10話
ガラガラッ……。
「おは……ざーっす……」
翌朝。教室のドアを開けた俺の姿を見て、クラスメイトたちは一斉に息を呑んだ。一部の女子に至っては「ヒッ」と小さな悲鳴すら上げていた。
それもそのはずだ。昨夜、早朝からバイトし、路地裏で半裸になっていた変態執事に巻き込まれ、おひねりの半分を溶かしながらのカラオケオールをキメた俺の顔面は、完全に血の気を失い、シベリアの永久凍土のような土気色になっていたのだから。目の下には、マリアナ海溝よりも深いドス黒いクマが刻まれている。
(ダメだ……一睡もできなかった……。とりあえず1時間目の現国は、教科書でバリケードを作って完全に気絶しよう……)
フラフラと千鳥足で自分の席に向かい、カバンを放り投げる。
冷たい机の表面に頬をつけ、ようやく泥のような眠りに落ちようとした、まさにその瞬間だった。
「悠馬ッ!!」
ガシッ!!
「えっ、ちょ、おま……っ!?」
肩を強引に掴まれたかと思うと、俺の視界がグルンと回転した。
次の瞬間、俺は米俵のようにひょいっと肩に担ぎ上げられていた。
「なんだよ氷室……。俺は今から、三途の川のほとりで小石を積む大事なバイトに行かなきゃなんねぇんだ……頼むから下ろせ……」
「悠馬、悪いが少し付き合ってもらうぞ!! どうしてもお前の力が必要なんだ!!」
俺の死にそうな顔色や、今にも途切れそうなかすれ声など全く耳に入っていないらしい。
氷室は有無を言わさぬ腕力で俺を担いだまま、ズンズンと廊下を歩き、階段を駆け上がり、誰もいない吹きさらしの屋上へと強制連行していった。
「……で? 徹夜明けでHPがマイナスに振り切ってる俺を、わざわざこんな吹きさらしの屋上に拉致して、一体何の用だよ」
コンクリートの冷たい風に吹かれながら、俺は恨みがましい、かつ殺意のこもった半目で氷室を睨みつけた。
対する氷室は、屋上のフェンスに寄りかかり、なぜか神妙な面持ちで風に前髪を揺らしている。
「悠馬……頼むっ!! 望月さんに送る新曲のコード進行をつけてくれ……!!」
勢いよく頭を下げた氷室の言葉に、俺の眠りかけていた脳ミソが、一瞬だけフリーズした。
「……は?」
俺はこめかみを揉みながら、記憶の糸をたぐる。
「お前……俺のこの死にそうな顔色見えないのか。ていうかお前、入学の時の自己紹介で『特技は作曲。俺の刻むアンビエント・デスメタルで世界を闇に染める』とか言って、自分で作曲するって豪語してなかったか?」
俺の正論に対し、氷室は悔しそうにギリッと唇を噛み締め、ポツリと呟いた。
「……無理だった。俺、ギターの『Fコード』で完全に挫折した。2回指つって諦めた……」
「音楽の才能ゼロじゃねーか!! なんで曲作ろうと思ったんだよ!!」
俺の渾身のツッコミが、朝の屋上に虚しく響き渡る。
Fコードの壁。それは全世界のギター初心者が最初にぶち当たる分厚い壁であり、多くの挑戦者を葬ってきた初心者殺しのコードである。しかし、アビスだのデスメタルだの豪語していた男が、最初の壁で指をつって挫折しているのはあまりにもダサすぎた。
「だ、だが! 歌詞を書くのは得意なんだ!! 俺の溢れ出るアビスの感情を、魂の言葉として文字に起こすことならできる!」
「はぁ……」
俺は深いため息をつき、乱れた前髪を掻き毟った。ここで断っても、コイツのことだから「ブラザーの絆が〜」とか言って一生付きまとってくるに決まっている。
「……とりあえず、ベースになる歌詞(曲の構成)を見せてみろよ。俺もDTMは若干かじった程度しか知らんぞ? ピアノで適当なコード当ててやるくらいならやってやるから……」
「ほ、本当か!? 恩に着るぜ悠馬!! 見てくれ、これが徹夜で書き上げた俺の魂の叫びだ!!」
氷室は目を輝かせ、ブレザーの内ポケットから、黒い革張りの無駄に重厚なノートを取り出し、自信満々に俺に差し出してきた。
俺は重い瞼をこすりながら、そのノートの1ページ目を開いた。
そこに万年筆の達筆な字で書かれていたのは、信じられないような言葉の羅列だった。
『漆黒の堕天使が刻む鼓動……』
『血塗られた愛の輪廻……』
