴミクズみたいな底辺の三人とは大違いだ。あいつらと一緒にいたのは、あいつら友達がいなくて可哀想だったから、哀れみで付き合ってやってただけだしな。惨めな奴らが肩を寄せ合って、泥水すすりながら傷を舐め合ってるだけの掃き溜めカルテット……。それに比べて、俺は今、本物のヒロインと青春してるぜ!)
俺は今、間違いなく『ラブコメの主人公』になっていた。
窓から差し込む夕陽が、俺たちの背中を温かく、そしてドラマチックに照らしている。
――しかし。
俺は浮かれすぎていて、完全に忘れていたのだ。
ここが、ラブコメのようなユートピアではないという絶対的な事実を。
その最高の瞬間を、『外から』冷ややかに見つめる目があることに、俺たちは全く気づいていなかった。
特別棟の裏手。
音楽室の少し開いた窓の隙間から、黒々としたスマホのカメラレンズが、親しげに身を寄せて連弾する俺と白雪の姿を、じっと狙っていた。
――カシャッ。
無音カメラアプリの静かなシャッター音が、夕暮れの風に溶けて消えた。
この『氷の女王との密会写真』が、あの河原で誓い合ったはみだしカルテットの「一生の親友の絆」を、いとも容易く、そして無残に引き裂く裏切りの火種になることなど。
そして、翌日から俺の学園生活が、さらなる地獄へと突き落とされることなど、この時の俺は知る由もなかったのだ。