『我が身を焦がすは、君という名の煉獄……』
「…………」
俺は静かにノートを閉じ、白目を剥いた。
なんだこれは。致死量の厨二病だ。曲の歌詞というより、深夜のテンションで書き殴った黒歴史ノートそのものではないか。読んでいるこちらの背筋がゾワゾワと泡立つほどの破壊力がある。
「どうだ? 魂が震えるだろう?」
「いや、俺の視神経と羞恥心が震えてるわ。……お前、これを本気で同級生の女子(望月さん)に送る気か……?」
「ああ! 望月さんなら、俺のアビスの底にある真の愛を理解してくれるはずだ!」
ダメだ、完全に仕上がっている。
俺が頭痛を堪えて顔を覆っていると、氷室がノートを再び開き、特定の一箇所を指差して身を乗り出してきた。
「なぁ悠馬。このサビの『我が身を焦がすは、君という名の煉獄』のところでさ……一気に世界が崩壊する感じを出したいんだよ。できれば絶望的なシャウトも入れたいし」
「世界が崩壊する感じ。……要するに、不協和音スレスレの転調? したいん?」
「え! そう!! それ!! さすが悠馬、分かってるじゃねぇか!! そこで一気に絶望と愛が入り混じったような、カオスで壮大な音にしてくれ!!」
氷室が嬉しそうに吠える。
俺の脳内では、極限の疲労と睡眠不足、そして眼前の致死量の厨二ポエムが、最悪の化学反応を起こし始めていた。
「……分かった。世界が崩壊するほどの絶望だな? いいぜ、俺の徹夜明けのハイテンションとヤケクソの全てを注ぎ込んで、お前のその痛々しいポエムを、モーツァルトも裸足で逃げ出すレベルの『芸術』に昇華してやる」
「うおおおっ!! さすが悠馬だ!!」
「ただし! 放課後、駅前の防音設備が整ったガチの音楽スタジオを借りろ。設備費から機材レンタル代まで、当然全額お前持ちだぞ」
「任せろ!! 俺のバイト代を削ってでも、最高の環境を用意してやる!!」
こうして、徹夜明けで判断力が完全にバグっていた俺と、恋と厨二病をこじらせた元ヤンによる、地獄の楽曲制作プロジェクトが幕を開けたのだった。
⭐︎
そして、放課後。
三途の川で石を数えるバイトを終えた俺たちは学校を飛び出し、駅前にあるガチガチの本格的な音楽レンタルスタジオにいた。
室内には巨大なミキシングコンソール、壁には高級な吸音材、そしてフロアの中央には鎮座するグランドピアノ。プロのバンドがレコーディングに使うような一部屋だ。
「……おい氷室、わざわざ高い方の部屋借りたのか。機材レンタル含めて、数時間で数万円は軽く飛ぶぞ」
「構わん! バイト代など、この日のためにあったのだからな!」
財布の底が尽きる恐怖よりも、厨二病の情熱が勝っているらしい。
「まぁいい……。俺はもう限界だ、とっとと終わらせるぞ」
俺はグランドピアノの前に座り、持ち込んだノートPC――氷室の私物だが、なぜか案外そこそこのDTMソフトが入っていた――とスタジオの機材を繋いで立ち上げた。
この時の俺の脳内は、昨夜からの完全徹夜と極限の疲労により、ランナーズハイならぬ『スリープレス・ハイ(睡眠不足の絶頂)』に突入していた。もはや「どうにでもなれ」という謎の全能感に包まれていたのだ。
「いいか氷室。お前のあの痛てぇポエムを、俺が最高の絶望に仕立て上げてやる。震えて待ってろ」
そこからの俺は、完全に何かに憑りつかれていた。
鍵盤に指を這わせ、まずは荘厳なパイプオルガンの重低音を打ち込む。そこに、ガチの指さばきで、美しくも物悲しいピアノのアルペジオを重ねていく。
さらに、分厚いストリングス(弦楽器)の音色を追加し、ティンパニの重低音を響かせる。
そして、氷室がこだわっていたサビの『煉獄』のフレーズ。
ここで俺は、マイナー(暗い調)からメジャー(明るい調)へ、そして再びマイナーへと、音楽理論のギリギリを攻める狂ったような転調を連続で叩き込んだ。まるで世界が本当に崩壊し、天国と地獄が入り混じるようなカオスで壮大なメロディ。ダークファンタジーRPGのラスボス戦BGMのような、高校生のDTMとしては無駄にクオリティが高すぎる劇的な伴奏が組み上がっていく。
「うおおおおっ……! すげぇ……!! 悠馬、お前マジで天才か……!!」
防音ガラスの向こうで、氷室が鳥肌を立てて震えている。
「よし、オケ(伴奏)は完成だ。……おい氷室、マイクの前に立て。声を吹き込むぞ」
「おう!!」
ヘッドホンを装着し、マイクの前に立つ氷室。
さぞかし激しいデスメタルのシャウトを響かせるのかと思いきや――コイツは一切、メロディに乗せて「歌う」ことをしなかった。
『……漆黒の堕天使が刻む、ビート』
流れてくる壮大なオーケストラをバックに。
氷室は、目を閉じ、己の胸に手を当てながら、ただひたすらに低音のイケボで『ポエトリーリーディング(詩の朗読)』を始めたのだ。
『……血塗られた、愛のカルマ。……フッ、笑えるだろう? 逃れられぬアビスの引力が……』
「おいストップ!!」
俺はミキサーのトークバックスイッチを押し、防音ブースに向かって怒鳴った。
「勝手に台詞増やすな! 音の尺とリズムがズレるだろ!!」
「だ、だが! 曲を聴いてたら、内なる感情が溢れて止まらねぇんだ!!」
「ならその感情を、きっちり指定したテンポと小節数に収めろ!! 妥協すんな! お前の望月さんへの思いはそんなもんか!? 最初につまずいて、ここでも諦める気か!!」
徹夜明けのバグったテンションのせいか、俺のプロデューサーとしての謎の熱血指導が炸裂する。
俺の激しい檄を受けた氷室は、ハッとしてマイクを両手で握りしめた。
「……ッ!! やる!! 諦めるもんか!! お前が徹夜明けで死にそうになりながら、ここまで本気で音を作ってくれたんだ……! 俺も絶対に逃げたくねぇ!!」
「……上等だ。なら、俺の音に全力で食らいついてこい!!」
「ああ!!」
熱い。無駄に熱すぎる。
完全に感化された俺は、ツッコミを放棄してミキサーのつまみを操作する。氷室の痛すぎる囁き声に、深いリバーブ(残響)やディレイ(山びこ効果)をたっぷりとかけ、無駄に神々しく立体的な音声へと加工していった。
『我が身を焦がすは、君という名の……煉獄……ッ!!』
サビの狂った転調に合わせて、氷室が苦しそうに吐息混じりのシャウト(囁き)を絞り出す。
ハリウッド映画のクライマックスのような超絶壮大な音楽と、男子高校生が真顔で語る痛すぎる厨二ポエム。そのクオリティの高さと中身のヤバさのギャップが天元突破しており、もはや一種の『前衛的すぎる放送事故』が爆誕していた。
数時間後。
完成したデモ音源(氷室のポエトリーリーディング+俺のガチ伴奏)をスタジオのデカいスピーカーで聴き返し、氷室は床に膝をついて、感動の涙をボロボロと流していた。
「……完璧だ……ッ!! 悠馬、ありがとう。これで、俺の愛は間違いなく望月さんに届く……!」
「……勝手にしろ。俺の仕事は終わった……もう帰って寝る……」
灰のように真っ白に燃え尽きた俺は、機材の片付けをしながらフラフラと立ち上がった。
「あ、そうだ氷室。これ、データでポンッと送るより、CDとかに焼いて渡した方が『俺の作った曲感』が出て雰囲気出るかもな。ただ、ちゃんとパッケージとか盤面印刷まで業者に頼んでプレス(書き出し)するなら、追加で数万円の費用とデータ作成の手間がかかるぞ?」
俺が何気なくそう言うと、氷室は涙を拭い、ギラリと目を光らせて立ち上がった。
「金ならなんとかする!! 俺の命に代えても、残りのバイト代と貯金を全て削って、死ぬ気で費用を用意してやる!! だから悠馬! パッケージのデザインとプレス業者への入稿作業まで、全部お前に頼んだぞ!!」
「いや俺にやらせんのかよ!! 作曲だけじゃねぇのかよ!!」
俺の悲鳴は、スタジオの防音壁に空しく吸い込まれていった。
限界を迎えていた俺は、そのままふらふらと電車に乗って(流石にバイクで通う余裕がなかった)帰り、家に着くや否やソファにバタッと倒れ込み、「もうどうにでもなれ……」と泥のような眠りに落ちていった。
――だが、この時の俺は知る由もなかった。
後日、徹夜明けのヤケクソと謎の友情によって生み出されたこの『狂気の愛のポエムCD』が原因で、望月さんを巻き込んだとんでもない悲劇が引き起こされることになるなどとは……。




